第03話 バーピースオブワールドにて その1
カクテルグラスの底から湧き上がる泡の向こうで……。
コップを拭く手を休めて、彼がほほ笑んでいる。
バーテン特有の愛想笑いだけど、それでも心和むひと時。
カウンターを挟んで行き交う、他愛のない会話の断片。
一秒、一分、一時間……。先へ命を繋ぐ必要のない安息の日々。
戦場で極度の緊張感を味わった後だから、カクテルも美味しく味わえる。
アンネ=ソフィ・ムターの片頬に微笑が浮かび上がった。
士官学校以来の馴染みの店は、久しく忘れていた笑顔を思い出させてくれる。
「マスター、もう一杯」
グラスがすぐ空になる。早いピッチでもう七杯目。
重ねたグラスの数を覚えてるってことは、まだ酔っちゃいないってこと。
酒に強い体質が仇となって、なかなか浮世の頸木を断ち切ることができない。
「いいんですか? もう、ずいぶん飲んでますよ」
ありがたい、マスターの親心。なまじ親身なだけに厄介だ。
ほんと、酒が不味くなる。
鼻髭の似合うナイスミドルの忠告でなきゃ、とっくに酒を引っかけてる。
「人の心配するより、自分の心配したらどうなの?」
グラスを傾けながら、静まり返った店内を見渡してみる。
相変わらずといおうか、お客はわたしを含めてたったの二人きり。
ほんと、よく店が続くもんだと感心してしまう。
「土曜の夜に閑古鳥なんて、この店も長くはないねえ」
「客商売ですからね。たまにはこんな日もありますよ」
「たまに? いつもの間違いだろ?」
「いつもだったら、とうに店は潰れてますよ」
マスターはグラスを拭く手を休めると、「ソフィーさんが店に顔を出すと、なぜか他のお客さんが寄り付かなくて」と冗談とも皮肉ともつかぬお言葉。
あらあら、わたしが閑古鳥の原因だったとは。
「ふーん、わたしは貧乏神ってわけか」
幼い頃、母が教えてくれた。
口端に浮かぶ微笑は怒りの転化なのだと。
マスターが静かにほほ笑んだ。
商売柄、孤独な女性客の心理など手に取るようにわかるはず。
「貯めたツケを払ってもらえば、そうですねえ、幸運の女神とでもお呼びしますか」
「ハハッ、マスターにそう呼んでもらえるなら、すぐにでもツケ払っちゃうけど」
空になったグラスを差し出して、上機嫌にカクテルの催促。
「戦場じゃあ、ろくな名前で呼ばれないからね。魔女とか女狐とか」
「敵も見る目がありませんな。こんなうら若い美女を捕まえて」
シェイカーのシャカシャカいう音が心地よい。
マスターの奏でる子守唄だ。
このまま酒気に任せて眠ってしまおうか。
「味方なら放ってはおかないでしょう? どうなんです? 恋人さんは」
「そんな人いりゃ、酒場で中年相手に管巻いたりしないよ」
指揮官として前線で戦うようになってからは、恋愛目的で男と行動を共にしたことはない。たまに近づいてくる男がいれば、それは指示を求める部下か、もしくは殺意を秘めた敵だったりする。後方勤務なら少しはプライベートな時間を作れるだろうが、あそこは刺激がなくてつまらない。
まあ、恋人作りは退役してから考えようか。
「マスターの方こそ、誰かいないの? 奥さん、亡くなってから長いんでしょ?」
「こんな寂れた酒場のバーテンに惚れる人なんていませんよ」
そうとは思えない。
渋い中年の魅力に惹きつけられる女性は少なくないはず。
四十歳という年齢なら再婚したっておかしくない。実年齢より五歳くらい若く見えるし。
「まだ十分イケてるって。自信持ちなよ。マスター」
「ハハ、お客さんに気を使わせちゃ、バーテン失格ですよ」
マスター、照れ笑いを浮かべながら、シェイカーの中身をグラスに注ぎ込んだ。
「どうぞ、生還祝いです。これはわたしの奢りですから」
差し出されたグラスは赤い液体で満たされていた。
