第05話 わたしが新体操選手だったころ
顔はやや上方に、右手は高く掲げて、右足はつま先立ちで。静止の姿勢で曲の開始を待つ。
観客の視線が痛いほど身体に突き刺さってくる。競技への期待感が静かな興奮となって伝わってくる。
失敗は許されない。もし失敗したら、今までの努力が水泡に帰してしまう。青春のすべてを失ってしまうのだ。
子供の頃から憧れていた新体操の選手。その夢は叶った。こうしてオリンピックの強化選手になれたのだから。
後はオリンピックに出場して、この手で金メダルを掴み取るだけ。手にした棒から垂れ下がる、長さ六メートルのリボンが鮮やかに宙を舞ったとき、わたしはオリンピックの出場権を手にすることができる。
彼方から光の粒子のような音が流れてきた。
暁の女神エオリアの竪琴をピアノで模倣した美しい調べ。
もう一人の自分が囁く。
さあ、いくのよ。勇気を出して。
天界の音楽に乗って、わたしは軽やかにステップを踏み出した。
両足を交差させるステップクローズから、踵を合わせたギャロップ跳躍へ。
左足を後方へ上げた片脚バランスから、軽く膝を曲げて三六〇度ターンへ。
つま先立ちの軽やかなワルツステップから、両脚を前後に開いた開脚跳びへ。
右腕を頭上へ上げると、リボンが美しい円や八の字を形作る。
身体のリズムと曲のリズムが完全に調和している。
ステップ、ジャンプ、ターン、バランス。どれもが完璧な形で決まってゆく。
練習でさえ、これほどうまくいったことはない。
今まで一度も味わったことのない爽快感。まさに会心の演技だ。
フフッ、わたしって本番に強いのよね。
自分の力を信じているから、大事な時に実力を発揮することができる。
これを過信と言うなかれ。
天才と呼ばれる人間には、生まれつき備わった資質なんだから。
両脚を引き付けるツーステップから、右足を後方へ上げて一八〇度ターンへ。
肩越しに反って回転するローリングから、片膝を床につけた静止バランスへ。
右脚を前へ上げてスキップする片脚跳躍から、左脚を前方へ曲げた鹿跳びへ。
右腕を体側へ伸ばすと、リボンが美しい波形や螺旋を形作る。
イケる! この演技なら最高得点間違いなし!
あ~、夢にまで見たオリンピック。とうとう出場できるんだ。
春の日差しの中を翔ぶ蝶々みたいな気分。
来年のオリンピック競技会では、世界中の人々がわたしの演技を絶賛するはず。
天才的演技、魅惑の笑顔、抜群のプロポーション、等々。
そして付けられた愛称は”新体操の麗しき妖精”。
世界中のネットやTVや雑誌に出まくって、持って生まれたアイドル性をアピール。競技会の合間を縫って、映画やドラマに主役として出演。これが当たりに当たって、アッという間に大スター。果ては若くて二枚目の俳優と、嬉し恥ずかし恋愛スキャンダル~!……と言うのは、まあ、冗談なんですけど。
上体を前傾させたバランスターンから、左脚を振って三六〇度連続回転へ。
回れ、回れ、ピルエット!
さあ、最後は華麗に決めてやる!
アッ……。
踏み切ろうとして足が滑った。回り過ぎてバランスを崩したのだ。
血の滲む思いで特訓した三回転空中ターンは儚くも不発。
でも嘆いている暇はない。放り上げたリボンが落下してくる。ここで受け損ねたら、失格にも等しい減点となる。
神様、お願い。間に合って……。
辛うじてバランスを立て直すと、思い切り右腕を体前に差し出した。
コニー、コニー、
彼方でわたしを呼ぶ声がする。
誰なの、私を呼ぶのは……。
揺籃に差し伸べられた暖かい掌。
優しい囁きに促されて、物憂げに双眼を見開いた。
「コニー!」
吃驚の声と共に、突然、あの人の安堵した表情が目の前一杯に広がった。
「あら、秀一郎さん」
目を合わせたとたん、頭の中の靄が一瞬で吹っ飛んだ。
寝顔を覗かれた! 羞恥心をバネにして慌てて上半身を跳ね起こす。
「痛っ……」
反射的に脇腹を抱え込んだ。激痛が神経の隅々まで迷走した。
なんなのよ~、もう……。
「痛むのか?」
秀一郎さんの表情が俄かに曇った。
えっ、なに?
