死ぬと決めた日、押し入れに幽霊が来た
不幸ごとというのは、残酷なことに重なるものだ。
最初はただ鳥のフンがついたくらいのことだった。なんてことのない、日常には起きうる出来事である。だから俺も得には気にしていなかったのだけど、数日後に階段で転けて指を折り、全治一週間の怪我を負った。しかしまだまだ許容範囲内だ。と、甘く見ていたのがいけなかったのかもしれない。
それからはなし崩しに、痴漢されている子を助けたらその被害者の女の子に逃げられて、まるで俺が加害者を悪者にしようとしているという意味不明な構図から警察に呼び出され、その噂が巡って会社での扱いも変わって結局退職する羽目になり、彼女にはフラれて金も返してもらえないまま。母は事故をして入院すると報せが来たし、父も心が塞いでいるらしい。
退職金なんて、別に大企業に勤めていたわけでもないから微々たるものだ。もともとアパートに一人暮らしという、二十八歳会社員にしてはまったく華のない生活をしていたのだけど、彼女に貢ぎすぎたせいでそろそろそれも難しい。
就職活動もまったく上手くいかない。どこもかしこも落とされて、最近では書類の段階で断られることも増えた。
ゴロゴロと雷の鳴る、雨の酷い午後七時。
ぼんやりと明るい部屋で、無気力にごろりと横になる。
本当にどうしたものか。
このままでは絶対に未来はない。
――いっそ、首を吊ってしまおうか。
(そうだ。それがいい)
それなら今日は最後の晩餐だと、近くのコンビニで少し良いカップラーメンを買ってきた。普段は手を出さない、一つ三百円くらいはする本格的なものである。
五分待つというのもなかなか長いもので、それでも最後の晩餐だと思えば悪くない。
しかしながらテレビもない部屋なために、この五分の静寂が、なんだか物悲しいものにも思えた。
これが最後だ。これで俺は楽になれる。
そんなことを考えながら、じっくりとカップラーメンを見つめていたのだが。
ふと視線を感じてそちらを見ると、少しだけ開いた押入れの隙間に、二つの目が浮かんでいた。
――間違いない。目だ。よく見ると顔も見えるが、薄暗くてよく分からない。
それでも、そこから女がこちらをじっと覗いているのだけは確かである。
俺と目が合うと、女はすぐにひゅっと押し入れに引っ込んだ。そうしてゆっくりと、少しずつ少しずつ、押し入れが閉まっていく。
「……あー、幽霊か」
道理で何もかもが上手くいかないはずだ。
幽霊がとり憑いていたから運気が下がっていたのだ。しかも押入れの中に居る、髪の長い女である。偏見にはなるが、これは相当悪い霊に違いない。
それでも、今の俺には何もない。
失うものもなければ、もう心が疲れて全部を諦めてしまっている。
まさに、あとは死ぬだけ。そんな状態だからか、幽霊を見ても恐怖はなく、むしろ嬉しい気持ちが湧いてきた。
「そうか。俺、幽霊には見てもらえるのか」
痴漢の被害者には逃げられ、会社の連中には目も合わされなくなり、彼女にも捨てられたのに。幽霊だけは、俺のことを見てくれるのか。
そう思えば悪い気にもならない。好きにさせておくかとそちらへの感心もなくして、五分経ったためにカップラーメンを開封する。
すると。
スー、と、再び押し入れが開いた。もちろん見えるのは二つの目だ。
幽霊も瞬きとかするんだなと、思ったのはそんなことだった。
「俺さあ、これから死のうと思うんだよね」
そんなことを言ってみると、さすがに幽霊も驚いたのかぎょっと目を開く。
「あんたと同じになるからさ、そしたらここで一緒に暮らすってどう?」
ひとりぼっちの地縛霊なら寂しいだろうと思ったのだが、女はどう思ったのか、ぶんぶんと首を振って勢いよく押し入れを閉じた。
幽霊とはいえまるで人のようである。表情から仕草まで、生きている人間と変わらない。
これはますます怖くないなとカップラーメンを食べ終えて、すぐに椅子を引っ張り出す。ロープなんてものはさすがにコンビニにはなかったから、タオルでなんとかならないだろうか。
「ネクタイのほうがいいか……お、何、見るの?」
