第62話 逃走階段
クリスの歯軋り、リンさんの震え、わたしの冷や汗。
神父は余裕の笑みを浮かべた。
「そこのお嬢さん、こちらへ来ていただけますか?」
「えっ、わたし?」
「ええ、わたしはあなたを欲しているのです」
神父の笑みが消えた。双眼に鋭い眼光が宿る。
「もしあなたがおとなしく人質になるというのであれば、お坊ちゃんを開放してさしあげます」
どうやら冗談ではなさそうだ。
でも人質としての価値があるのは、わたしより秀一郎さんの方なのに……。
「なぜ、わたしを?」
「まあ、わたし共にも色々ありまして」
神父は偽りの微笑で真相を糊塗した。
「さあ、時間がありません。すべてはあなたの決断一つ」
言うまでもない。私の心は決まっている。
「わかったわ。だから秀一郎さんを傷付けないで」
秀一郎さんが叫んだ。
「コニー、来ちゃいけない、逃げるんだ!」
秀一郎さんのあんな怖い表情、初めて見た。
普段の穏やかな表情の内に隠しているわたしへの想い。それを感じることができたから、わたしは躊躇なく前へ進むことができた。
「おっと、皆さん。銃は捨ててください」
神父の要求に従うと、背後でも小銃を床に投げ捨てる音がした。
二人共、神父の指示に従ったのだ。
「コニー、来るな!」
秀一郎さんが神父の腕を振り解こうと藻掻く。
神父が力づくで引き寄せる。その前腕があの人の首に食い込んで、ギリギリと締め上げる。
クッ……。
秀一郎さんが苦し気に呻いた。でもわたしが目の前で立ち止まると、神父は腕の力を緩めたのだろう。そうっと目を見開いた。
「さあ、来るんだ」
神父が強引にわたしの腕を引っ張った。
代わりに足であの人のお尻を突き飛ばす。秀一郎さん、バランスを崩したものの、なんとか踏み止まって振り返った。刹那、神父のつま先が伸びて、あの人の腹部へめり込んだ。
ウッ……。
秀一郎さん、腹部を抱えて蹲った。
なんてことを……。
「さあ、早く来い!」
いつもの丁寧口調はどこへやら。
神父はわたしの腕を引いてジリジリと後退りし始めた。その前を二人の兵士が遮る。
これではクリスもリンさんも手が出せない。
でも奥の部屋に逃げ込んだところで出口はないのだから、それこそ袋のネズミというやつで。
一体、どこへ逃げるつもり?
わたしと神父は部屋の奥に設えた祭壇の脇に立った。
祭壇の上には燭台に金杯、そしてキリストの聖像が安置されていた。
最近まで祈祷していた形跡が感じられる。
この人、教会を破門されたはずでは?
「意外ですか?」
神父の切れるような笑みに、思わず背筋が凍り付く。
神父が祭壇に足をかけて思い切り蹴り倒した。
祭壇が音を立てて崩れた。その後ろの壁にはポッカリと穴が開いていた。
ア~、こんな所に秘密の抜け穴がぁ!
「さあ、お嬢さん。行きましょうか」
神父がわたしの手を引いて穴の中へ潜り込んだ。
「秀一郎さん!」
振り向きざま叫んだ。
「コニー!」
秀一郎さんが床に這いつくばったまま手を伸ばした。
ドドドドドッ!
去り際、二人の敵兵が短機関銃を乱射した。
クリスとリンさん、咄嗟に入り口に隠れて難を逃れた。
神父が立ち止まって見上げた先には、天国へと連なる階段が。それは緩やかな螺旋を描いて上へと続いていた。
神父が強引にわたしの手を引いて階段を昇り始めた。
クソクソ!
抵抗しようにも、思いの外力が強く、どう足掻いても手を振り解くことができない。
背後では銃撃戦が続いており、クリスとリンさんが反撃の機会を伺っていた。
でも短機関銃相手では容易に接近することができない。彼我の距離がジリジリと広がってゆく。このままでは神父に逃げられてしまう。
エエィ!
必死の思いで神父の腕にしがみ付いた。
クッ……。
神父は拳銃を差し上げて、がら空きの腹部へ拳の一撃をくれた。
ドスッと鈍い音がして、わたしは床に崩れ落ちた。
息が詰まって立つことができない。でも痛い思いをした甲斐があった。
何事かと振り向いた敵兵の隙をついて、味方が突撃を敢行したのだ。
誰? クリス、リンさん、あら、秀一郎さんだ。
来ないで。来ちゃダメ~!
秀一郎さん、わたしの危機を看過できずに飛び出したんだ。
なんで保護されるべきVIPが先陣を切るのよ。クリスもリンさんも職務怠慢だ。
「バカ、行くんじゃねえ!」
遅ればせながらクリスが叫んだ。
神父がしめたとばかりに拳銃の狙いを定めた。
アアッ、身体が痺れて動かない。
我が身を盾にしてでも秀一郎さんを守りたい。でも神様はわたしからその機会を奪い去った。
ならば神様、どうかあなたご自身の手で敬虔な僕をお護りください。
すると奇蹟が起こった。
ドカーン!
突然、通路内で爆発が起こった。
白煙が充満して辺りを視認することができない。
一体、なにが起こったの?
ゴホゴホ咽びながら傍らを見ると、神父が鋭い眼差しで正面を見据えていた。
他に見えるものといったら、日干し煉瓦で出来た壁面くらいで。
白煙が収まるにつれ、辺りの様子が少しづつ露になってゆく。
神父は正面を睨んだまま。
今だ!
逃げようとしてスウッと一歩を踏み出した。
神父が叫んだ。
「動くな!」
思わず後ろを振り向いた。
神父が笑みを浮かべて呟いた。
「感謝すべきでしょうな。あなたを救って差し上げたのですから」
そしてわたしの足元を指さした。
見ると、そこには巨大な穴がポッカリと口を開けていた。
クラクラと眩暈を覚えて立ち竦んだ。
白煙が収まってようやく気が付いた。
階段が三〇フィートに渡って崩れ落ちていた。
もう一歩前へ踏み出していたら、足を踏み外して真っ逆さま。
危ういところで神父に命を救われたのだ。
階下でクリスが叫んだ。
「おい、下だ。下を見ろ!」
えっ、下?
言われるままに階下を覗き見ると、ーーアアッ、秀一郎さん!
なんと神様はわたしを救う代わりに、あの人を奈落の底へ突き落した。
階段の崩落に巻き込まれたのだ。
秀一郎さんの身体は瓦礫の上でピクリとも動かない。
「秀一郎さ~ん!」
力の限り叫んでみる。それでもあの人は動かない。そのまま階下へ飛び降りようとしたら、神父に手首を掴まれた。
「離して!」
「そうはいきません」
神父が嫌がるわたしを強引に引き寄せた。
「あなたは興奮状態です。少しお休みになっては?」
そう言って、手刀をわたしの首筋へ打ち込んだ。
不意に目の前が真っ暗になった。




