第40話 イザベラの肖像
意外だねえ、まさか中東くんだりまで来て、雪が拝めるなんて。
お陰で思い出しちゃったよ。あいつと初めて出会ったときのことを。
イザベラ・グローリックはため息をつくと、再び遠景に視線を戻した。
クルシア北部に盤踞するシェネラ山。その頂を白く染めた積雪は、彼女の胸裏に久しく忘れていた心象風景を蘇らせた。
そういゃ、あの日も雪が降っていたっけ。早いもんだ。あれから三年が経つ。
その日、あたしは珍しく夜の街角に立った。
まだ宵の口だというのに、人通りは絶え、同業者の姿も見当たらない。
”紫のバラ”と呼ばれる高級娼婦には不釣り合いな場所だけど、それでも立たずにはいられなかった。
雪の降る寒い夜に、何を好き好んで。
あたしは灰色の空へ自答自問した。
火照った頭を冷やすにはちょうどいいのさ。
今夜はもう娼館へ出勤する気がしなかった。
理由は弟との姉弟喧嘩。
あいつ、ガキの分際であたしの商売にケチつけやがった。
「姉さん、そんな仕事、もう辞めてくれ!」
とうとうバレちまった。
今まで隠してきたけど、やはり十四歳にもなると気付くんだねえ。
あたしが男に身体を売ってるってこと。
そりゃ、あたしだって好き好んでやってるわけじゃないけど、弟の学費を稼ぐためには仕方ないんだ。
頭のいい弟が望んだ将来の夢は一流大学の医学部だった。お陰で金のかかること、かかること。
支給される奨学金だけじゃ、とてもじゃないけどやっていけない。
弟も高い学費を心配して、医学部への進学を諦めようとしたのだけど、
「お金のことなら心配しなくていいよ」
そう言って、あたしが進学するよう説得したんだ。
死んだ両親の願いを実現させるために。
そして何よりも弟の希望する将来を実現するために。
親の遺産だと言って見せた通帳には、医学生として十分にやっていけるだけの金額が記載されていた。
それでようやく弟も納得したのだけど。
実は親の遺産なんて一セントも残っちゃいなかった。それは全額、あたしが自分の身体で稼いだお金だった。
両親が事故死したとき、既に病院の経営は火の車だったと、後になって管財人が教えてくれた。
下町で医院を開業したのが運の尽き。貧乏人相手の商売じゃ、ろくな稼ぎになりゃしない。
経営内容はむしろ無料奉仕に近かったらしく、未払い分の治療費を回収すれば、借金は十分返済できたそうだ。
父は家族を犠牲にして、貧乏人から感謝された人。でもそれだけだった。
両親の葬儀に参列した患者たちは、惜別の言葉は述べても、未払い分の治療費を払おうとはしなかった。
つまりあたしたちに残されたのは借金だけ。相続権を放棄することで、そちらの方は片付いたけど、あたしらだって無一文。着の身着のままでアパートから追い出された。
そのときあたしは十八歳。そして弟は十歳。まだ小学生だった。
あんときゃ途方に暮れたけど、それでもどうにか二人でやってきた。
娼婦になったのも、そのうちお金が必要になると思ったから。
弟の優秀な成績と、将来医者になりたいという希望を知った時、あたしは決意した。
きっと弟を医者にしてみせるって。それには先立つものが必要だから、あたしはバカでも楽して稼げる商売を選んだってわけ。
それなのにヒューったら、人の苦労も知らないで!
ふと夜空を見上げたら、帽子のつばから雪が零れた。
辺りは一面の銀世界。なんだか身体が冷えてきた。
ほんと、冷え性には堪えるねえ。
それでも家に帰る気がしなかった。弟とケンカした後じゃあ、顔を合わせるのが気まずくって。
こんな夜は商売抜きで男と寝るに限る。いい歳したスケベ爺とばかりじゃ、いい加減、身体と感情を持て余してしまう。
それにしても寂しい場所だねえ。
もう三十分も近くも佇んでいるのに通行人は数えるほど。
誰も声なんかかけちゃくれない。
そもそもこんな貧乏臭い通りに立っているのが間違いだった。
絶世の美女をただで抱けるチャンスなのに、ほんと、もったいない話。
仕方ない。今夜はホテルで淋しく一人寝ってね。
そのとき目端に入ったんだ。あたし好みのいい男が。
歳は三十前後。やつれた面長の顔に金縁眼鏡がよく似合う。その知的で繊細な風貌は、どことなく弟を想起させた。
あたしはためらうことなく声をかけた。
「どう、あたしと遊んでかない?」
男は立ち止まってあたしを見た。その拍子にロングコートの裾がはだけて、中に着込んだ服が見えた。それは聖職者の黒い祭服だった。
「あら、ごめんなさい。神父さんとは思わなかったから」
とんだ相手に声かけちまった。あの連中は女を必要としないから。
あたしらの商売に難癖つけて、すぐに説教垂れやがるし。ほんと、嫌な連中だよ。
なにか言われる前に退散しなきゃ。
あたしは愛想笑いを浮かべて、足早にその場を立ち去ろうとした。
「お待ちなさい」
ほ~ら、来た。お得意の愛と慈悲の洪水だ。
こっちは酸いも甘いも噛み分けた大人なんだから、今更神父の甘ったるい説教なんて聞く耳持たないよ。
聞こえないふりして、さっさとその場から離れようとすると、
「いくらですか?」
えっ、なんだって?