準備をしていると、押し入れが開く。再びじーっとこちらを見ていた女は、一度ウロウロと視線を泳がせて、しゅっと何かを投げてきた。
俺の足元に転がったのは飴玉だ。どうやら俺は、幽霊に慰められているらしい。
「……ああ、ありがとう。最期に舐めさせてもらうよ」
口に含むと、甘い味が広がった。
そういえば誰かからこうして優しさを貰うのは久しぶりのことである。気づいてしまえば心が苦しくなって、鼻の頭がジンと痺れる。
誰でも良かった。
相手が誰であれ、少しでも優しく接されていたなら救われたはずだった。
本当は死にたくない。
だけど、生きていたくないんだから仕方がない。
むしろあの優しい幽霊と同じになれるなら本望だと、ボロボロと溢れる涙を一度拭う。
「ありがとう。本当に……俺は死ぬけどさ、絶対あんたのこと忘れないから。ごめんな、ありがとう」
女はとうとう押し入れを開けると、そこから出てこようとしたのだが。
一際大きな雷の音がなると同時、突然バチンと電気が消える。
ブレーカーが落ちたらしい。そのため女の姿は見えなくなったが、押し入れから出ていることだけは、うっすらと見える人型の影からなんとなく分かった。
「……なに、地縛霊って、そこから離れられないとかじゃないの」
俺の言葉に返事もなく、ぬらりと女が歩み寄る。
真っ黒な影だった。しかしこんな俺に優しくしてくれた唯一の人だ、怖いはずもない。むしろここでこの幽霊に殺されるのであればそれも良いと、ゆっくりと目を閉じた。
すると、どういうわけなのか。
襲ったのは痛みでも苦しみでもなく、人肌のぬくもりだった。
「……ん、ん? あれ?」
女に抱きしめられている。
きつく抱きしめられて痛い。感触もしっかりと分かるし、温かさすら感じる。
「さ、触れる……?」
女の背に手を回した。すると女は怯えたが、すぐにすがるように俺に体を寄せる。
温かい。もう二度と感じられるわけもないと思っていた温度に、俺の腕にも力が入る。
「う……ありがとう……」
こんな何もない俺に、ここまで優しくしてくれるのかと。そう思えばたまらなくなり、止まりつつあった涙が再び溢れ出す。
優しく背を撫でる手が優しくて、それが「まだ大丈夫だよ」と言ってくれている気がして、もう少し頑張ってみようかなと、そんな風に前向きなことを思えた。
*
女はそれからも押し入れにいるようだった。
俺が就職活動から帰ってくると、スッと押し入れが開く。そしていつものようにそこから目が覗いて、じっと俺を観察するのだ。
特に何をするでもない。ただ俺は時折、その日の出来事を女に話すようになった。
女はそれに首を振ったり頷いたり目を見開いたりと忙しそうだが、見ているのもなかなか楽しい。まるで女の子と同棲している感じがして、毎日押し入れが開くのを待つようになった。
「ただいま」
帰ってくると、今日もいつもと同じように押し入れが開いた。
そこからはくりっとした目が覗き、やはりじーっと俺を観察している。
「聞いてくれ、内定もらえたんだよ!」
スマートフォンのメール画面を見せると、女は驚いたあと、笑ったのか目を細めた。「おめでとう」と言っているのだろうそんな表情が嬉しくて、ついつい調子に乗って話を続ける。
「きみのおかげだよ。一人じゃないってさ、そう思うだけで心強くなれるんだ。母さんも経過は良好だし、この間父さんの話をじっくり聞いてたらすごい泣き出してさ。相当まいってたらしくて、誰かに話を聞いてほしかったんだって。……きみが居なかったら俺、人のことなんて考えられなかった。ありがとう」
女は照れくさそうにはにかんで、だけどすぐに何度も何度も頷いていた。
何気なくスーツを脱ぐと、押し入れがパタンと閉まる。どうやら押し入れの幽霊にも決め事があるのか、俺が着替えの時は一切そこから覗いてはこなかった。
(……俺は別に気にしないけど)
本当に、なんとも人間らしい仕草である。
そうしてふと近くのカラーボックスを見ると、ホコリが一つもなくなっていることに気付く。おや、と思いぐるりと部屋を見渡せば、カーペットも綺麗になっているし、そういえば溜まっていたゴミもない。シンクもピカピカになっていて、部屋の隅っこに置かれた布団からはお日様の匂いがした。
