第56話 紫礼装の悪夢
それにしてもあの人。う~ん、誰なんだろ? 顔が見えないので確認しようがない。
でもあの艶めかしい背中のライン、どこかで見た覚えがある。
そのときベッドの上の人影が寝返りを打った。
「アアッ、あの顔!」
彼女だ、紫礼装の女!
「えっ、お知り合い?」
リンさんの吃驚した眼差し。
まさか、あんな下品なお知り合い、いるわけないでしょ。
「ハイジャックグループのメンバーの一人よ」
「な~るほどねえ、血の巡礼団のメンバーってわけか」
クリスが舌なめずりすると、徐に掌を返した。そこには白い灰がべっとりと付着していた。
「見ろよ。暖炉だ」
そう、ここは暖炉の中。昼夜で寒暖差の激しいこの地方は、中東でも暖炉が備え付けられている。
なんと、冬季には山頂に雪が積もるのだ。
使用されていたら通り抜けるのは不可能だ。なんてラッキーな。
「で、どうするの?」とわたし。
「あいつを叩き起こして、人質の監禁場所を訊くんだ。それから……」
クリスは人差し指でリンさんを呼び寄せると、耳元で「あいつを人質にするんだ。敵に遭遇したとき盾になるからよ」
「了解」とリンさんが小声で呟く。
「さあ、行くぞ」
クリスが鉄板の透き間に手をかけて、そっと右側に押し開いた。
鉄板はズズズッと動いて約五十センチ四方の空間を作った。
クリスが音もなく暖炉から抜け出る。続いてリンさん。よし、わたしも……。
ガシャ!
アチャ~! 鉄板に足を引っかけた。
凄い音が部屋中に響き渡った。
恐る恐る目を見開く。
う~ん……。
紫礼装がようやく目を覚ました。
何やらいい夢でも見ていたようで。ぼんやりした眼で一頻りわたしたちを見回すと、
「なるほど、そういうこと……」
彼女、現実が悪夢であることを認識したのだろう。険しい表情でサッとサイドテーブルの拳銃に手を伸ばした。
「おっと、そうはいかねえぜ」
クリスが拳銃を素早く掠め取る。片手で安全装置を外すと、銃口を紫礼装の額へ突き付けた。
「さあ、答えてもらおうか。人質はどこだ?」
「人質? 誰のことだい?」
なんて白々しいことを。そこはクリスも同様なようで。
「手間かけさせんなよ。なんなら、その白魚のような指を吹っ飛ばしてもいいんんだぜ」
クリスの目指を受けて、リンさんが枕を紫礼装の手に押し当てた。その上からクリスが拳銃を押し付ける。
なるほど、銃声を打ち消すために。
「三つ数える。その間に答えろ」
クリスの冷ややかな笑み。なんか背筋がゾクッとする。もしかしてクリスったら、本気でやるつもりじゃ……。
「ねえ、それってちょっとやり過ぎ……」
でもクリスは聞く耳持たなかった。
「一、二」
はっ、早い!
「三」
やめて~!
「言うよ!」
紫礼装が叫んだ。青ざめた唇が微かに綻んだ。
「ほんと、限度を知らない連中なんだから」
「フン、それはあんたも同じだろうが」
クリスの皮肉っぽい笑み。
「テロリストが世界中でやってることを考えりゃ、どちらに正義があるかは明白だぜ」
「フ~ン、そうかい」
紫礼装が顔を上げた。
「じゃあ訊くけどね。アムリア連邦が世界中に派兵している軍隊。あいつらは人を殺さないのかい?」
「……」
一瞬、クリスは返事に窮した。いい加減、そんな議論は止めればいいのに、売り言葉に買い言葉。彼女、引く気はないようで……。
「仕方ねえだろ。おまえらのテロ行為に対処するには……」
「なるほど、現地人を犠牲にしも構わないってねえ」
「……」
クリスは言葉を失った。
戦地に派兵されたアムリア兵が誤って無辜の市民を虐殺する。その少なからぬ屍の上に、自分たちの平和を構築してよいものなのか?
