エピローグ 幻視体験
わたしは火を地上に投じるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
(ルカによる福音書 12章ー49)
前髪が風に靡いた。それは川面にさざ波を立てて森の樹木を揺り動かした。
川面に浮かんだウキがポチャンと水面下へ没した。
よし、きた!
釣竿を上げて針先の釣果を確認する。アユだ。これで十匹目。晩御飯のおかずには十分な量だ。
もうそろそろ引き上げようか。
モーリス・マリエンバードは魚籠の中の釣果を見て満足げに微笑んだ。
陽が西に傾いている。川面に釣り糸を垂れて三時間。少し身体が冷えてきた。妹が風邪ひいたら大変だし。
視線が川辺に流れた。妹のベスが川面に葉っぱで作った船を浮かべて遊んでいた。僕を迎えに来て、そのまま居ついてしまったのだ。べスはまだ五歳になったばかり。両親から川に近づかないよう注意されている。
僕も家へ帰るよう言ったのだけど、「家に居てもつまらない」そう言って僕の傍から離れようとしなかった。
べスに言い含めておかなきゃ。両親に川へ行ったことは内緒にしておくように。今まで森の中で遊んでたって。
僕は釣り道具を仕舞うと、妹に声をかけた。
「さあ、帰ろうよ」
べスが僕の方を見た。その瞬間、足を滑らせた。
べスの驚いた顔が脳裏に焼き付いた。それは一瞬のこと。水飛沫が立って妹の姿が川の中へ消えた。
風が吹いて川面にさざ波が立った。それでもべスは浮かんでこなかった。
いけない、助けなきゃ!
上着と靴を脱ぎ捨てて川へ飛び込んだ。夏にはさんざん泳いだ川だ。助けられる自信があった。
沸き上がる気泡の向こうに、もがく妹の姿が見えた。そのまま進んで妹を抱き上げた。
よし、やったぞ!
その瞬間、妹が僕の頭を力一杯抑え込んだ。水面に顔を出そうとしてもがいたのだ。
大量の水を飲んで息が詰まった。思わず妹の身体を突き放した。スーッと妹の身体が川底を流れてゆく。
手を差し伸べようとしたら突然、身体が硬直した。意識を失った身体は水の流れに沿って穏やかに回転した。
そのとき僕は見た。水面から射しこむ美しい光を。全身を包み込む優しい光を。そのまま双眸を閉じると、世界は暗闇の中へ埋没した。
指先に触れる冷たい壁の感触。でも不思議なことに、進もうと思えばどこまでも進めた。そうして僕は妹の温もりを探し求めた。
どれくらいの時間が過ぎたのか。やがて彼方から光が射した。反射的に手をかざして、その光が目に柔らかいことに気が付いた。
誰?
光の輪の中に、こちらに背を向けて黙々と歩む男性の姿があった。
「待って」
その背中へ声をかけると、男性はゆっくりとこちらを振り向いた。
やつれた面長の顔に優しい瞳が輝いている。
僕はその人の前におずおずと進み出た。
「あの、妹を知りませんか?」
「妹?」
男性は怪訝そうな顔で僕を見た。
「姿が見えないんです」
そう言って懇願するように男性の前へ跪いた。
「お願いです。一緒に探してください。早く見つけないと妹は死んでしまいます」
「それは駄目だ」
男性は振り返って彼方を指さした。
「あれを見るがいい」
言われるままに男性の指さす方向を見た。彼方には山々が峰を連ねていた。そのいずれもが紅い炎に染まっていた。ーー山火事だ!
「わたしはあの頂に登って十字架にかからねばならない。だからおまえの妹を探すことはできない」
「あなた以外にお縋りできる方はいないのです」
必死の想いで男性の右手を握り締めた。
「僕が行きます。あの炎の山へ。そしてあなたの代わりに十字架にかかります」
「おまえが?」
男性が底光りする目で僕を見た。
「はい、だからあなたは妹を」
男性が瞑目した。
「ではわたしはおまえの妹を探すとしよう」
男性が僕の手を力強く握り締めた。
「約束の印だ。受け取るがいい」
その瞬間、手のひらに焼けるような痛みが走った。
「あっ!」
意識は再び闇の中へ埋没した。そして彼方から眩しい光が射した。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
誰かが僕の名前を呼んでいる。誰だろう。よく知った声なのに……。
目覚めると、そこには不安げに僕を見つめる妹の顔があった。
「あっ、お兄ちゃん!」
妹が喜び勇んで僕の首にしがみ付いた。その背後に喜びに輝く両親の顔があった。
ベッドの傍らには医者が控えていた。
「奇蹟じゃ……」
医者がポツリと漏らした。
「まさか二人共助かるとは……」
母が僕を抱きしめて泣きじゃくった。父が僕の頭を撫でながら言った。
「おまえたちは三十分も水中にいたんだ。普通なら発見された時点で死んでいる」
「旅人が知らせてくれたのよ」
母が涙を拭きながら言った。
「その人のお陰であなたたちは助かったの」
旅人? 僕は尋ねた。
「その人、どんな顔してた?」
「ドアを開けた瞬間、ハッとしたわ」
母が微かに微笑んだ。
「だってイエス様にそっくりだったから」
全員の目が壁にかかった聖画像に注がれた。十字架に張り付けにされた主イエス。その痩せ衰えたイメージは夢の中の男性とダブった。
僕は自分の手のひらを見た。そこには聖痕を思わせる傷痕がくっきりと残されていた。
そうだ、僕は主に出会ったのだ。主は約束を果たされた。今度は僕が約束を果たさねばならない。炎の山へ登り、そこで主に代わり十字架にかかるのだ。
(完)