「え、もしかして掃除してくれた?」
声を掛けるが、女は顔を出さない。ああそうかと「着替え終わったよ」と言ってみると、案の定それが気がかりだったのか、スーっと押し入れが開いた。
女は俺を見上げながら、確かにこくりとひとつ頷く。
「そうか、ありがとう。助かったよ」
礼を言うと、女はこれまでにない華やかな顔で笑う。
あまり見えないのがもったいないなと、なんとなくそんなことを思った。
その日から、女はこまめに掃除をしてくれるようになった。
俺はといえば内定をもらえた職場での仕事が始まったが、疲れて帰れば綺麗な部屋で押し入れから女に迎えられる毎日である。
すっかり彼女と同棲でもしている気持ちになっている俺としては、とても嬉しい変化だった。
掃除が常習化されてから半月が経った頃。
仕事を終えて家に帰れば、良い匂いが出迎えてくれた。
「……え、え!?」
質素なテーブルの上に、一汁三菜という和食の定番メニューがずらりと並んでいた。
まさかこれも……と静かに開く押し入れを見ると、女がこくこくと頷いている。
「……すごいな、うまそう」
いったいこの高価そうな食器はどこから持ってきたのか。
ちらりと女を見ると不安そうにしていたために、「嬉しいよ、ありがとう」と安心させてやればやっぱり朗らかに笑ってくれた。
ひと口食べてみれば見た目通りの味がして、うまいうまいと次々手を伸ばす。
誰かの手作りなんていったい何年ぶりだろうか。
「うまいよ。すごいな、なんでも出来るんだな」
俺の言葉に、女は照れくさそうにふるふると首を振る。
「……俺もさ、きみと同じなんだ」
食事中、少しだけ箸を置く。
「なんというか……相手になんでもしてやりたくなんだよね。世話しすぎるって言うのかな。風呂とか、食事とかさ。だから貢ぎすぎたりして、金も貸したりするんだけど結局返してもらえないし」
可愛い可愛いと思えば思うほど、どんどん相手に尽くしたくなる。
それが悪いことだとは分かっている。だけど今更どうにも出来なくて、少し離れるだけで相手のことが気になって仕方がなくて、我慢できずに連絡をしたりするのだが、最後には管理されているみたいで嫌だとフラれるのだ。
別に、相手を信用していないわけではない。
信じているとかいないとかではなく、俺が、常に相手を把握していたいだけである。
「分かってんだけどね、こんなことやめたほうがいいって。……でもきっと、本質なんだよな」
なんかごめんなこんな話。と強引に話題を終わらせて、食事を再開する。
やっぱりどれもが美味しくて、食べ終わる頃には胃袋だけでなく心まで満たされていた。
そういえば俺は女の名前も知らない。
そんなことに気がついたのは、掃除だけでなく料理までもが常習化されてから、また半月が経った頃である。
女は相変わらずとても健気に尽くしてくれる。掃除も丁寧で料理もうまい。話をよく聞いてくれるし、いつも笑顔でこちらを良い気分にさせてくれる。
だというのに、礼を言うにも名前を呼べていない。
――いや、もはや「礼を言いたいから」というのは建前で、本音を言えば俺が呼びたいだけである。
本当は名前を呼んで、会話をしたい。
女は喋らないが、それでも俺が名前を呼ぶだけで距離は今よりも縮まるはずである。
しかし、それならどうすべきか。
いっそ紙とペンでも渡してみるのもアリかなと、そんなことを考えながら家に帰った。
いつもの時間帯ではなかった。
外回りの途中、昼休憩と次のクライアントまでの空き時間を女と過ごすべく、一時帰宅しただけである。
「ただいまー」
部屋は静まり返っていた。それでもすぐに女が顔を出すはず、と待ち構えてみるが、その様子もない。
押し入れはピクリとも動かない。どれだけじっくりと見てみても、動く気配すら見せなかった。
「居ないの?」
声をかけても同じである。
どうやら女は居ないらしい。
「……はぁ。せっかく帰ってきたのに」