まるで重体患者を見守るような暗い眼差し。滅多に見せることのない深刻な表情だ。
なんか、あの人らしくない。
他にも多くの視線が感じられる。見るともなしに向けられる、好奇と憐憫の眼差し。
周囲の状況を把握して、ようやく自分の置かれた立場を理解した。
そうか、わたし、ハイジャック犯の人質に……。
「よう、お嬢様。やっとお目覚めかい?」
全身が総毛立った。悪夢再び……。秀一郎さんを挟んでひとつ隣の席に、なんと、あの紫礼装が座っているではないか。
「……」
「その様子じゃ、肋骨にひび入ってるかもしれないねえ。まっ、自業自得だよ。あたしらに逆らったりするからさ。おとなしくしていればいいものを、ほんと、バカなお嬢さんだよ」
彼女、高慢な鼻でせせら笑った。
悔しいけど仕方ない。
相手は拳銃を握っているのだ。我慢、我慢……。
「あんたの旦那も救いようのないバカだけど、あんたも負けず劣らずだ。世界一、お似合いの若夫婦、いや、バカ夫婦だよ。なんなら、このあたしが祝福してやろうか?」
彼女、冷たい瞳でせせら笑った。
腹が立つけど仕方ない。
挑発に乗ったら今度こそ最期だ。我慢、我慢……。
「社交界の大物カップルだって? ハン、笑わせるんじゃないよ。その実は親同士の決めた政略結婚だっていうじゃないか。あんた、親の政争の道具にされて、よく黙っていられるね。親の言い付けなら、愛がなくとも結婚できるんだ? 最低だねぇ~。それじゃ娼婦とちっとも変わらないよ。好きでもない男と平気で結び付くんだから」
じょ、冗談じゃない!
誰が政争の道具だって? 誰が娼婦だって?
わたしたちは純愛を貫いて結婚するんだ。親の意志なんて、これっぽっちも介在するもんか!
「でも、よくあんな男と結婚する気になったねえ? 女たらしで遊び好き、おまけに仕事もいい加減ときちゃ、会社の将来が危ぶまれるのも無理ないわ」
なんですってぇ~! どこでそんな噂話を。
「今頃は会社の連中も喜んでるんじゃない? あのバカ息子がいなくなれば、会社の経営もうまくいくってね。あたしらもその点が心配なんだ。身代金を要求しても払ってくれないんじゃないかって。むしろ感謝されたりしてね。バカ息子を誘拐してくれてありがとうって」
「なによ! 黙って聞いてりゃ、あの人のこと、バカバカバカって!」
アッ、しまった。口が滑った。ええい、かまうもんか、言ってしまえ!
「あの人はね、そりゃ多少はスケベかもしれないけど、仕事は人一倍熱心なんだから! 会社の体質を改善しようと、誰よりも一生懸命努力してきた人なんだから! わたしはね、そんなあの人の姿をずうーっと側で見守ってきたんだから! 誰よりもあの人のこと理解してるんだから! あなたなんかに、あなたなんかに、あの人の悪口言われたくない……」
落ち着いてみれば、拳を震わせて立ち上がった自分に気付く。
秀一郎さんがわたしの手を取って着席させた。
握り締めた掌から伝わってくる感謝と信頼の心。
ああ、コニー、感激!
紫礼装の眼が険しくなった。
まさか嫉妬?
あら、やだ。思わぬ形でテロリストを刺激しちゃった。
「ハハッ、あんた、よっぽど、あのお坊ちゃんに惚れてるんだねえ」
意外な言葉だった。てっきり恫喝されると思ったのに。
(へたすりゃ、この場で射殺)
「それじゃ、あんたの純愛に免じて、ひとつ面白いことを教えてやろうか」
「おもしろいこと?」
「そうさ、ネンネのお嬢さんに大ウケ間違いなしのね」
嫌な予感がする。テロリストが粋な小噺するとは思えないし。
「実はねえ、あたし、あんたの最愛の婚約者と一夜を共にしたことがあるんだ」
「あの、それってどういう……」
「わからないのかい? まっ、明け透けにいゃ一緒に寝たってことさ」
「……」
「どうだい、なかなか面白い話だろ?」
ほ~んと、面白い話。……なんて言ってる場合じゃない!
なんですって! まさか、まさか、まさかぁー!
秀一郎さんが他の女と、しかも選りに選って、こんなあばずれ女と寝ただなんてぇ~!