第04話 バーピースオブワールドにて その2
チリン……。
呼び鈴が鳴って、樫製のドアが軋みながら外気を招き入れた。
静謐に満ちた店内に、雑踏の喧騒が渦を巻いてなだれ込む。
新規のお客は、大学生風のマヌケ面した男たちだ。
すでに数件の店を梯子しているのだろう。いずれも赤ら顔で呂律も上手く回らないようだ。
「マスター、水割りね」
「こっちはブランデー」
周囲に雑音を撒き散らしながら、中央に置かれたマホガニー製のテーブルを占拠した。
まったく、うるさいね。
この店はね、アダルトムードで売ってるんだ。
ガキの来る場所じゃないんだよ。
「マスター、いつからあんな連中を相手にするようになったの?」
「場末の店ですからね。お客さんの選り好みなんてしてられませんよ」
「知らないよ。馴染みの客が離れたって」
学生たちの話題といえば、女だの、ギャンブルだの、くだらないことばかり。
ほんと、酒が不味くなる。
連中を戦場送りにして、地獄を体験させれば少しはおとなしくなるか。
「お子様にマナーを教えてやりなよ。なんならわたしが教育してやろうか?」
「やめてくださいよ。金払いのいいお客さんなんですから」
マスター、注文された高級酒を盆の上に並べると、
「多少の迷惑は我慢していただくのが、ツケで飲んでいるお客様の義務というものです」
そう言い残して、学生のテーブルへ酒を運んで行った。
「変わったね、マスター。昔はマナーにうるさかったのに」
マスターの寂しげな背中へ皮肉交じりの独り言。
「酒は静かに嗜むもの、そう教えてくれたのはマスターなのに……」
士官学校の生徒なら、一度はドアを潜って酒のマナーを教わる場所。
今はそんな習慣も廃れてしまったのか。
時代のせいにはしたくないけど、なんか寂しい気がする。
不意に背後で声がした。
「お嬢さん。一人で飲んでないでさぁ、どう、俺たちと一緒に?」
酒気に侵された甘ったるい囁きが、湧き上がる泡沫の中でパチンと弾けた。
止まり木を回して背後を見ると、レナが学生たちに包囲されていた。
チッ、あんな連中にナンパされるなんて、女性士官も舐められたものだ。
「なあ、いいだろ? 一人より大勢の方が楽しめるぜ。だからさあ……」
学生の一人がレナの肩に気安く手をかけた。
体育会系の筋骨たくましい男だ。まったく、無駄な筋肉つけちゃって。
相手の女性が一般市民であれば目に余る行為と映るんだろうが。
意を決して止めに入ろうとしたマスターを引き止めると、
「いいよ。余計なことしなくても。酒の余興だ。楽しもうじゃないか」
「いいんですか? 可愛い部下を放っておいて」
「かまうもんか。あれしきの包囲網、レナなら簡単に突破できるさ」
レナは連中を無視して、休むことなく酒を煽り続ける。一気飲みして胃の腑をカッと燃え上がらせる。歓喜に潤んだ双眼は、グラスの底を見つめたまま……。
「よう、酒ばかり飲んでないでさ。少しは愛想のいい笑顔でも見せてよ」
今度は痩身の男が猫なで声で囁く。先ほどの筋肉男と違って、女好きのする二枚目だ。
連中がナンパするときに使う最終兵器とみた。
「ねえ、なんとか言ってよ。唖じゃないんでしょ?」
レナはグラスを一気に煽ると、鷹揚のない乾いた声で、「うるさい」と呟いた。
「えっ、なんだって?」
「消え失せろ」
「なんだと、この女、舐めやがって!」
激高する痩身を押し退けて、筋肉男がのっそりとテーブルに腰を下ろした。
「まったく、礼儀知らずなネエちゃんだぜ。ここはひとつ、酒のマナーってやつを教えてやるか」
レナの胸倉を掴むと、手にしたボトルを突き付けた。
「さあ、注げよ。そうすりゃ、さっきの生意気な態度は許してやる」
レナの鋭い眼差しが筋肉男のツラを撫でる。人の死を何度も映してきた透明な水晶。
連中が気圧されて一歩引き下がる。
レナは素早くボトルを掠め取ると、グイッと一口酒を含んで、
ブーッ!