殺された側の遺族も苦しみ、殺した側の兵士も重度の精神病理を抱えて苦しむ。
時々、自分は誰のために戦っていたのかわからなくなる。
帰還兵が戦争を語る際、よく耳にする言葉だ。もし戦争が国防のためではなく、国益のために行われているとしたら、シンドウ重工ような兵器産業のために行われているとしたら……。戦災難民への支援という秀一郎さん事業は……、喜劇だ。
「おまえらがそんなだから、神父は地上天国なんて世迷言に狂うんだ」
紫礼装がグッと唇を噛んだ。
「付き合う身にもなってみろ!」
「おれら、現地人を巻き込む気はねえ」
クリスが苦し気に強弁した。
「でもテロリストがアムリアを攻撃すんのを、黙って見ているわけにはいかねえだろ?」
「連中が本気でアムリアを憎んでいるとでも思ってのかい?」
紫礼装がクリスを睨みつけた。
「そんなやつはごく一部さ。大半の連中は目の前にぶら下がったパンと毛布、それが欲しくて銃を取るんだ」
そして口元に浮かぶ冷笑。
「武力よりも経済力。与えるなら軍隊よりも仕事ってねえ。そうすりゃ現地人も少しはアムリア人を歓迎するだろうさ」
「……」
クリスは悔しそうに押し黙った。
紫礼装の言うことは、わたしも薄々感づいていた。
銃で殴って従わなければ札束でぶん殴れ。途上国援助の過程で、暴力に屈しなかった人がお金に屈する場面を、わたしは何度も目撃した。彼女の言うことは正鵠を得ている。
「俺の壺を一個割ったら、百個割り返してやる」
ハハハッ! 紫礼装の勝ち誇った高笑い。
「アラブ人の格言さ。せいぜい気を付けるんだねえ」
「ヤロー!」
クリスが銃床で紫礼装の腹部を一撃した。
「ウッ……」
上半身を九の字に折って苦しむ紫礼装。シーツに点々と血が滴った。
それでもクリスは容赦しない。ビンタを数発かまして、彼女の胸倉をグイと掴んだ。
「さあ、言え! 秀一郎はどこにいる?」
紫礼装は観念したのだろう。血に染まった唇を舌で舐めると、
「宝物殿の三階、ライオンの間」
クリスが困惑した表情でリンさんを見た。それはわたしも同じ。
だって誰も宝物殿は疎か、ライオンの間さえ知らないのだから(ああっ、こんなときにサリムがいたら!)。
「仕方ねえ、そこへ案内してもらおうか」
クリスが紫礼装をベッドから無理やり立たせた。すかさずリンさんが紫礼装の手首を結束バンドで後ろ手に縛り上げる。
「さあ、行け!」
クリスが紫礼装の後ろ髪を一束握り締めると、
「騒いだら、その場で射殺するぞ」そう呟いて、彼女の背中に拳銃を突き付けた。
リンさんが扉を開いて左右を確認する。親指と人差し指を立てて前へ突き出す。
オールクリア。敵兵の姿は見えずのサインだ。
「どっちだ?」とクリス。
紫礼装は顎先で右方を示した。
クリスが紫礼装を盾にして、石造りの通路を小走りに走り始めた。わたしも後に続こうとしたら、「待って」とリンさん。
「クリスが指示を出すまで、ここで待機よ」
通路の角で左右を確認したクリスが、ほどなく片手を挙げて、わたしたちに来るよう合図した。
「さあ、行って」
リンさんに促されて通路の角までひとっ走り。わたしがクリスの背後に身を潜めたのを確認して、最後にリンさんが走り出す。そしてわたしの背後へ身を潜める。
「行け」
わたしの背後でリンさんが呟く。それを受けて再びクリスが次の角まで走り出す。そんなことを何度も繰り返して、少しずつ目標地点へ接近してゆく。
「おかしいな」
クリスが首を捻った。
「敵兵の姿が見えねえなんて」
「深夜だからじゃない?」とわたし。「大抵の人は夜寝るものでしょ?」
その安易な考えをリンさんが正してくれた。
「ここは要塞よ。歩哨くらい立てたって……」
う~ん、そう言われてみれば……。敵兵に遭遇しないで、単純にラッキーと思ってたけど。案内しているのが紫礼装だし。もしかして、これは「罠!?」
「それは何とも言えねえが……」
クリスは絶え間なく周囲に目を配ると、
「今はこの女の言うことを信じるしか……」
だから不安なのにぃ~。状況は最悪! でも愚痴を零せば紫礼装に笑われる。今は不安に耐えて希望に縋るしかない。そんな状況が十分ほど続いたろうか。やがて紫礼装はとある一室の前で立ち止まった。
「ここだよ」
えっ、ここ?
ガチャガチャとノブを回してドアが開かないのを確認すると、
「秀一郎さん、秀一郎さん……」
拳が痛くなるほどドアを叩き続けた。それでも中から反応はなく……。
「どけ!」
クリスがわたしを押し退けた。
「おい、リン。万能キーだ」
リンさんが慌てて身体中を弄る。
「ええと、どこだっけ?」
やがて左の胸のポケットから万能キーを摘まみ出した。
クリスが乱暴に奪い取って鍵穴に差し込む。
ガチャガチャ……。
「よし、一発だ」
ドアに体当たりを喰らわせて室内に雪崩れ込んだ。
わたしも後に続こうとしたら、「待って」またもリンさんに止められた。
「室内の安全を確かめるのが先よ」
流行る気持ちを押さえて、リンさんの肩越しに室内を覗き込むと、なによ~、どこにも秀一郎さんの姿は見当たらない。
「おい、いねえじゃねえか」
クリスが紫礼装に拳銃を突き付けた(わたしだったら、そのままトリガーを引いてやる!)。それでも彼女、涼しい顔を崩すことなく、
「そりゃそうさ。ここはオリックスの間、残念ながらライオンの間じゃないんでねえ」
「言ったろ? 人質の監禁場所へ案内しろって!」
クリスの額に青筋が浮かび上がった。
「なにね、お坊ちゃんに会わせる前に、ちょいと観てもらいたいものがあってね」
紫礼装は何食わぬ顔でパソコンの再生キーを押した。
「おい、動くな!」
クリスの恫喝は物の見事に無視された。
「クソッ」
いくら言うことを聞かないからと言って、案内人を殺すわけにはいかない。クリスが銃口を向けた先は、パソコンのモニターだった。
「ウッ……」
クリスは呻き声を上げたきり、トリガーを引こうとはしなかった。
どうしたの? と思ってモニター画面を覗き見ると、
「ああ、秀一郎さん!」
なんと画面には秀一郎さんが映し出されているではないか! それもパンツ一丁で椅子に縛られた、悲惨極まりない姿で……。