レモンの甘い香りがツンと鼻をつく。
わたしの大好きなカクテルを、マスターは覚えていてくれた。
「悪いね、マスター」
グラスを摘まみ上げて、その縁にキスすると、
「軍人はこいつがなくちゃ、やっていけないってね」
我が人生を彩る美味い酒と素敵な恋。
血と硝煙の臭いをしばし忘れさせてくれる。
「そちらの方もどうぞ。一杯差し上げますよ」
店の片隅で一人酒を嗜む女性客。
声をかけたマスターの方を見向きもしない。
わたしの連れ、エレナ・ニコラスカ中尉だ。
軍人に不愛想なやつは多いが、彼女はそれを通り越して無感情でさえある。
「レナ、せっかくの好意だ。ありがたく頂戴しろ」
「隊長、それは命令ですか?」
彼女の黒い瞳が微かに揺れた。
グラスを重ねているのにまったく濁りが見えない。
「飲みたければ飲めと言っている。おまえの自由だ」
「ではお断りします。人の奢りで飲んでも、美味しくありませんので」
彼女は再びグラスに意識を落した。
まったく、可愛い顔して愛想のない。
「部下の教育が行き届いてますな。肝心の隊長に問題ありですが」
マスターの皮肉が耳に痛い。
レナのお陰でわたしは感情的と見られやすい。
「まあ、わたしより腕は確かだけど……」
わたしの片腕となって二年。レナは卓越した力を存分に発揮してきた。
彼女は困難な命令を怜悧に処理する能力を有している。でも殺人マシーンと呼ばれる彼女だから対処できない状況もある。
「命令に忠実なだけの兵士は、状況に応じた闘い方ができないから」
戦闘員個々の柔軟な判断力が作戦を成功させる鍵なのだが。
死が日常化した戦場でも、殺害はひとつの手段に過ぎない。
先走る殺意を抑えきれない者は、却って自分や仲間を窮地に追い込んでしまう。
「融通の利かない人は駄目ってことですか?」
「戦場じゃ予期せぬ出来事なんて山ほどあるから。躊躇すれば死ぬのは自分だし」
グラスを一気に煽った。
ペパーミントの味が苦く感じられる。
子供殺しのレナ。
彼女は口封じのために、ためらうことなく民間人の少女を殺害した。
「いちいち上の命令なんて聞いちゃいられないよ。なあ、おい、そうだろ?」
レナはグラスにわたしの影を映すと、
「一人一人が指揮官となって臨機応変に戦ってこそ、勝利を得ることができる。それが我が部隊の鉄則です」
戦闘に不適切な他人の命を奪うことは、兵士にある種の敗北感を生起させる。
あの場合、少女を見逃す手はあったのだ。
彼女は夢を見ないのだろうか? 恐怖に歪んだ、あの少女の顔を。
「よろしい、褒美に一杯奢ってやろう。なんでも好きな物を注文しろ」
「それは命令ですか?」
「ああ、命令だ。なんならボトル一本注文してもかまわないぞ」
「了解しました。マスター、そこのウオッカを」
彼女は取り澄ました顔で、酒棚にある一番強い酒を注文した。
「ほどほどにしてくださいよ。飲み過ぎは身体に毒ですから」
マスターの忠告もなんのその。
レナはウオッカの酒瓶を受け取ると、さっそくグラスに注いで一息に飲み干した。
「困りましたね。そんな飲み方しちゃ、肝臓が持ちませんよ」
困惑するマスターの表情を眺めていると、なぜか笑いが込み上げてくる。
「放っときなよ。どうせ前線に出ちまえば、彼女は一滴も酒は飲まないんだから」
「本当ですか? あんな飲みっぷりのいい人が」
「ああ、軍規では前線における飲酒を堅く禁じているから」
肩を竦めて暗に叛意を示すと、
「まあ、守ってるやつは彼女くらいだけど」
「自分に厳しい方ですな。レナさんは」
「軍務に忠実という点では、我が軍一の模範兵だろうね」
わたしとマスターの視線の先に、一人グラスを傾けるレナがいる。
なにかに挑みかかるように、次々にグラスを空にしてゆく。
彼女は兵士の友たる酒ですら怨嗟の対象とするのだろうか?