第50話 血の巡礼団の肖像 その2
「ボルボ、すみませんが、席を外してもらえませんか?」
「へい」
二人してボルボの淋し気な背中を見送ると、やがて神父が口を開いた。
「何を観ているのです?」
「フン、そんなもん、見りゃわかるだろ」
目の前に広がる大自然のパノラマ。それ以外に何があるっていうんだい?
神父が目を細めた。
「いえ、あなたの心象風景まではわかりませんので」
なんだ、そういうこと。
あたしも釣られて微笑んだ。
でも言葉は返さない。祖国のことを思い出して、ホームシックに罹ったなんて、恥ずかしくって言えないってね。
でも神父は何でもお見通し。
「祖国のことですか」
涼しい顔でそう言われたら、笑って誤魔化すしかなかった。
ほんと、隠し事なんて出来やしない。
風の音、鳥の声、そして心が通ったときの心地よい沈黙。
あたしの至福の時間。この瞬間、時間が止まってくれたら……。そう願わずにはいられない。
この瞬間が過ぎれば、あたしはまた血と硝煙の世界に舞い戻るのだから。
ちょっとだけ、神様にお願いしてみようか。普段は鼻もひっかけないけど。都合のいいときだけ神様を利用するなんて、神父が聞いたら怒るかもしれないけど。
心中で願掛けしようとしたそのとき、
「実は話があるのですが」
神父があたしを見つめて呟いた。
「話?」
心地よい雰囲気をぶち壊されて、あたしはちょいとお冠。それでも神父は涼しい表情を崩さなかった。
「地元の協力者から情報が入りまして。レストランで三人のアムリア人を見かけたと。二十歳前後の大学生風。たぶんハシャを殺った二人と、例の女秘書でしょう」
あたしは驚いて叫んだ。
「あのバカ娘、まだクルシアをウロウロしていたのかい?」
「囚われの婚約者と離れがたいのでしょう。まったく、おめでたい娘ですよ」
神父も呆れて肩を竦めた。
まったく、なに考えてんだい。逃げられたっていうのにさ。
おとなしくアムリアで待ってりゃ、そのうち婚約者は帰ってくるっていうのに。
「そこで相談なのですが」
神父の視線が遠景に逸れた。
癇に障る態度だ。気に入らないねえ。そんなときゃ、決まって言い出しにくいことを言うもんだけど。
神父が重い口を開いた。
「明日、尊師は首都へお帰りになります。どうです? あなたも同行しては」
「どういうことだい?」
「明日か、それとも今夜か。いずれ敵は襲撃してくるでしょう。その前に非戦闘員は要塞から退去させるのが賢明かと」
「非戦闘員だって? そりゃ、いったい誰のことだい?」
「……」
神父は何も言わなかった。
ただ悲しそうな瞳で、あたしを見つめただけ。
冗談じゃないよ。今更、離れ離れになれるわけないだろ? 今まで二人して何度も死線を潜り抜けてきた仲じゃないか! 今頃になって、なんでそんな弱気なこと言うんだよ。
神父はあたしの気持ちを察したのだろう。
厳かに頭を振ると、
「今度の敵は今までとは違います。ハシャが殺られ、ヒューとボルボが辛うじて逃げ延びた。そんな強敵の前に、あなたを晒したくはない」
「で、あたしが素直に逃げるとでも思ったのかい?」
「……」
神父はしばし瞑目すると、やがて意を決した目を見開いた。
「本意ではありませんが、あなたがどうしても残るというのであれば、力尽くで退去させるしか」
あたしは大声で神父を怒鳴りつけた。
「ふざけんじゃないよ! もしそんなことしてみな! 拳銃で自分の頭を撃ち抜くからね! ナイフで自分の咽喉を掻き切るからね! あたしゃねえ、死ぬ覚悟なんてとっくの昔に出来てるんだ!」
握った拳がブルブルと震えている。
言いたいこと言ったら、涙腺から感情が溢れ出て視界が霞んでしまった。
思わず拠り所を求めて、神父の胸にしがみ付いた。
「でもね、あんたの死は看取らない。あんたの墓も、あんたの遺品も、あんたの遺言も、あんたの死体も、一切合切看るつもりはないから」
涙に濡れた瞳で、神父の顔を見上げた。
「わかるかい? 一瞬でいいから、あたしより長生きしてくれってことだよ」
もう神父なしじゃ、生きていけそうにないから……。
不意に神父の腕があたしの身体を掻き抱いた。
背骨がひしゃげちゃいそうなほど力強く……、あたしの唇に自分の唇を重ね合わせた。
なんか頭の中がクラクラする。ほんと、キスなんて久し振り。
思い返してみりゃ、最初にホテルにしけ込んで以来、あたしら、セックスは疎か、キスだってご無沙汰なんだ。
なんでかねえ。テロリストになってから多忙を極めてはいたけれど、それくらいやる暇はあるってねえ。
ほんと、わからないよ。
外部から耳障りな雑音が入った。
「お取込み中、申し訳ねえが」
ヤンシだ。
口元に侮蔑的な笑みを浮かべて、サングラス越しにこちらを眺めてやがる。
「今し方、地元の協力者から連絡が入った。アムリア人の四人組が町外れの荒野をうろついていたそうだ」
「フム、四人組ですか」
神父の体温が急速に冷めてゆく。
もう神父の頭の中に、あたしの入り込む余地はなかった。
神父の怜悧な瞳があたしを映した。
「うち二人はたぶん、あなたを襲った例の二人組でしょう。どうやら敵方も役者が揃ったようです」
神父は去り際、あたしを振り返った。
「去るか、残るか、選択はあなたにお任せします。ですがわたしの死を看取りたくないというのであれば……」
あたしの心はとうの昔に決まってるんだ。今更、何を言われたって変わるもんじゃないさ。
でも一つだけ頼みたいことがある。
「ヒューをお願い。弟は死なせたくないから」
「わかりました。さっそく手配しましょう」
神父はそう請け負うと、ヤンシを伴って足早に部屋から出て行った。
よかった。
安堵のため息を漏らすと、再び薄暮に目を映した。
既にバラ色の都市は影を潜め、夜空には星々が瞬いていた。
この美しい情景も、今日で見納めかもしれないねえ。
なんて不吉な予感だろう。でも敢えて、それを否定しようとは思わなかった。




