第75話 エッフェル邸の客間にて
う~ん、とうとう帰ってきた。懐かしの我が家へ! 庭はすっかり冬物に衣替えしたけど、それ以外は事件前と何ら変わるところがない。もう、感慨一入で。よくぞ生きて帰ってこれたものだ。
本来なら笑顔一杯で屋敷の門を潜りたいのだけど、今から待ち受ける試練を考えると、とてもそんな気分になれなくて。そう、わたしと秀一郎さんの闘いはまだ続いているのだ。その敵の正体とは……。
「さあ、行くわよ」
コニーは実家の庭をズンズン歩いてゆく。
「おい、待てよ」
秀一郎さんが慌てて後に続いた。
勢いそのままに玄関に突入すると、メイド頭のアンナ婆やが出迎えてくれた。
「お嬢様、よくぞご無事で」
婆やの目に涙が浮かんだ。その細い肩にそっと手を置いた。
「いろいろ心配かけたわね。ごめんなさい」
「いえ、滅相もない」
婆やはまた涙を流した。
少々、持て余し気味。今はそういう時ではないのだけど。
仕方ないので秀一郎さんと一緒に苦笑い。
「ねえ、お父様は……」
「旦那様なら客間でお待ちしております」
その返事を聞くや否や、眦を決して客間へ突き進んだ。
秀一郎さんが荷物を持って後に続く。
「あっ、お嬢様、お待ちを。客間には……」
婆やの声は無視する。客間のドアの前に立つと、思い切り深呼吸して、ドアノブを力一杯押し開いた。
客間のドアが勢いよく開いた。そこにはソファにゆったりと腰を下ろすお父様の姿が。
「お父様、実はお願いがあって参りました」
「その前に挨拶したらどうだ?」
お父様の視線がテーブルの対面に流れた。
「ほら、まずは大事なお客様に」
「おじい様!」
背後で秀一郎さんの声がした。
客間には先客がいたのだ。
ソファで葉巻を咥えて寛ぐ老人こそ、何を隠そう、秀一郎さんの祖父にして新藤重工の会長、新藤源一郎氏その人だった。
「あ、あの、会長、お久しぶりでございます」
新藤重工では一介の秘書に過ぎないわたし。しどろもどろした口調で頬を赤らめてしまった。
会長は柔和な笑みで応えた。
「お嬢さん、今日、わしがここへ来たのは新藤重工の会長としてではなく、秀一郎の父、新藤健三郎の代理としてだ。だからそう硬くならずに、身内と話すつもりでな」
「はぁ……」
ため息が漏れた。なぜ今頃、会長が我が家を訪問する気になったのか。
お父様がゆったりとソファに凭れかかった。
「で、なにかな。用件というのは」
「実は……」
秀一郎さんは資料を手に途上国援助計画の説明を始めた。
お父様は時折頷くのみ。なんの口も挟まない。ほんと、真剣に聞いているのかと疑いたくなる。会長はにこやかな笑顔で秀一郎さんを眺めている。それは孫の成長を慈しむ老人そのもの。そうして秀一郎さんが一方的に話すだけで、時間はどんどん過ぎてゆく。
う~ん、なんて重苦しい雰囲気。息が詰まりそう。実の父親を前にして、これほどの緊張を強いられようとは……。おまけに会長という厳しい監査役まで同席している。
ソファの座り心地が悪いので、お尻の方がムズムズしてくる。できることなら席を外してキッチンに逃げ込みたい心境だ。そこで婆やお手製のマリレンのリキュールでも飲めば、少しは気分が落ち着くでしょうに……。
秀一郎さんが一通り説明を終えた。
「いかがでしょうか?」
「……」
お父様は腕を組んで沈思黙考したまま。秀一郎さんは固唾を飲んで見守っている。
わたしは控えめに、会長はにこやかに、二人の顔を見比べている。
お父様が顔を上げた。
「よろしい、お引き受けしましょう」
「ありがとうございます」
秀一郎さん、ソファから立ち上がると、お父様の手を握り締めた。
「これで途上国への援助資金が確保できます」
その表情に安堵の色が浮かび上がった。
「いや、なに。わたしとしても未来ある若者を支援できて嬉しいよ」
お父様が葉巻を咥えて一服した。
「わたしとしてはこういう若者こそ、娘の婿に相応しいと考えているのだが」
お父様に暗に促されて、秀一郎さん、ようやく本来の目的を思い出したようで。
よかった。これでようやく本筋へと話を持っていくことができる。
さっきから苛々してたんだ。話の順序が逆でしょうって。確かに途上国援助も大切だけど、今はわたしたちの将来を優先してほしい。
「実は折り入ってお願いがあるのですが」
秀一郎さん、真剣な眼差しはでお父様を睨んだ。
ああっ、あの眼差しは……。犠牲祭壇で神父と対峙したときの眼差しだ。それはあの人の愛を再確認した瞬間でもあった。
背筋をシャンと伸ばして、秀一郎さんと一緒にお父様を睨みつけた。
そうよ、結婚は二人でするもの。秀一郎さんだけに決意表明を任せるわけにはいかない。わたしの意思もはっきりと伝えるのだ。
秀一郎さんが意を決して口を開いた。
「エッフェル卿、お嬢さんをわたしにください」
お父様は天井を見つめて紫煙を吐くと、灰皿で葉巻を揉み消した。
「新藤秀一郎君、娘のこと、よろしく頼む」
笑顔と共に手を差し出した。
「ありがとうございます」
秀一郎さんも照れ笑いを浮かべてその手を握り返した。そして嬉しそうにわたしを見た。
「秀一郎、よくぞ言った! それでこそ新藤重工の跡取りだ」
会長が大笑して孫の背中を叩くと、お父様の傍らに席を移した。
秀一郎さんが会長、いえ、おじい様の方を見た。
「ところでおじい様、何の御用でエッフェル邸へ?」
おじい様が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それはな、わしが立てた計画の結末を、わし自身の目で確かめるためだ」
「計画ですか?」
「おまえ、お嬢さんとの出会いが偶然だとでも思っているのか?」
「……」
「エッフェル卿に挨拶に行くよう勧めたのは誰だったかのう」
「まさか、おじい様……」
秀一郎さん、ようやく腑に落ちたようで。それってもしかしてわたしと秀一郎さんの出会いは、初めから仕組まれてたってこと?