筋肉男の顔面に酒を吹きかけた。
「テメー!」
筋肉男に突き飛ばされて、レナの身体が宙を舞った。
激しい音を立ててテーブルがひっくり返る。
レナは倒れたテーブルに凭れてピクリとも動かない。
「ヘへッ、ザマーミロ!」
振り向いた連中の顔は嫌らしい笑みに染まっていた。
サイテーだね、女に暴力振るうなんて。
絡み合った視線を辿って、痩身がアホ面下げてこちらへ近づいてくる。
「オネエサン、頼むから手間かけさせないでよ」
あ~、虫唾が走る。
甘ったるい囁き声で人を恫喝するとは。恐怖の余り、わたしがなびくとでも思ってんのか。女を力でねじ伏せようだなんて、まったくバカにしてくれちゃって。
「ほんとは俺ら、とても女性に優しいんだ。一緒に飲んでくれたら、好きな酒、なんでも奢るからさ」
「まっ、タダ酒ってのは悪くないんだけど」
痩身を端目でジロりと睨み付けると、
「そんなアホ面眺めて飲んだら、高級酒が不味くなるんじゃない?」
「テメー、舐めてんのか!」
吠える筋肉男を制して、痩身が笑顔で囁く。
「おいおい、いいのかよ? そんな口利いて」
馴れ馴れしい態度で、わたしの肩に手を回すと、
「さっきの見てたろ? 知らないよ。あのおねえさんのように痛い目にあっても」
腹立たしいけど相手は民間人だ。ここは自重して。
「これ以上、騒ぎを大きくするようなら、警察呼んでもいいんだけど」
わたしの目視を受けて、マスターが電話に手を伸ばす。
「ここは大人の店だ。女が欲しかったら、他の店を当たるんだね」
「チッ、仕方ねえな。おい、行こうぜ」
警察沙汰は拙いと判断したのか、痩身が他の連中に店を出るよう促した。
最後に聞き捨てならない捨て台詞を残して。
「ほんと、いい歳こいてなに気取ってんだ? あのババア」
ふーん、ババアねえ。
まったく、命知らずなお子様だこと。
軍隊なら上官侮辱罪で銃殺だ。
まっ、人生の先輩として軽くお灸を据えてやらなきゃね。
「レナ!」
「はい、大尉」
「連中に目上に対する礼儀を教えてやれ」
「いいのですか? あいつら、民間人ですよ」
民間人に対して礼節を尽くすのが軍人の本分。そう軍規にも定められているのだが。
「かまわん、民間人相手でも、正当防衛は成立する」
「了解」
拝命するなり、レナは音もなく立ち上がった。
見る者の背筋を凍り付かせる、彼女の妖艶な微笑。
先ほどのダメージは皆無なのだろう。素早い動きで連中の行く手を遮った。
唖然と佇む痩身の腹部へ拳がめり込む。痩身はグエッと呻くと、腹を抱えて床に蹲った。
「コノヤロー」
我に返った筋肉男が拳を繰り出す。
女性相手とは思えない、十分に腰の入ったストレートパンチだ。
レナはその動きを見切っていた。身体を沈めて腕を巻き込むと、相手の巨体を背中に乗せて、気合一閃、前方へ投げ捨てた。
バキ!
テーブルが悲鳴を上げて真っ二つに割れた。筋肉男の体重に押し潰されたのだ。
腰を摩って上半身を起こした筋肉男の首に、すかさずレナの両腕が絡みつく。
まずい!
