しあわせ
コテージに帰ってくるころには、すっかり日が暮れていた。
山道を自転車で登ってクタクタだった。本当に電動アシスト自転車でよかった。
あと、やっぱり腕といい脚といい、派手に蚊に刺されまくった。
それからわたしたちは分担して、夕食の準備を始めた。
深杜とネルちゃんはああでもない、こうでもないと激論を交わしながら、バーベキューコンロの炭に火を点けようと悪戦苦闘している。
わたしと石川さんはキッチンでお米を研いだり、サラダの野菜を切ったりしていた。
「ああ、火が点かないみたい。大丈夫ですかね」
わたしが呆れて笑うと、隣で石川さんもくすくすと笑った。
「勢い余って変なことしないといいですけど」
ネルちゃんがティッシュやら新聞紙やら、この世のありとあらゆる可燃物をかき集めているように見えたけど、大丈夫だろう。たぶん。
「……石川さん、一人旅ってよくするんですか?」
「しますよ。旅っていうか、イベントの遠征が多いですけどね」
「わたし、一人で遠く行ったことないから、石川さんちょっとかっこいいなって思いました」
「一人が好きなんですよ、気楽で。根岸さんだってそうでしょう?」
「はい。ただわたし、出不精なんで」
わたしは笑った。
「……少し前までは、本当にあちこち飛び回ってたんですけどね」
石川さんは手を止めて、じっとまな板を見つめている。
「そういえば、ちゃんと話したことはなかったですね。私、前にちょっと同人活動みたいなこと、やってたんですよ。二次創作って、わかります?」
「はい。なんかの作品のキャラを使って、お話を作るみたいなやつですよね?」
「そうです。今思えば本当に、原作とキャラクターにおんぶにだっこな、拙い代物でしたけど、櫻木さん……萌音さんはいたく気に入ってくれて。即売会のブースに、あの人が乗り込んできた時は驚きましたよ」
「萌音さん、アニメのキャラみたいですもんね」
わたしが言うと、石川さんは懐かしそうに笑った。
「ねぇ。それで、私と櫻木さんは仲良くなって、どちらからともなく、ひとつの作品を好きになったんです。日常生活がそれ一色になるくらいハマって、イベントがあれば九州でも北海道でも行きましたよ」
さっき萌音さんと話していたのは、その頃の話なんだ。
「女の子たちがバンドをするお話で、心理描写やシナリオの作りが秀逸で、惚れこんでしまって。ベースの子推しの私は、その影響でベースを始めました。私のフレットレスの5弦ベースは、その子が作中で使っていた楽器なんです。ちなみに櫻木さんは、ドラムの子推し。ネルにそっくりなんですよ、その子」
そう言って石川さんが笑う。何とも言えない寂しげな笑顔だった。
「その作品は、可愛い女の子達が沢山出てくる、どちらかというと男性向けの作品だったんです。私はそれまで通り、二次創作を描いたり、ベースの演奏動画なんかも上げたりして。その界隈ではそこそこ名が知られるようになって、仲間もたくさんできました。けれど、私が女だと知られると……」
石川さんは少し苦しそうに言葉を続けた。
「……SNSに誹謗中傷が届くようになりました。私が、男性にちやほやされるため、媚を売っていると。自分のために、作品を利用していると」
「そんなのって……!」
「とうとうある日、即売会のブースで面と向かってそれを言われた時、私の心は折れてしまいました。『原作がなければ何も作れないくせに』……それは、私が密かに自分に感じていた事でもあったから」
聞いているだけでむかむかと、怒りが湧き上がってきた。
好きなものをただ楽しんでいる人に、難癖をつけて足を引っ張るような行為は、わたしが一番許せない類の邪悪そのものだった。
「それからは私は、目立つような事を極力避けて、好きなものは一人で楽しむようになりました。そうしなければ、自分が本当にそれを純粋に楽しんでいるのか、自分でも信用できなくなってしまったんですよ。それで櫻木さんとも顔を合わせづらくなって……って、ちょ、ちょっと根岸さん?」
石川さんはわたしの様子に気付いてぎょっとした。目にいっぱい涙を溜めているわたしを見て。
「な、なんで根岸さんが泣くんですか!?」