少しでも話せたなら、午後ももっと頑張れただろう。
少しでも顔を見られたら。少しでも笑ってくれたら。それだけで、いつも以上のパフォーマンスができたのに。
(……そういえば連絡先も知らないな)
今どこで何をしているのかも分からない。たとえば事故をしていたって、俺には把握する術もない。
本当に不便だなと、もう一度深く息を吐く。
気分が悪くなってきた。モヤモヤとした感情が胸を渦巻いて、どうにも頭が回らない。
いったいどこに行ったのかと。シンクの前に立ったままでもう何度目かにそう思ったとき、ガチャガチャと鍵が開く音がする。
時計を見れば十四時半だった。どうやらいつもこの時間らしい。
「おかえり」
声を掛けると、入ってきた女はびくりと大げさに震えて、その手からスーパーの袋を落とした。
女の顔色は悪く、どうしようかと視線を泳がせている。
しかし今更だ。何を戸惑うことがあるのかと、ひとまず女に歩み寄った。
「あー、卵入ってんじゃん。上にいれて正解だね、割れてない」
スーパーの袋を持ってシンクに置くと、ようやく女は落ち着いてきたのかおずおずと俺の隣に来る。
「いっつもありがとな、ご飯作ってくれて。……作りながらでいいからさ、名前と連絡先教えてよ」
女は言葉が話せないのか、紙とペンを渡すと、そこに聞いたことをすべて記した。
高石八重と書かれたそれを見て「八重ちゃんね」と言ってみれば、彼女の頬が真っ赤に染まる。
「俺は……あー、知ってると思うけど、久住東吾ね。好きに呼んで」
って言っても、呼べないのだろうけど。
――その日は彼女とゆっくりと昼食を食べた。
慣れないのか、名前を呼ぶたびに真っ赤になるのにはいじらしさを覚えてついたくさん呼んでしまったのだが、きっとこれは仕方がないことである。
仕事を終えて帰れば、彼女はまた押し入れに入っていたから「いい加減出てくれば?」と言ってみたのだけど、慣れるまではそこがいいのか、ガンとしてそこからは出てこなかった。
「ただいま」
その日も、仕事から帰ると、やっぱり押し入れがスーっと開く。
テーブルにはほかほかの夕飯が並び、部屋も相変わらず綺麗だった。
――彼女の名前を知って、早一週間。彼女はまだまだ押し入れの住人である。
「そういえば八重ちゃんっていくつなの?」
着替えて食卓につきながらも気になることを聞いてみれば、ピロン、とスマートフォンが鳴った。
彼女は喋れないらしいから、コミュニケーションはメッセージ上でしか取れないのだ。
『二十歳です』
絵文字も句読点もない文面。しかし彼女の真面目さが出ていると思えば、可愛らしいとも思える。
「へえ、若いね。家は近く?」
『いえ、ふた駅向こうです』
「あー、なるほどね。だからあの駅使ってたんだ」
その言葉に、彼女はびくりと大きく震えて、押し入れにすっと引っ込んだ。
罪悪感でもあるのか。すぐに「すみませんでした」とメッセージが届く。
「……うん。あのあと大変だったけどね……いいよ。こうして八重ちゃんが俺の部屋の押し入れに来てくれたし」
『本当は、ずっと久住さんのことを知っていたんです』
「ん?」
いったい何の話かと押し入れを見るが、やっぱり彼女は顔を出していない。それどころかひっそりひっそりとそこは閉じていき、とうとうパタンと完全に閉ざされた。
少しして、スマートフォンの通知が鳴る。
『ずっと見てたんです。いつも決まった時間に電車に乗るスーツ姿の久住さんが、大人で格好良くて、だから、知ってました』
俺が彼女を知ったのは、あの痴漢のときが最初だった。しかし彼女は違ったらしい。
『だから、痴漢から守ってくれたとき、嬉しくて、でも緊張して、恥ずかしくて、いっぱいいっぱいで、逃げちゃったんです。本当にすみませんでした』
「……もういいって。それがきっかけでそこに居てくれてるんでしょ?」
『はい』
「なら俺はラッキーだったよ。……声が出ないのに痴漢なんかに遭って、怖かったでしょ。今度から一人で電車に乗っちゃダメだよ」
『はい。あれからは送迎してもらってるので』
「……ん、そうなんだ……?」
送迎。送迎……?