「そこまでだ! レナ」
「ハイ、大尉」
ゴホッゴホッ……。
レナが即座に腕を解くと、筋肉男は咽喉を押さえて激しく咳き込んだ。
わずかでも指示が遅れていたら、筋肉男の首はへし折れていたはずだ。
「マスター、警察だ、警察……」
連中の仲間の一人、金髪のロン毛がカウンターに駆け寄って、マスターに助けを求めた。
「お門違いじゃありませんか? 先に手を出しておきながら」
「おい、だからって、ありゃねえだろ!」
金髪は倒れた仲間を指さした。
「もう少しで殺されるところだったんだぜ」
「それはそれは。助かってよございましたな」
「こりゃ殺人未遂だ。早く警察を呼べ!」
「警察を呼ぶのはかまいませんが、その前に……」
マスターは悠然とした手つきで、グラスにミネラルウォーターを注ぎ込むと、
パシャ!
手にしたグラスの水を金髪の顔に引っかけた。
「さあ、これで目が覚めたでしょう。風邪を引かないうちに、さっさとお帰りなさい」
「チクショウ、覚えてろ!」
連中は痛む身体を引きづって、ようやく店の外へ姿を消した。
ハハッ、ざまないねー。
手を振って連中を見送ると、止まり木をくるりと回して、
「マスター、やるじゃない。見直したよ」
「いえ、子供を教育するのは大人の義務ですから」
厳しかったマスターの表情がわずかに緩んだ。
「すまないね、テーブル二つ駄目にしちゃって」
「かまいませんよ。連中が悪いんだから」
平然と笑うマスターの懐具合を考えると頭が痛い。なんせ壊されたのは、場末の酒場には不釣り合いな高級調度品だ。わたしにも責任の一端はあるはず。いずれツケと一緒に弁償しなければ。
「興醒めだねえ。せっかく気分よく飲んでいたのに。とんだ邪魔が入りやがった」
欠伸を噛みしめて眠気を振り払うと、
「レナ、もう一杯飲んだら引き上げるぞ」
「ハイ、大尉」
そのときカチリという小さな音がした。ベルトに下げた携帯無線機の着信音だ。
スマホは機密保持の観点から使えないから、休日だというのに、こんな邪魔なもん腰にぶら下げなきゃならない。
ほんと、軍人って因果な商売だと思う。
憂鬱な気分でハンドマイクを手にすると、
「ハイ、ムター大尉です」
「大尉、至急、司令本部に出頭してくれ」
声の主は直属の上司、ウォーカー大佐だった。
「なにか事件でも?」
「緊急事態だ。詳細は司令部で説明する」
「了解、ただちに出頭します」
ため息混じりに通信を切ると、
「レナ、休暇は切り上げだ。帰るぞ」
「了解」
「じゃあ、マスター。毎度で悪いけど、飲み代はツケということで」
力なく止まり木から立ち上がると、
「もし生きて帰れたら、今度こそ必ず払うから」
「お待ちください。これを……」
背後でマスターの声がした。
振り向くと、カウンターの上にカクテルグラスが二つ並んでいた。
「どうぞ、味わってください。勝利の美酒です」
「ありがたいねえ、マスター。じゃあ、遠慮なくいただくよ」
カクテルグラスをひとつ摘まみ上げると、
「レナ、おまえもいただけ。これを最後に酒は当分飲めそうにもないからな」
「いただきます。大尉」
二つのグラスが重なって、カチンと澄明な音を立てた。
お互いの無事を祈って無言の乾杯だ。
残念だけど、ゆっくり味わっている暇はない。グラスの中身を一気に胃の腑へ流し込む。
「いや、うまいねえー。さすがはマスター。いい腕してるよ」
空のグラスをカウンターに置くと、
「さあ、行くぞ」踵を返してドアへ向かった。
「またのお越しをお待ちしております」
わたしはマスターの暖かい声援を背中で聞いた。