第74話 バーピースオブワールドにて
突然、身体がガクンと前へのめった。ハマーが急停車したのだ。
少しウトウトしたようだ。ふと目を覚ますと運転席のレナと目が合った。
「着きました」
相変わらず乱暴な運転だ。でも咎めだてするつもりはなかった。この運転技術のお陰で命拾いしたこともあるのだから。
ムター大尉がハマーから下車した。アップルフィズの唇に苦笑いを浮かべながら。
マスターの店に来るのはひと月振り。ご無沙汰していたわけではないのだが、懐かしさが込み上げてくるから不思議だ。
作戦の達成感が気分を高揚させているのか、戦場で尖った神経が安らぎを求めているのか。
まあ、それはマスターの顔を一目拝めばわかること。あの渋くて優しい微笑みがあれば、わたしは次の作戦も生き延びることができる。
店のドアを開けてさりげなくカウンターを見る。表情はこく控えめな微笑みで。あまり嬉しそうにしていると、部下に示しがつかないから。そうしてマスターの挨拶に応えようとしたんだけど……。
カウンターにはいつものように熱心にグラスを磨いているマスターの姿が……なかった。そこには見慣れぬ若い兄ちゃんの姿が。そいつはわたしの姿に気付くなり、真っ青になって震え出した。磨いていたグラスが床に落ちて砕け散った。
なんだ、あいつか……。以前、この酒場でわたしたちと揉めた大学生の一人だ。
わたしをババア呼ばわりした不届き者のイケメンだ。
ムカッ腹立てて詰問した。
「おい、なんでおまえがここにいる? マスターはどうした?」
「これはソフィさん、いらっしゃいませ」
カウンターの奥からマスターが顔を出した。その魅惑的な眼差しで見つめられたら、些細な怒りなんて消し飛んでしまう。レナと連れ立って止まり木に腰を下ろすと、「マスター、ツーフィンガー」水割りを注文した。
イケメンが砕けたグラスの後始末を始めた。その背中を眺めながらマスターに尋ねた。
「なぜ、あんなやつ雇ったの?」
「彼の父親に頼まれたんですよ」
マスターが酒棚からボトルを取り出した。
「後日、息子の不始末を詫びに来られましてね。どうしても壊した家具を弁償したいと申されまして。結局、暴れた本人がここで働いて弁償することになりまして」
マスターのイケメンを見つめる目が優しい。
「本人もこの仕事が気に入ったらしくて。彼目当ての女性客も増えましたし」
「彼、使えるの?」
あまり役立つようには見えないけど……。
マスターが満更でもない笑みを浮かべた。
「ええ、仕事の飲み込みは早いですよ。女性客の対応も上手いですし」
「フン、昔とった杵柄。ナンパ術もたまには役に立つんだ?」
皮肉の一つも言いたくなる。
「どうぞ」
イケメンが卑屈な笑みを浮かべてグラスを差し出した。
「あの、この前は申し訳ございませんでした。お詫びに一杯奢らせていただきます」
「いただこう」
機嫌を直してグラスに口をつけた。アルコールが乾いた胃袋に染み込んでゆく。
うまい、やはり作戦終了後の一杯は格別だ。上機嫌でイケメンに話しかけた。
「息子の不始末にキッチリ片をつけるなんて、今時、珍しい父親だな」
「ええ、まあ……」
イケメンは言いにくそうに口を開いた。
「実はうちのおやじ、士官学校の校長なんです」
「うん、なんだって?」
グラスを置いてイケメンを見た。
「大学辞めて働けと言われました。それが嫌なら軍隊に入れと」
イケメンは照れたような苦笑いを浮かべた。
「どちらも嫌なら勘当すると言われまして」
「それでバーテンダーになったのか?」
「そういうわけで今後ともよろしくお願いします」
イケメンが殊勝にも頭を下げた。
いや、少し見ぬ間に人が変わったねえ。
「よーし、わかった。今夜は兄ちゃんの就職祝いを兼ねて飲み明かすぞ」
取り合えずグテングテンに酔っ払う口実が出来た。
閉店まで飲み明かすぞ。
傍らで声がした。
「あの、レナさん」
マスターがレナにグラスを差し出した。
「わたしの奢りです。どうぞ飲んでみてください」
「……」
レナは無表情。グラスに手を付けようとしない。人から奢られるのが嫌なのだ。
「黒ウオッカです。あなたのために取り寄せました」
マスターの優しい決め台詞。
「いただこう」
無表情のレナの口元が微かに緩んだ。それで結構喜んでいるのだから始末が悪い。
マスターがミキシンググラスを用意した。
「それからソフィさんには新しいカクテルを試飲していただきます」
「ほう、どんな?」
「ウイスキーベースのカクテルです。名前はピースオブワールド」
「なるほど、世界平和か」
口元がフッと緩んだ。たまにはそんな幻想に酔ってみるのも悪くはない。今夜は戦争のことなど忘れたいのだから。
わたしはイケメンに命じた。
「おまえも一緒に祝え」
「はぁ、それは構いませんが、いったい何を祝うんです?」
「もちろん、世界平和さ」
全員のグラスが揃った。
乾杯!
わたしたちは世界平和を願って祝杯を上げた。