俺の思い浮かべる送迎と言えば、黒塗りのベンツに運転手付き、という感じなのだが……ただ単に、家族にでも送ってもらっているのだろうか。
「それまで電車に乗ってたのは俺が居るからとか?」
冗談めかして言ってみれば、中でいったい何が起きたのか、押し入れから突然ゴン! と強くどこかを打つ音が響く。
「大丈夫?」
『すみません。えっと、すみません』
「いやいや、いいんだけどね……」
どうやら図星らしく、その後も動揺のままに「すみません」が続いて会話にもならなかった。
「今日も美味しかったよ。ごちそうさま」
手を合わせた頃、ようやく押し入れが開く。
綺麗になった食器を見ると、彼女はいつものように嬉しそうにはにかんでいた。
昼間に帰る機会は、あの日以来訪れていない。またあの時間帯に帰って押し入れから出てきた状態で話せたらとは思うのだが、どうにもタイミングが合わないままである。
その日も変わらず仕事から帰ってくると、アパートの下に似つかわしくない外車が停まっていた。すぐ側に立っている男が持ち主なのだろう。こちらもまた派手な男で、ひと目で上質と分かるスーツと、俺でも知っている高級ブランドの腕時計をつけている。
関わりたくない人種だなと、そちらに視線をやらずに通り過ぎたのだが、すぐに「待ってくれ」と呼び止められた。
「……はい?」
「きみが久住東吾くんだよね?」
「……はあ、そうですが。あなたは?」
「私は高石家長男で八重の兄である、高石一久という。よければ少し話をできないだろうか」
明らかに面倒事だと分かるが、彼女絡みであるなら仕方がない。
どうぞ、と声をかけて歩き出すと、男もおとなしくついて来ているようだった。
そしてなんとなく理解した。彼女の言っていた「送迎」が、俺の想像したものと相違ないものだったのだと。
「ただいまー」
つい癖でそう言ってしまったのだが、思ったとおり男は「誰もいないのに何を言ってるんだ?」という顔をしていた。しまった、と思ったのも束の間、スーっと押し入れが開いて、ひょこりと目が覗く。
が、しかし。
「どうぞ」
「ああ、失礼する」
その声を聞いて彼女は引っ込むと、そろりそろりと押し入れを閉めていた。
今日もいつも通り、テーブルの上には温かな晩ご飯が用意されている。男の一人暮らしには違和感のあるその光景に、男は眉をしかめて俺を見ていた。
「……これは……?」
「食べながらでいいですか? あったかいうちに食べたいんで」
「ああ、そうだな。料理は温かなうちが一番美味しいものだ。食べてくれて構わない」
「いただきます」
構わず食べ始めると、男は本当に気にもしていないのか「話なんだが」とマイペースに口を開いた。
「高石八重……あー、つまり、私の妹のことで相談があって」
「……はあ、なんでしょう」
「きみは八重とはお友達で良いのかな? ……運転手が毎日このアパートまで八重を連れてきているらしいんだ。裏は取れてる」
「嘘なんてつきませんよ。まあ、そうですね」
「そうか。……なら、きみから八重を説得してほしいんだ。婚約者が居るというのに、毎日帰りが遅くてね。どこでなにをしているのかも分からないが、帰ってくるのは日を跨いだあとで困ってる。嫁ぎ先が決まっているのにこの調子では面目も立たないから、早く帰って婚約者との時間を大切にしろと言ってほしい」
そういえば彼女は、いつも俺が眠ったあとに出て行っている。それなら確かに、帰宅は日付も跨ぐ頃合いだろう。
「うーん……その婚約、八重ちゃんが乗り気じゃないなら応援はできませんね」
「乗り気でないわけがない。八重が昔から可愛がってもらっている人のところに嫁ぐんだぞ」
「一応言ってはみますよ」
「ああ、そうか。よろしく頼む。……それより、今は八重は居ないのか? 随分前に家を出たと思うんだが」
「さあ。居ませんけど……」
「はぁ。本当に、どこで何をしているんだ、あいつは」
男は呆れたようにふるふると首を振ると、思い出したかのように俺の前に並べられた食事に視線を落とす。
「……きみ、これは本当に食べて大丈夫なものなのか? 一人暮らしだろう」
「ああ、はい。実はこの家、幽霊が出るんですよね。掃除してくれたり、こうしてご飯作ってくれたり。俺が居ない間に全部やっておいてくれるんです」
