第37話 神父と花売りの少女 その3
最後の邂逅から既に一年が経過していた。
衛兵と、何やら押し問答しているようだが。
ハマーから下車すると、その懐かしい後ろ姿に声をかけた。
「やあ、ミン。久し振りだね」
「神父さん」
ミンが振り返った。その顔に歓喜とも吃驚ともつかぬ複雑な表情を浮かべて。
でもその歯切れの悪い呟きに、再会の喜びは感じられない。
眉根を寄せた困惑の表情が、次第に硬直した微笑みで染められてゆく。
そういえばあの愛くるしい頬も、いくぶん落ち窪んでいるように見える。
間違って別人に声をかけたときのような、そんな極まり悪さだけが残った。
沈黙の隙間に、衛兵が言葉を挟んだ。
「あの、この子は神父さんの知り合いですか?」
「ええ、そうですが、なにか?」
「なら、神父さんからも言ってやってください。ここは関係者以外、立ち入り禁止だと」
「あの子、何の用事で来たのです?」
「基地内で花を売りたいそうです。兵隊さんはお得意様だとか」
なるほど、そういうわけか。
わたしはミンの方へ向き直ると、
「どうして以前のようにレ=ロム通りで売らないのです?」
「売り上げが少ないと、家族と一緒に暮らせないの。もう、お母さんと離れたくないから」
ミンが気恥ずかし気に俯いた。
この子が親戚の家に預けられていたのは生活苦が原因だった。
親戚の下でずいぶん淋しい想いをしたのだろう。
やつれたのは子供なりに苦労したせいか。
手が自然に伸びて、ミンの頭を優しく撫でた。抱きしめたい衝動を押さえた精一杯の愛情だ。
わたしは衛兵に指示を出した。
「さあ、この子を通してあげなさい」
「ですが、上の許可がないと」
なおも渋る衛兵に、わたしは微かな怒りすら感じていた。
だが彼は職務に忠実なだけだ。非難される謂われはない。
仕方ない。わたしはミンのために一計を案じることにした。
いったん検問所から離れると、ミンを車のトランクに忍び込ませた。そして何食わぬ顔をして、まんまと正門を通過した。
軍規違反ではあるが、主の御旨には逆らえない。
わたしは軍人である前に、まず神の牧者でありたかった。
基地内に入ると、もうミンを咎め立てする者はいなかった。廊下で擦れ違う大勢の兵士が、ほほ笑むか、優しい言葉を投げかけてくる。顔見知りの兵士の中には、ミンの不在を心配してる者もいた。
わたしが彼女の不在の理由を説明すると、彼は二百シムス紙幣を差し出した。そして釣銭を無視して、花束だけを受け取った。
誰もが、少女との再会を喜んでいるようだった。これなら花籠一杯の花束も、即座に売り切れるに違いない。
時刻は正午を回ったところ。食堂に連れて行けば、兵士たちが先を争って買ってくれるはずだ。
ミンを伴って食堂に入ると、食事中の兵士たちに話しかけた。
「皆さん、少しお時間を頂ければ幸いです」
会話が沈静する中、一人の兵士が声を上げた。
「なんだい、神父さん。お昼時まで説教ですかい!」
午後の食堂は和やかな笑いで満たされた。
一頻り笑いが収まると、傍らにいる少女を紹介した。そして彼女をここへ連れてきた理由を説明した。
「どうか、この子の売り上げに協力してください」
即座に数名の兵士が立ち上がった。
多くの兵士がその後に続き、ミンの周りで輪を作り始めた。
ホッと安堵の吐息を漏らしたのも束の間、不意にミンが振り向いた。
「あの、神父さん」
「なんですか?」
「わたし、財布を落としたようなの。たぶん車のトランクの中だと思うの。だから……」
「ああ、わかりました。探してきましょう」
わたしはその場を足早に去った。
だが冷静であれば、わたしはすぐに気付いたはずだ。
ミンと交わした最後の言葉が、わたしを食堂から立ち去らせるための方便であることを。それが愛情に裏打ちされた、赦されるべき嘘であることを。
食堂を出て廊下を曲がった所で、ふと立ち止まった。
そうだ、確かミンは財布を持っていたはず。
先ほど兵士に花を売ったとき、ミンは釣銭を払おうとして、首から紐でぶら下げた財布を握り締めた。
おかしな話だ。なんか嫌な予感がする。
胸騒ぎを覚えて、踵を返したその時、
ドォーン!
突然、轟音が鳴り響いて廊下を突風が突き抜けた。
直後、辺りを静寂が支配した。そして火薬と肉の焼ける臭いが漂い始めた。
これは戦場の臭いだ。
やがて廊下の向こうから怒声と呻吟が沸き上がった。
急げ、食堂だ!
誰かが叫び声を上げた。
硬直した身体が呪縛から解放された。
衝動の赴くままに食堂に駆け付けた。
まさか、そんな……。
焼け焦げた壁、散乱した椅子やテーブル。粉々に砕け散った窓ガラス。そして血塗れで倒れた大勢の兵士たち。
薄れゆく爆煙の中から、戦場と見紛う光景が現出した。
茫然と佇むわたしの耳に、何者かが囁きかけた。
「神父さん……」
ひっくり返ったテーブルの陰から、見知った顔が覗いている。
第二小隊の一等兵だ。
信仰の篤い兵士で、日曜日の礼拝を欠かしたことがなかった。
急いで駈け寄ると、傷の程度を確かめた。
どうやら傷は浅いようだ。
「安心なさい。これなら助かります」
「神父さん!」
彼は意識を回復すると、わたしの肩を鷲掴みにして、乱暴に揺さぶった。そして血を滴らせた口から、思いもかけぬ言葉を吐き出した。
「あの子ですよ! あの子がやったんです!」
「あの子って……」
「ミンですよ。ミンが食堂を爆破したんです!」
まさか、ミンが……。
「あの子の籠が突然爆発しやがって……。クソッ、爆弾テロだ!」
信じられない。あんな年端もいかぬ子が……。
フラフラと立ち上がると、ミンの姿を求めて瓦礫の中をさ迷い歩いた。
やがて折り重なった兵士の死体の間に、小さな掌が覗いているのを発見した。
ミン!
駈け寄って、兵士の遺体の中から、ミンの身体を引き摺り出した。
首の頸動脈に指を当てて脈を確かめる。
ない。
胸に耳を当てて心音を確かめる。
ない。
心臓マッサージを施そうとして、少女の胸を拳で叩こうとした。
突然、怒声と共に荒々しく胸倉を掴まれた。
「この野郎! おまえかぁ! このガキを連れ込んだのは!」
大尉の肩章を付けた男が、そう叫んでわたしを突き飛ばした。
「まんまとゲリラに丸め込まれやがって。おまえのせいで俺の部下が大勢死んだ。ええ、どうしてくれる!」
まるで無声映画のようだ。相手の言葉が耳に入らなかった。
考えられることは一つだけ。ミンを救わなければ……。
わたしは再びミンの身体を抱き起した。
不意に脇から足が伸びて、ミンの身体を蹴り飛ばした。手を伸ばそうとして、大尉に再び胸倉を掴まれた。
「おい、諦めろ。そいつはもう死んでいる」
大尉の唇が憎悪で歪んだ。
腰のホルスターに伸びた手が銃把を握り締めた。
「この味方殺しが。おまえも後を追わせてやる」




