第60話 イザベラの悲哀
「なんてこった」
イザベラは去り行く少女の背中を見つめていた。その瞳にもはや怨嗟の色はなく、ただ悲哀の色だけが残されていた。
「ヒュー、おまえは……」
あたしは膝に横たわる弟の身体に目を落とした。
「あんな子供ですら手にかけるんだねえ」
少女の首にナイフを突きつけたヒューの瞳に、ためらいの色はなかった。
正直、ゾッとした。
もし少女を盾として利用する気がなかったら、即座に首を掻き切っていたに違いない。
”死の御使い” いつの間にそんな通り名が付いたのか。
幼い頃はあんなに優しかったのに……。
■■■
「姉さん、死なないで」
傍らでヒューが呟いた。つないだ手に力が籠る。
死んだ両親の棺が地中に降ろされようとした、そのとき……。弟はまだ十歳だった。
「安心おし。あたしは死んだりしないから」
涙に濡れたヒューの顔を拭いてやった。
「今日からあたしが母親代わりさ。だからいつまでも泣くんじゃないよ」
■■■
「ヒュー……」
あたしは弟の身体をきつく抱きしめた。
「おまえ、ずいぶん荒んじまったねえ」
柄にもなく涙ぐんじまった。
「あたしが悪いんだ。あたしが……」
そうさ、あたしがテロ組織と係っちまったばかりに、ヒューは……。
「アネさん!」
ボルボだ。数名の部下を引き連れて、ようやく現れやがった。
「何やってんだい! おまえが鈍間だから、ヒューは……」
それが八つ当たりってことはわかってるんだけど、感情を抑えきれなくて。
ボルボもあたしと付き合いが長いから、その点はよく理解していて。さして気に留める様子もなく、あたしを押し退けると、慣れた手つきでヒューの脈と心音を確かめた。
「まだ助かりますぜ」
「本当かい!」
「でもここじゃあ、手術できねえから」
ボルボが険しい表情であたしを睨んだ。
「中央病院へ搬送しやしょう。それ以外に助かる道は……」
「でもどうやって?」
車だと飛ばしても五時間はかかる。それじゃ間に合わない。
ボルボが提案した。
「尊師のヘリを使いましょう。あれならハトバラまで二〇分で到着しやす」
そうだ、その手があった!
あたしは居並ぶ部下を睨みつけた。
「あのジイサンはどこにいるんだい?」
「ジイサン?」
部下の一人が呆けた表情で呟いた。
苛立ちを抑えきれずに叫んだ。
「決まってんだろ。ハシムのジイサンだよ!」
部下の一人がオドオドした態度で口を開いた。
「あの、もしかしたら犠牲祭壇では?」
「なんでそんなところにいるんだい?」
犠牲祭壇といゃあ、ヘリポート代わりに使用している宝物殿の最上部。
ご老体が夜風に当たっちゃマズいだろうに……。
その部下はたどたどしい英語にゼスチャアを交えながら、
「尊師なら、間もなくここから立たれると聞いております」
「アアッ、なんだって!」
「ですから、ここにいては危険と申されまして」
「あの腰抜けジジイ!」
そう叫ぶや、あたしはボルボに指示を出した。
「あんたはヒューの手当てを。それから担架の用意を」
そして慌ただしく踵を返した。
「アネさん、どこへ?」ボルボが叫んだ。
「決まってんだろ、ジジイに掛け合ってくるんだよ」
ハイヒールを脱ぎ捨てると、全力で犠牲祭壇へ急いだ。
息せき切って階段を駆け上がると、ようやく犠牲祭壇へ辿り着いた。
「お待ちください、尊師!」
ハシムのジジイが振り返った。
お付きの者を従えて、丁度ヘリに乗り込もうとしていたところ。
間に合った。険しい顔でジジイに近寄ると、只ならぬ気配を感じ取ったのか、お付きの者が前へ立ち塞がった。
「どうしたのだ?」
ジジイは片手で連中を下がらせると、あたしの目を覗き込んだ。
「ヒューをお願いしましす」
「……」
「重体です」
「ウム、ヒューが殺られおったか」
ジジイは自身の長い顎鬚を弄んで考え込んだ。
クソッ、ヒューの命を値踏みしやがって!