「……それ、本当に幽霊か? もしかしてストーカー被害に遭っているかもしれないぞ」
「いえ、幽霊なんで」
「そ、そうか。幽霊か」
男はむむむと眉を寄せ、ようやく気が済んだのか「あとは頼んだよ」と言葉を残して部屋を出て行った。見送りはもちろんしなかったが、狭いアパートのために食事をしながらでも玄関が見えるから、男も気にした様子はなかった。
そうして、男が出て行ってすぐ。
「八重ちゃん」
呼んでみると、スーっと押し入れが開く。
「お兄さん、ああ言ってたけど」
ピロン、とスマートフォンが鳴った。そうして見てみれば『乗り気なわけありません』と思った通りの答えが返ってくる。
分かってはいたが、こうして目の当たりにするとまた違う。画面を見てフッと笑ったのが見えたのか、彼女は許しを得たかのようにじっくりとこちらを観察していた。
「だよね。八重ちゃんは俺のお世話してたいもんね」
『はい』
「俺と居たいでしょ」
『はい』
「ならいいよ。婚約は断ってね」
『もちろんです』
ごちそうさまでした、と手を合わせると、綺麗に平らげた器を見て、彼女はやっぱり嬉しそうに笑う。
「そういえば早く帰って来いとも言ってたけど」
『それは無理です』
「なんで?」
『できるだけ久住さんと居たいので』
「……でも、あんまり心配させると、ここに来ることも出来なくなっちゃうよ」
ぴたりと返信が止まる。
もしかしたらもう何度も止められていたのかもしれない。今日お兄さんが来たのだって、俺に対する牽制もあったのだろう。
『家を出ます』
「出てそこに住み着くの?」
『はい』
「俺は嫌だけど、そんなの」
拒否をすれば、目に見えて彼女は落ち込んだようだった。
けれど今のままでは困る。ずっと押し入れに住み着かれても、俺と彼女は何の変化もなく「家主と押し入れの住人」という、微妙な関係が続くだけである。
「きちんと婚約を断って俺と暮らすって言った方が、家を出るより楽しいと思わない?」
ガン、ゴン! と、今度はいったいどこをぶつけたのか、押し入れが揺れたかとも思える音が聞こえた。
当然彼女は押し入れの奥に引っ込んだが、悶えているのか、ちらりと見える頭のてっぺんの位置は低い。
「俺と暮らすと楽しいよ。なんたって俺も世話好きだからさ」
復活したらしい彼女が、そろりそろりとその目を覗かせる。眉は下がりまるで捨てられた子犬のようだが、そこに滲むのは恥ずかしさだけに思えた。
「八重ちゃんは俺と暮らすの嫌?」
その問いには、返しかたを悩んだのか、返答までにうんと間が空いた。わたわたと押し入れの中が動く。
返事が来たのは、優に二分もあとである。
『嫌じゃないです』
「そっか。じゃあ今度ご挨拶に行ってもいい?」
『はい』
「ありがとう。……なら、広いところに引っ越さないと」
できれば送迎も電車も不要なところがいいねと。一応言ってはみたが、彼女は聞いているのかいないのか、夢見心地にぼんやりとスマートフォンの画面を見ているだけだった。
後日。
彼女がピンポンとインターホンを押してやってきた。それに違和感を覚えながら「鍵あるんだから入ればいいのに」と言ってみれば、照れくさそうにふるふると首を横に振る。
やけに小奇麗な格好だ。髪だってセットしているし、化粧もいつもとは違う。だからなんだか俺も緊張して、いつも着ているはずのスーツもなんだか着心地が悪かった。
そんな緊張の中、連れられた高石家は思ったよりも大きく、まさに「お金持ち」だなと思い知らされた。
父親も母親も穏やかそうな人で、例のお兄さんだけがやけにビシッとしている印象である。そんなお兄さんは俺を見て「やっぱりそうだったか」とでも言いたげな嫌そうな顔をした。おそらくあらかじめ、彼女から「お付き合いしている人が居る」とでも聞いたのだろう。牽制をしたのも無駄だったと知れば、そういう顔になるのも仕方がない。
かくして。
俺は押し入れの幽霊――もとい、俺のことが好きすぎて家に侵入し押し入れの住人になってしまったが、奇しくも俺の命を救ってくれた女の子と、無事同棲する権利を得たのである。
ありがとうございました。