第25話 脱走 逃走 カーチェイス!
トントン、トントン……。
混濁した意識の中から、心地よい音が響いてきた。
誰なの? 心の扉を開く人は。
そうだ、あのとき……。秀一郎さんと初めて出会った、あのとき。
あの人の手を握り締めた瞬間、わたしは確かにこの音を聴いた。
トントン、トントン……。
心臓の鼓動が強くなってきた。
新体操の演技を終えた直後の、あの興奮を思い出す。
トントン、トントン……。
なんか息苦しくなってきた。
演技のクライマックスに差しかかったときの、あの緊張を思い出す。
トントン、トントン……。
ああ、うるさい!
演技を始める前から、緊張したってしょうがないでしょ。
トントン、トントン……。
わたしは我慢できずにソファーから跳ね起きた。
見ると、ドアがノックする音と共に軋んでいる。
ドンドン、ドンドン……。
ノックの音は次第に苛立ちを募らせてゆく。
「……おかしいな、出ねえぞ」
ドアの外から、そんな不審げな声が聞こえてくる。
マズい、早く出なきゃ……。
相手に警戒されたら脱走のチャンスを失ってしまう。
まだ眠気の残る頭に活を入れると、急いでドアへ駆け寄った。
控えめにドアを開けると、二人の警備兵が立っていた。夕食のトレイを持った若い兵士の背後に、小銃を肩にかけた年配の兵士が控えていた。トレイに載った熱々の仔羊のシチュー。お腹が空いているんだけど、今夜は夕食抜きになる。残念、残念……。
他に人影はなし。どうやら警備状況に変化はないようだ。
「さあ、受け取れ」
若い兵士が持っていたトレイを突き付けた。
ああ、この瞬間を待っていた。
それ!
相手の顔目がけて、思い切りトレイを引っ繰り返した。
アチッ!
顔に熱々のシチューを浴びたからたまらない。
若い兵士は顔を押さえて後ずさった。その隙をついて、ドアの陰からすり抜けるや、全速疾走で駆け出した。
クソッ、待ちやがれ!
……と、まあ、こんな感じで叫んだのだろう。
(アラビア語なんて知らないよ!)
年配の兵士が小銃を抱えて追っかけてきた。廊下の角を曲がると、サッと壁に張り付いた。
刹那、敵兵が角から跳び出した。
思い切り力を込めて……。捻りの利いたつま先蹴りが相手の股間を直撃した。
敵兵は小さな呻き声を上げると、両手で股間を押さえてうずくまった。
床に放置された小銃を拾い上げると、レバーを下げて安全装置を解除する。
小銃は初めてだけど、ないよりはマシ。
廊下の向こうで、複数の人間の騒ぎ立てる音がした。その中には、聞き慣れたバンダナの声も混じっている。
急いで脱出しなければ!
赤い絨毯の敷かれた廊下を闇雲に駆ける、駆ける。シャンデリアの光に導かれて走るわたしは、ガラスの靴をなくしたシンデレラ……、なんて気取っている場合じゃない!
小銃を構えたシンデレラなんて、格好悪くて洒落にもならない。
第一、追っかけてくる相手は王子様じゃなくてテロリストなんだから。
不意に廊下が途切れた。フロアの正面にエレベーターがあった。しかも扉は開いたまま。
ラッキー!
そのままの勢いで飛び込むと、一階のスイッチを押した。
閉まる扉の隙間から、迫り来るテロリストの姿が垣間見れた。
バンダナと警備兵が二人。
彼らは隣のエレベーターで追ってくるに違いない。もし途中で乗り込む人がいたら、わたしは一階で追い付かれてしまう。
三十、二十九、二十八、二十七、二十六……。エレベーターは緩やかに降下してゆく。
まるで時間が止まったよう。苛々が高じて思わず壁を蹴っ飛ばした。
お願い、誰も乗ってこないで……。
切なる想いを込めて神様に祈った。その瞬間、
ガクン。
軽い無重力感を伴って、エレベーターは停止した。
ああ、なんてこと!
時間のロスは計り知れない。階数表示は十階を示している。
階段を使っていたのでは、とてもじゃないけど逃げきれない。
わたしは咄嗟に小銃を構えた。
こうなれば非常手段だ。
扉が開いて、その向こうには一組の老夫婦が佇んでいた。
「相乗りは、ご遠慮願います」
世界一、危険なエレベーターガールだ。
ご主人が失禁したとしても、誰が笑えようか。
ごめんなさい、怖い思いをさせて。
わたしはスイッチを押して、再びエレベーターを降下させた。
数秒後、やっと一階に到達した。
扉が開くと、幸運なことにテロリストの姿は見当たらなかった。チラリと隣のエレベーターの階数表示を見ると、なんと十階で止まっていた。連中も途中の階で足止めを喰らったのだ。
神様に感謝しつつ全力ダッシュ! 幸運は最大限利用しなければ……。
ロビーにいたタキシードの男が、わたしを見て目を剥いた。
たぶんホテルの支配人だ。
突然、エレベーターの中から小銃を抱えた美女が現れたのだ。驚かない方がどうかしている。
ロビーで寛ぐお客さんの幾人かが同様の状態に陥った。
素知らぬ振りしてロビーを駆け抜ける。玄関の表へ出ると、逃走用の車を物色する。
するとお誂え向きに、一台のスポーツカーが停車した。
乗っていたのは、観光中の女子大生と思しき二人組だ。
「さあ、早く降りて!」
小銃を突き付けたけど、二人はまったく動じる様子を見せない。
それどころか、わたしの顔をマジマジと見つめている。
やっぱ迫力ないのかなぁ。それとも言葉が通じない?
「この銃は本物よ。玩具じゃないんだから」
なんなら目の前で一発、ぶっ放してみせましょうか?
槓桿を引いて射撃準備を整える。それでも二人は顔を見合わせたまま動こうとはしなかった。
小銃を突き付けられても、なんら動揺する素振りを見せないなんて。あるいはショックが大きすぎて、茫然自失の状態なのかもしれない。
「降りなさい。早く!」
脅し文句を並べると、ようやくヒスパニック系の女性が座席から腰を上げた。もう一人のアジア系の女性も、肩を竦めて立ち上がった。
「悪いわね。少しの間、お借りするわ」
開け放たれた玄関の奥に、追ってくるテロリストの姿が見えた。
ギアをトップに入れると、思い切りアクセルを踏んで車を急発進させた。
「バッキャロ~!」
舞い上がる砂塵と排気ガスに混じって、さっきの女性の罵声が聞こえてきた。
どちらの女性の声かは判別できないけど、まあ、怒るのは当然よね?
ルームミラーを覗くと、まさにテロリストが車に乗り込もうとしているところ。ステアリングをカーブに沿って切ると、彼らの姿は一瞬で消えた。たぶん追い付かれるのは時間の問題だ。
メーターの針は時速八十キロを示している。いくらアクセルを吹かしても、それ以上速度は出なかった。メーター表示は百八十キロまであるのに。
やっぱ見かけ通りのポンコツだ。
おまけに運転手はペーパードライバーときた。なんたって、ステアリング握るの二年ぶりだもんね。これじゃ逃げ切れるわけがない。