あたしは思わず立ち止まった。
だって神父様ともあろうお方が、そこいらの下種な男と同じセリフを吐いたんだから。
「いくらですか?」
「あんた、あたしが何を言ってるのか知ってるんだろうね?」
あたしは念のため確認した。
「花や詩集を売ってるわけじゃないんだよ」
「ええ、それくらいは理解しているつもりです」
どうやら冗談ではなさそうだ。それにしても……。
「いいのかい? あんた、神父なんだろ? 神様の教えに背くんじゃないのかい?」
「それなら心配には及びません。わたしはとうの昔に破門されましたから」
「じゃあ、その服は?」
「他に着るものがなかったのです」
神父の顔に陰が射した。
「今日、軍刑務所から出てきたばかりなので」
「へえ、刑務所ねえ」
いったい何を仕出かしたのか。見た目は善良そうな人だけど。
あたしはチョイとばかり興味を持った。
「神父さんにしちゃ、おもしろい話をするじゃないか。どう、続きを聞かせてくれる? その辺のホテルでさ」
「それは構いませんが、何分、出所したばかりなので、その、料金の方は?」
ふっ、つまらないこと気にしちゃって。
「ただってのは、どう?」
「……」
「あたしだってたまには商売抜きで男と肌を合わせたくなるのさ」
なんか、お寒い台詞だねえ。
「特に雪の降る寒い夜は」
ほんと、お寒いったらありゃしない。
眼を逸らしたのは気恥ずかしいさを感じたから。とうの昔に失った恋人気分が蘇った感じで。だからベットの中でも気安く相手のプライバシーに踏み込めたのかもしれない。
「ふーん、あんた、初めてだったんだ?」
商売っ気があったら、そんなこと訊けやしない。事が済んだら、お金をもらってさっさと帰るだけなんだけど。
神父さんは肯定も否定もしなかった。でもあたしにはわかる。
口付けを交わしたときの、あの唇の震え。
身体に触れたときの、あの指のぎこちなさ。
なんか十代の昔に若返ったような、そんな錯覚を覚えちまう。
あたしは敬意を込めて呟いた。
「さすがは神父さんだ。真面目なんだねえ」
「真面目? わたしは犯罪者ですよ」
「……」
そうだ、すっかり忘れてた。あたしはその訳が知りたくて、彼をホテルへ誘ったんだ。それにしても、なんでこんな純粋な人が。
「実際、後悔しているのです。真面目といわれる生き方に」
「……」
あたしはお世辞にも真面目とはいえない生活を送ってるんで、それが良いのか悪いのかわからない。まあ、世間で言われてるほど、不真面目な生活が悪いってことはないんだけど……、真面目な生活が悪いってのは初めて聞いたねえ。それも神父さんの口から。
「お陰でわたしはこの歳まで未経験でした。まあ、そんなことはどうでもいいのですが」
「だってあんた、聖職者だろ? だったら……」
「大抵の者は神学校に入る前に済ませて来るのです。ですが……」
突然、あいつは両手で顔を覆って嗚咽した。
「わたしは主を信じていたのです。心の底から一片の疑いもなく!」
聖職者の純粋な心根に触発されて、眠っていた母性本能が目覚めたのか。
あたしは衝動の赴くままに、あいつの頭を掻き抱いた。そして、
「大丈夫、大丈夫だって。あたしが付いてるから」
ふっ、なんて台詞だろ。自分でも言ってることがわからない。
無意識にあいつの頭を撫でると、指間に金髪が絡みついた。
あいつは声を押し殺して泣いていた。滴る涙が、あたしの胸の谷間で筋を引いた。
でもそれが乾くのに、さして時間はかからなかった。
「さあ、話してごらんよ。楽になるからさ」
あいつは思い詰めた表情で天井を見つめたまま。まだ踏ん切りがつかないようだ。
まっ、なにがあったのかは知らないけど、無理に訊くことはないやね。
あたしらは無言で抱き合ったまま。そうして至福の時間だけが過ぎてゆく。
やがてあいつの両腕から力が抜けてゆくのが感じられた。
「寝たの?」
返事はなかった。
あたしはあいつの額に接吻すると、滑るようにベッドから立ち上がった。
「待って……」
振り返ると、あいつは縋るような眼差しで、あたしの手首を握り締めた。
「あなたに神父の役割を振るのは気が引けるのですが……。できればわたしの話を聞いてほしい」
「いいよ、聞いてあげる。たまには神父さんだって、人に話を聞いてもらわなきゃね」
「すまない」
あいつは申し訳なさそうに頭を垂れた。
「じゃあ、シャワーを浴びてくるから。あんた、お酒飲めるんだろ?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、一番高いワインを注文しようか。あんたの出所祝いを兼ねてね」
それからあいつの口を通して語られたことは、とてもじゃないけど、ワインなしには飲み込めないものだった。
あいつはクワイン内戦に従軍して、そこで自分のミスから多くの味方兵士を死傷させてしまったのだ。
テロ組織との関連性は否定されたものの、テロ実行犯の少女を許可なく基地内に入れた罪を問われ、軍刑務所に収監された。
「わたしは天使に裏切られたのです。でも天使が憎んでいたのは、父親を殺したアムリア人でした」
あいつは片手で目頭を押さえた。
「わたしは憎む。戦争を。天使に凶行を成さしめる戦争を。戦争を遂行する為政者を。戦争に加担する市民を。そして我が祖国、アムリア連邦を……」
そのときもう一人のあたしが囁いた。
「ねえ、あんた、出所したばかりで仕事がないんだろ?」
「……」
「だったら就職先を紹介しようか?」
そうしてあたしはもう一つの就職先、ーー同衾した政財界のお偉方の情報を高値で買ってくれるーー有名なイスラム武装派組織の名を上げた。