「石川さん、だって、だって……」
好きなものを好きと言えない苦しみは、痛いほどわかる。他人事だと思えなかった。まして、石川さんの受けた傷はわたしなんかより何倍も深いはずだ。
石川さんは優しい表情でわたしを見ていた。
彼女の薄い唇の両端が少し上がって、うっすらと微笑のかたちを作った。
「……ありがとう、根岸さん。ねえ、初めてお会いした時のこと、覚えてます?」
「もちろん! 石川さん、めっちゃ警戒してましたよね」
わたしの答えに、石川さんは申し訳なさそうに手を合わせた。
「そうでしたね、本当にすいませんでした。だって、ユヅキさんが変なこと言ってたから……」
なにを吹き込んだんだあの人は。
「それはそれとして、私、根岸さんには本当にびっくりしたんですよ。えっ? この人なんにも考えてないんだ、って」
「……」
わたしがじろっと目で抗議すると、石川さんはいかにも可笑しそうに笑った。
「ふふふ、もちろん良い意味で、ですよ。だって根岸さんって、『音楽をやる』ってこと意外、本当に何も考えてないじゃないですか。バンドを組んだこともない、ライブやろうと思ったこともない。誰のためでもなくて、何のためでもなくて、『音楽のために音楽をやってる』じゃないですか。いませんよ、そんな、無垢な人って」
「単に閉じこもってただけですよ。その結果、そうなっただけで……ネルちゃんにも言われましたしね、ガラパゴス女だって」
「……ねえ、根岸さん」
石川さんは包丁でトマトを切りながらゆっくりと言った。
「私、今度こそ好きなものを貫きたいんです。あなたみたいに、好きなことをただそれだけのためにやりたい。他人に何て言われたって、独りになったって構うもんですか。あのベースを弾き続けることが、今の私にとっての推し活なんですよ」
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
夏の夜空の下で、みんなとバーベキューをした。
お肉は焦げたり生焼けだったり、なかなか上手に焼けなかったけれど、美味しかった。みんなずっと笑っていた。
辺りには他に建物も、街灯すらなくて、空いっぱいに星が光っていた。
夏の夜の空気はひんやりとして、木と土のにおいがして、うっとりするくらいに甘くて、胸が詰まるくらいだった。
「この辺には何もないから、どれだけ騒いでても平気だよ」という三崎さんの言葉に甘えて、わたしたちは騒いで、大きな声で笑った。
深杜がわたしのアコギを持ち出してきて、歌を歌ってくれた。
ちょっと恥ずかしくなるようなシチュエーションなのに、焚火の明滅に照らされた深杜の姿は映画のワンシーンのようで格好良かった。
初めてちゃんと深杜の歌を聴いたネルちゃんと石川さんは、終わるなりすごい勢いで立ち上がって拍手をした。
「深杜さん! あたし、鳥肌立っちゃいましたよ! ほら!」
「素敵でした! 綺麗なミックスボイスですね!」
「だからわたし、ボーカルは深杜がいいと思うんだよ、どう考えても」
「やだよ、私」
わたしの何度目かの提案を、深杜はきっぱりと断った。
「歌うのはここいだから。じゃなきゃ、私やらない」
このバンドのボーカルはずっとわたしが務めている。それは成り行きでそうなってしまっただけで、さっさと上手い人に譲ってしまいたいというのが本音だった。
深杜がそこまでわたしの歌を買ってくれている理由がわからない。バンドのクオリティを考えたら、どう考えても深杜が歌った方がいい。
謙遜でも遠慮でもなく、理屈でそう思う。
「歌える人が複数いるのは良い事じゃないですか。曲によってボーカルを変えてもいいですし」
石川さんが間を取り持つようにそう言った。
「コーラスだって入れられますよ。あたし、音痴なんでお任せしますね」
ネルちゃんがそう言って、その話は棚上げになった。
それから食器を片付けて、みんなで順番にお風呂に入った。
浴槽は広々としている上にジェットバスまで付いていて、疲れた身体に沁みて、思わず湯船でおっさんのような低いため息が出た。
お風呂から上がったあと、わたしは楽器のある部屋に行って、アンプにギターを繋いで気ままに弾いた。
