芳江
芳江
「私がお父さんと出会ったのは、今のお父さんの職場でね。お父さんは工場で作る人、私は事務員だったの。
お父さん当時から無口だったのよ。そんな無口な人が社長のお子さんが来る度に可愛がって面倒見てたの。自分のロッカーにその子達が来た時にあげようと飴をいつも用意して…。
そんなあの人の優しさが気になって居たら、向こうから交際申し込まれてね。暫く付き合ってから結婚に至ったの。
お父さんはぶっきらぼうだけど温かい人でしょう?だから舅と姑も同居になったのよ。あの人は両親の世話もしたかったのよね」
結衣は真っ直ぐな目で頷きながら聞き入った。情景が目に浮かぶ様だった。
「いざ結婚して同居するとね、姑さんのいびりが酷くて…。
私が掃除機掛けた所を姑に片っ端からホウキでやり直されて『貴女ってどうして掃除がこんなに下手なの⁉︎見なさい!私がホウキで集めたゴミがこんなに有るわよ』って。拭き掃除も勿論跡を追う様に拭いてくるの。
お茶は何度も淹れ直しをさせられてね。茶筒のお茶っ葉が見る見る無くなるの。
『お茶をちゃんと淹れれないから無駄にして』って言われてね。
お茶カス勿体無いと思って玄関掃除に使うとね、
『まだちゃんと使えそうなお茶を掃除に使って勿体ない!』って怒られて…。部屋の灯りを付けたら『明るいのに!』って消されて、舅が『部屋暗いな電気つけないのか?』って言ったら姑に『気が利かない!さっさと付けなさい』って何してもダメって言われてね…」
芳江は手で包んでいる湯呑みの淵を親指で撫でながら、澄んだ若草色のお茶を見つめた。
「最初は私が至らないからきっと怒らせるんだと一生懸命家事をちゃんとしようとしたの。料理も包丁の持ち方や、料理に使う水の量まで言われてね。ちゃんと体で覚えようとしたのよ。
でもね、いくら頑張っても『全然ダメ』としか言われなくて…。その内姑は教えてるのではなくて、虐めてるのだと分かったの。
お父さんは姑を庇うからいつも私が悪者で家族の中で孤独だったの。
晴久が生まれるまで孫を見せろって何度もせっつかれたわ。
その事も私が妊娠しない私のせいだって。お父さんも残業が重なって大変だった時期なのよ。
いざ妊娠したら、『本当に和男の子なのかい? 』って言われて。私その時初めて怒ったの。でもお父さんは新聞を読んで素知らぬ顔…。ダメね男って。その日は夜通し泣いたわ。我慢していた分涙が止まらないのよ。それでもこの家では『よそ者が泣いてる』としか映らないの。
やがて晴久が生まれたら、姑は晴久にとっては良いおばあちゃんになったの。でも私へのイビリは常にあったわね。子育ての事を言われると最初は辛くて、夜に晴久を抱きながら泣いたわ…。
そして晴久が五歳になった時ね、
『どうしてお婆ちゃんはお母さんを虐めるの?虐めちゃダメだよ! 」
って言ったの。姑はオロオロして言葉失ってたわ…。
晴久の真っ直ぐな言葉…私は嬉しかったの。息子が味方してくれるなんて愛おしくてね。
でもね、姑が怖くて『そんな事言っちゃいけない』って晴久を怒ったのよ。
そうしたら晴久
『何で⁉︎何で⁉︎』って全然納得しなくて困ったわ…。
私、どうしても晴久に『そうね』と言う勇気無かったの。
晴久はその後二度とこの質問をして来なかった。あの時それが言えたなら…晴久は貴女を最初から守れる人間になってたのかも知れないわ」
少し俯いたい芳江の顔は微笑んでいた。自分の間違いをありのまま受け止めていたのだった。
「だから私…晴久が結婚したらお嫁さんを大切にしようと心に決めていたの。あの姑みたいには絶対ならないって。
でも人間って弱いのかしら…良い事も悪い事も、お手本は見ている人に染み込ませてしまう…。
お父さんの言う通りよ、婆さんと同じ事してしまったの私は…。あんなに結衣さんを大切にしたいと思ったのにね…。本当に押し付けと批判ばかり…辛かったわよね」
結衣の目には涙が溢れていた。芳江の長年の辛さがヒシヒシと感じるように伝わって来た。
芳江の『辛かったわよね』との言葉に結衣は、振り絞るように首を横に振った。それを見て芳江は結衣の肩を撫でた。
「貴女は優しいわね。もう頑張らないで…辛いのは私が一番分かるから。心込めても、もてなしてもへし折られて…辛いはずよ。
結衣さんと仲良く本当の親子の様にって思ってたのよ。
それが揶揄いたい…と思ったら批判したくなって…威張りたくなって…掻き回したくなって…しまいには貴女に否が無くても説教して…。本当に憎たらしく思えて来て、どう懲らしめるかを考える日々…。簡単に流されてしまったわ…。
本当はそんな私を誰かに止めて欲しかった…。それがお父さんだものね。あれだけ私を見て見ぬふりしてたのにって思ったけど…お父さんだから止められたのかな?
そしてもう一人止めてくれたのよ。結衣さんのお腹の子」
「えっ?お腹の? 」
結衣はお腹を見た。そして芳江は優しく頷いた。
「生まれて来たら孫に会いたくて、抱っこしたくて堪らないの…。なら尚更自分を直さないと…。でも私素直になるには、貴女が妊娠八ヶ月になる迄掛かってしまったわ。詐欺の時も凛として助けてくれたのにね。
姑の様に意地悪になるのはあっという間。その邪念を消そうとすると、こんなに力が要るのよね。バチが当たったわ。
今度こそ煩い無く会える様になりたかったの…本当にごめんなさい」
結衣は芳江に寄り添い肩に手を置き、
「お義母さん、こんなに心の中の事を話すって勇気が必要だったと思います。私に勇気を使ってくださって…ありがとうございます。お腹の子を愛して下さってありがとうございます」
二人は抱き合うと心の歪みが消えていった。そして最後に芳江が言った。
「同窓会の時の着物…。場違いと私も分かってたの…。でもどうしても結衣さんに着て欲しかったの。
私がお嫁に来る前に母が買ってくれたものだったの。姑がゴミ袋に入れるのをたまたま見かけたのよ。それを姑が居ない時にゴミ袋から出して捨てずに済んだの。でもこの着物着てたら姑に拾ったのがバレるでしょう。ずっと着れないまま時が過ぎて、似合う歳では無くなっちゃったの。
だから無理矢理着せてごめんね。でも…似合ってて素敵だった…。私の母も天国から見て喜んでくれたと思うわ。ありがとう」
あの着物にそんな思いがあったと聞いて結衣は胸が熱くなった。
「お義母さん…またあの着物を着せて頂いても良いですか? 」
「勿論よ! 」
晴久が
「ただいま〜」
と帰宅した。お茶を手に仲良く芳江と結衣が談笑しているのを見て驚いている。
「お袋!来てたの⁉︎ 」
「そうよ」
芳江と結衣の声が揃って二人は笑った。
「ねぇ」
と二人で再度声を合わせた。晴久は呆気に取られた。事情は分からないが、雪解けを見る様な気持ちになっていた。
芳江は
「結衣さん、妊娠やお産で私で力になれる事があったら言ってね」
と控え目に言った。
「お母さん、是非お願いします」
結衣は信頼を寄せて答えた。晴久は、自分達はこんな風に仲睦まじくしていたい筈だったのでは…と思いをはぜた。遠回りして今に辿り着いたスタート地点だ。