「わしは新体操選手時代からのコニー嬢のファンでのう。こんな美人で聡明な女性が孫の嫁にでもなってくれたら、どんなにか心強いと思っておったのだ」
おじい様はわたしと秀一郎さんを交互に見比べると、
「どうだ、二人共。少しはわしに感謝する気になったか?」
「ええ、もちろんです!」と秀一郎さん。
「素敵な出会いをありがとうございます」とわたし。
突然、おじい様が真顔になった。
「いいか、秀一郎。一つだけ忠告しておく。このお嬢さんはなぁ、特殊部隊の一員と間違われるほどの強者だ。くれぐれも尻に敷かれないように気を付けるのだぞ」
一瞬、言葉を失った。
わたしが一番気にしていることを。腹立たしいけどここは笑顔で。
「あら、嫌なおじい様!」
場が和やかな笑いで満たされた。それまで客室を支配していた重圧感が霧のように晴れた。その後はハイジャック事件を中心に世間話が続く。
事件の当事者が事の経緯を語るのだ。迫真のストーリー展開に、お父様もおじい様も熱心に聞き入ってくれた。
話は夕食を挟んで夜中まで続いた。さすがにおじい様は眠くなってきたようだ。それを見越してお父様が言った。
「今夜はもう遅い。続きは明日にでも」
その一言を切っ掛けに、全員がソファから立ち上がった。
去り際、わたしは暖炉に飾ってあるお母様の写真に声をかけた。
「ただいま、お母様。わたしを見守ってくれてありがとう」
わたしが生き延びることができたのは、天国でお母様が見守っていてくれたお陰。
ふとそんな気がしたのだ。
秀一郎さんを二階のお客様用の部屋へ案内する。ドアの前まで来ると、「おやすみなさい」と声をかけた。
「ああ……」と気のない返事。
秀一郎さん、何か考えごとに没頭しているようで。おやすみのキスを交わす雰囲気ではなかった。
仕方がないので、そのまま寝室へ引き下がろうとしたら、
「そうだ、思い出したぞ」
背後で素っ頓狂な声がした。
「間違いない、彼女たちだ」
「それ、誰のこと?」
誰かのことを思い出したようだけど、彼女というところが気にかかる。さては婚約者を前にして、昔の彼女を思い出したか。
「あの二人、リンとクリス。僕の小学生時代の同級生だ」
「それ、ほんと?」
意外な事実だ。思わず瞠目した。
「ああ、間違いないよ。それにしても……」
秀一郎さん、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべると、
「二人共、美人になったなぁ」
カチ~ンときてしまった。また悪い虫が鳴き始めた。
命の恩人に感謝するのは構わないけど、それって感謝のし過ぎじゃない? 今後の夫婦生活を安定させるためにも、少しはお灸を据えておく必要がある。
「秀一郎さん」
声は冷静。でも行為は過激。あの人の頬を思い切り引っ張った。
「今後、わたしの前で他の女性を褒めないでくださる?」
怒りを込めてグイグイグイ……。
「や、やめたまえ」
秀一郎さん、わたしの手首を掴むとニッコリ笑って、
「美しい女性を褒めるのは紳士の嗜み。やめるわけにはいかないな」
反省の色はまるでなし。コノ~、よくもそんなこと言えたわね! こうなったら横っ面を引っ叩いてあげましょうか!
キッとなって片手を上げた瞬間、「あっ……」
不意に秀一郎さんにキスされた。長い長い、今までで一番長~いキス。これこそわたしが待ち焦がれていたもの。
「おやすみ、世界で一番美しい人……」
秀一郎さん、余韻を残して部屋のドアを閉めた。
しばらくの間、人差し指で唇の感触を慈しんだ。
世界で一番美しい人かぁ。なんて白々しいことを。それでもジワジワと喜びが心を満たしてゆくから不思議。
まっ、いいか。
わたしは嬉しさの余り、その場でクルリとステップを踏んだ。