寝間着のへろへろのスウェットを着て、遠い岩手の山の中でギターを弾いている、その状況がへんてこでおかしかった。
しばらく弾いているとネルちゃんもお風呂から上がってきて、ドラムを叩き始めた。
モコモコの可愛いつなぎみたいな部屋着を着ていて、それでドラムを叩いている姿は、やっぱりへんてこだった。
深杜もすぐに来てそこに加わった。
三人でしばらく即興演奏みたいなことをしていると、お風呂上がりの石川さんがやって来た。今日は『トペ・コンヒーロ』と書かれた真っ赤なTシャツを着ている。
それからしばらく皆で、気の赴くままに演奏をした。気持ちが良くて、いつまでも弾いていられそうだった。
「深杜、いい加減お風呂入ってきなよ」
わたしが促すと、深杜は恨めしそうな顔をして渋々浴室に向かった。
しばらくしてから皆でこっそりお風呂場に向かい、照明を落とすと、中から
「きゃああああああ!!! 何!? 何!?」
と、可愛い悲鳴が聞こえて、わたしたちはげらげら笑った。
◇◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇
寝室に入ると、さすがに皆疲れていたようですぐに静かになった。
わたしもすぐに眠りについたけれど、何かの拍子にふと目が覚めてしまい、そこからは目が冴えて眠れなくなってしまった。
わたしはそっと寝室を抜け出して、冷蔵庫からミルクを出し、マグカップに注いでレンジにかけた。
マグカップを手に、静かにドアを開け、外に出る。
山の空気はひんやり冷たくて、懐かしいにおいがして、胸がきゅっと締め付けられた。
辺りを取り囲んだ木々がざわざわと騒いでいる。その背後には山々の大きな影が、少し怖いくらいの威容でわたしを見下ろしている。
そして頭の上にはぞっとするくらい綺麗な星空があった。
さっきみんなと見た時よりずっと鋭さを増した、冷たい光点が空を埋め尽くしている。月は信じられないほど煌々と輝いて、表面の模様がくっきりと見えた。
都会の空が豆電球なら、ここのはLEDだなあと、わたしは風情のないことを考えた。
デッキに置いてあった椅子を片手で苦労しながら引きずっていって、広場の真ん中に置いて、そこに座った。
星空の下、木々の腕に抱かれて……なんて感傷に浸ろうと思ったら、カエルの声がゲコゲコうるさすぎて、思わず一人で笑ってしまった。
「しあわせだなあ」
わたしはぽつりと、声に出して呟いた。
思えばそれは、わたしの口から初めて聞いた言葉だった。その音はわたしの胸に反響して、実感となって身体中に響いた。
そしていつも通り、すぐに胸が苦しくなった。
こんなの、いつまでも続くわけがないと思った。
いつか鬼がやってきて、何もかもひっくり返してしまうに違いない。だって、これまでもそうだったんだから。
今までわたしは、そうなる前に自分から離れることを選んできた。鬼にひっくり返される前に、自分でひっくり返してしまっていた。そうして、弱い自分を守ってきたのだ。
けれど、もうそれができる段階はとっくに過ぎてしまっていた。そうするには、わたしはみんなに愛着を持ち過ぎてしまった。
もうこの先ずっと、鬼の足音に怯えながら、石を積んでいくことしかできないのだ。
「やだな。こわいな」
つぶやいたわたしの声は弱々しく震えていた。
わたしはいつまでこの臆病さと人間不信に振り回されて生きるんだろう。自分自身が情けなくて仕方がなかった。
それなのに。
今だってわたしはこんな星空の下に、ぽつんと独りでいて、どこか居心地の良さを感じている。
皆が家族の中に感じる安堵を、わたしは孤独の中に感じるのだ。
いつも独りだったわたしにとって、それは強がりでも自虐でもなんでもない、当然の帰結に過ぎなかった。
わたしはどうなりたいのだろう。どっちのわたしが本当なのだろう。
ネルちゃんと石川さんに出会ったあの日から、ずっとわたしは自問自答している。
幸せなわたしは、果たしてわたしであり続けられるのだろうか。
孤独なわたしと同じように音楽を愛し続けられるのだろうか。
マグカップのミルクは夜の空気で冷め切って、膜が張ってしまっていた。