普段はヒューのことを幹部候補なんていって持ち上げてるくせに……。
苛立ちが募って仕方ない。もしあたしの願いを拒絶したそんときゃ、覚悟おし、あんたの命はないからね。
直後、何かがプツンと切れた。
レッグホルスターから拳銃を引き抜くと、ジジイの額に押し当てた。
お付きの者が慌てて懐に手を滑り込ませる。
「動くんじゃないよ!」
大声で連中を牽制すると、ジジイを睨みつけた。
「この方が即断できると思ってねえ」
「おまえ、自分が何をしたのかわかっておるのか?」
「弟の命がかかってんだ。手段を選んでいる暇なんかないんだよ」
そう言ってジジイの顎鬚をグイと掴んだ。
「さあ、返事を聞かせてもらおうか!」
「安心せい。そんなことされんでも連れて行くわ」
ジジイは大胆にも笑顔で銃身を払い退けた。
「常日頃言っておろうが。ヒューは大切な組織の幹部候補じゃと」
「……」
無言でレッグホルスターに拳銃を収めると、ジジイは顔を顰めて顎鬚を撫でた。
「まったく、すぐにカッとなりおって。少しは弟を見習えばいいものを」
老人の愚痴に耳を傾けてる暇はない。
苛々しながら待つこと三分。ようやくボルボ一行が犠牲祭壇に姿を現した。
担架に駆け寄ると、意識不明の弟の手を取った。
「ヒュー、大丈夫かい?」
無論、返事はない。それでも声をかけずにはいられなかった。
ヒューは腹部に止血テープを巻いた状態で、担架の上に横たわっていた。
ボルボがわたしの肩に手をかけた。
「神様にお縋りしやしょう。あっしらに出来ることといゃ、それくらいしか」
「……」
生まれて初めて神様に祈った。
どうか弟をお救いください。あたしの命と引き換えにしても構いませんから。
以前なら大笑いの場面だけど……、神様に祈った甲斐があった。
ヒューが目を覚ました。
弱々しい笑みを浮かべて、あたしの手を握り返した。
「よかった。姉さん、無事だったんだ」
「フン、あたしがあんな連中に殺られるわけないだろ」
「姉さん!」
ヒューの手に力が籠った。
「姉さん、死なないで」
「なに言ってんだい! 死にそうなのは、おまえの方だろ!」
意識の混濁だろうか?
不安が募る。
と突然、ヒューが跳ね起きた。
「姉さん、逃げるんだ。僕と一緒に!」
「アッ、バカ! 起きるんじゃないよ!」
止めようとしたけど間に合わなかった。
案の定、ヒューは腹部を押さえて苦しみ出した。
止血テープに血が滲んでいる。
チッ、傷口が開きやがった。
「急いで!」
あたしの指示を受けて、ボルボがヒューをヘリへ運び込んだ。
「姉さん……」
ヒューの縋るような眼差しを振り切って、あたしはジジイに頼み込んだ。
「尊師。弟のこと、よろしくお願いします」
「ウム」
ジジイは焦れていたようだ。頷くや否や、そそくさとヘリに乗り込んだ。
やがてヘリはローターの風切り音と共に夜空へ舞い上がった。
しばらくの間、あたしはヘリを見送っていたが、やがてその姿が地平線に没すると、
「クソッ、あの女!」
レッグホルスターから拳銃を引き抜くと、予備の弾倉を差し込んだ。
荒れ狂う怒りを押し殺して、階段のステップに足をかけた。
「アネさん、どこへ?」
背後でボルボの声がした。
あたしは振り向いて叫んだ。
「決まってんだろ。ヒューの仇討ちさ」
ヒューを刺した奴はわかってる。あの女だけは生かしておけないってねえ。
刹那、足下が微かに揺れた。
えっ、地震!?
焦げ臭い臭いがツンと鼻を衝く。
ドォーン!
と突然、大音響と共に宝物殿の一角から炎の柱が吹き上がった。
犠牲祭壇を激震が見舞う。
あたしも立っているのがやっと。
やがて揺れが収まると、すぐに第二の激震が始まった。宝物殿の柱廊部が音を立てて崩れ始めた。
そのときようやく気が付いた。
クソッ、あいつら、武器庫を爆破しやがった!




