第36話 神父と花売りの少女 その2
お父さんは去年、戦争で亡くなったの。
少女の呟きが脳裏を過った。
問うまでもない。あの石塔は少女の父親の墓なのだ。
粗末な墓で、石塔には故人の写真を焼き付けたタイルすら嵌められていなかった。
少女の背後から、石塔に刻まれた名前を確認する。
グエン・チー・ディン。AD20××ー20××
わたしは胸前で十字を切って、故人の冥福を祈った。
すると気配を感じたのか、少女チー・ミンが振り返った。
「あら、神父さん」
その怪訝な表情の奥に、とある疑問を秘めて。それはすぐに言葉となって唇から紡ぎ出された。
「なぜ、ここへ来たの?」
「主がわたしをお導きになったのです」
そして真新しい石塔と、その前で悲嘆に暮れる遺族を指し示した。
ミンは納得して笑顔を浮かべると、
「これも神様のお引き合わせね。きっとお父さんも喜んでいるわ」
そう言って再び墓前に手を合わせた。
多少なりとも義務を果たしたという感慨が、わたしの心を安息で満たした。
羔のささやかな謝意こそが、神の牧者の生きる糧だ。
「さあ、車に乗りなさい。家まで送ってあげよう」
ついでにミンの家族を尋ねてみよう。不意の訪問となるので、向こうの都合が付けばの話だが。
そんなことを考えながら、ぼんやりと先を行くミンの背中を眺めていると、不意に背後で声がした。
「ミン、こんな所で何してるんだい?」
振り返ったミンの顔から笑顔が消えた。その視線の先には、数珠を握った中年女性の姿があった。
「いくら死者が多いと言ってもねえ。墓地で待ってても花は売れないよ」
そう言うと、夫人はわたしの方を見た。
「神父さん、先ほどはわざわざ甥の葬儀に来ていただいて」
なるほど、彼女は戦死した青年の叔母というわけだ。その親し気な口振りからすると、ミンとは顔見知りのようだが。
「失礼ですが、ミンのお知り合いですか?」
「知り合いもなにも、毎日顔を合わせてますよ。この子はうちから売り物の花を仕入れてるんですから」
婦人は人のよさそうな笑みを浮かべると、その手をミンの頭に乗せた。
「この子は働き者でねえ。父親が死んでからというもの、花売りのバイトで家計を助けてるんですよ」
そして今度は、わたしとミンの関係を問い質した。
ハコバ基地の兵士は、その多くがミンのお得意様だと答えると、
「よかったねえ、ミン。兵隊さんを相手にしてりゃ、食いっぱぐれることはないよ」
苦笑したのは、その逞しい発想ゆえだ。
侵略者と見られがちなアムリア軍を利用する人々。クワイン政府の高官と違い、彼ら一般市民に利用されるのなら悪い気はしない。
婦人はそんなわたしの失笑を気にする様子もなく、
「じゃあね、ミン。たまにはお父さんの墓参りに行くんだよ」
うん、どういうことだ?
わたしの訝し気な視線は、先ほどミンが祈りを捧げていた粗末な石塔に突き刺さった。
あれがミンの父親の墓ではないのか?
その疑問を口にするよりも早く、ミンが甘えた調子でわたしの腕を引っ張った。
「ねえ、早く行きましょうよ」
「あっ、ああ……」
わたしは婦人に別れを告げると、ミンと並んで歩き始めた。
二人の間に気まずい雰囲気が醸成されていた。
ミンは俯き加減に地面を見つめたまま。
わたしの視線も立ち並ぶ石塔の碑銘に移ろいゆく。
先ほどの疑問が気にかかる。
もし婦人の言うことが本当なら、ミンはわたしに嘘をついたことになる。
本来、神父は他人の嘘に対して寛大であるべきなのだが。
「ミン、さっきの話だけど」
ミンはわたしを見上げてほほ笑んだ。
「おばさんは知らなかったのよ。去年、お父さんのお墓が移されたのを」
やはり思い違いか。
「お母さんが軍に頼んだの。お父さんは戦死したのだから、民間の墓地ではなく、陸軍墓地に葬って欲しいって」
そうすることによって葬式代から墓所代まで、すべて国家が面倒を看てくれるという。下層市民に対する一種の救済策なのだが。
ミンは言外にその疑惑を否定した。
「お父さんは勇敢だから、偉くなくともここに埋めてもらえたの」
事の次第を知れば疑問は自然と解消する。
いたいけな少女を疑った自分が恥ずかしい。
クワイン共和国に赴任して一年。兵士としての気構えが神父としての心構えを凌駕する瞬間が増えたように思う。
信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか?
主の御言葉が胸に響いた。
わたしは慌てて胸前で十字を切った。
結局、その日はミンの家族に会うことが出来なかった。
母親は魚売りの行商に、兄弟たちも各々アルバイトに精を出しているという。
後日、また訪問する旨を言い残して、わたしはミンの家を後にした。
だがその日を最後に、ミンの姿を見かけることはなかった。
最初は何かの都合で休んでいたのだろうと思ったが、さすがにひと月も過ぎると、少女の身が気遣われた。
数日の間、わざと遠回りして、レ=ロム通りだけでなく、他の通りにも足を延ばしてみたが、やはりミンの姿は見当たらない。
時間を都合して、ミンの家を再訪したが、ドアをノックしても誰も戸口に現われない。
不審に思って近所の人に尋ねると、家族の者はいるという話だ。
その言葉に安堵したのも束の間、そのうちの一人がこう呟いた。
「そういえば最近、ミンの姿を見かけないねえ」
わたしはその足で急ぎレ=ロム通りへ向かった。
あの花屋の婦人なら、あるいは何かを知っているかもしれない。
店番していた彼女に、ミンの消息を尋ねると、
「田舎の親戚に預けられたんですよ。生活が苦しいとかで」
婦人はわたしを不思議そうに眺めると、
「おかしいね、神父さんに一言の挨拶もなしなんて。あの子、あんなにあなたのことを慕ってたのに」
「あの、その親戚というのはどこに?」
「フーチェン省内の村だそうですよ。そうそう、確か父親の墓がある場所だとか」
「ミンがそう言ったのですか?」
「ええ、確か最後に会った日に」
「それは何かの間違いでしょう。父親の墓なら、ゴウサップ陸軍基地に移転されましたよ」
婦人は笑いながら手を振って、わたしの言葉を否定した。
「まさか、そんなことあるもんですか。だってミンの父親は解放戦線の兵士なんですよ。なんで政府軍が敵の兵士を一等地に葬るんです?」
「その話は本当ですか?」
「ええ、近所の人はみんな知ってますよ。ここいら辺りで解放戦線の兵士になる人は少ないですから」
わたしは礼もそこそこに、その場を辞去した。
まさかミンの父親が反政府軍の兵士だったとは。
ゴウサップ陸軍墓地の墓は、やはり他人の墓ということになる。
なぜ、そのような嘘を?
わたしがアムリア軍の従軍神父と知って、言い出しにくかったのだろうか?
出来れば少女の嘘に、子供なりの正当性を見い出したい。
相手が幼い少女でなければ、そこに別の意図を見い出すことも可能だろう。
だがミンの屈託のない笑顔が、それを許さなかった。
結局、過酷な戦場の日々のうちに、些細な嘘は忘却され、安息な記憶だけが残った。そして半年を過ぎた頃には、それすらも思い出さなくなっていた。
最後に少女の息災を祈ったのは、いつの事だったか……。
再会は意外な場所で訪れた。
前線からの帰り道、ハコバ基地の検問所の前で、見覚えのある人影を発見した。
ミンだ。




