第01話 紫礼装のテロリスト
あら?
斜向かいの化粧室に凭れかかる人影。
紫の夜会礼装のスリットから、スラリと伸びた素足が覗いている。
背が高く、スタイルがいいので、あるいはモデルかもしれない。
鍔の広い帽子を目深に被っているので、表情はわからないけど、それでも視線がこちらに向けられているのがわかる。
なによ、人のことジロジロ見つめたりして。
無視して化粧室のドアを閉めようとした、そのとき……。
「待ちな」
刹那、彼女の手がわたしの手首を掴んだ。
帽子の下から覗く切れ長の碧眼……、ナイフのような鋭い光を湛えている。
異様な迫力に気押されて、身体が勝手に後ずさった。
その瞬間、彼女はわたしを化粧室へ押し返した。
「痛っ!」
洗面台に背中をしたたか打ち付けた。
「騒ぐんじゃないよ」
彼女、後ろ手でドアを閉めると、押し殺した声で呟いた。
氷柱と見紛う、その美しい佇まい。
薄桃色の唇から冷たい冷気が漏れた。
「あんた、あのバカ息子の秘書なんだろ?」
蓮っ葉な口調で、そう問いかけられた。
バッ、バカ息子って、もしかして、あの人のこと?
いきなり面と向かって人の婚約者を侮辱するなんて。
「バカ息子って、誰のことです?」
「新藤財閥のお坊ちゃんだよ」
「人違いじゃありません? あの人、バカじゃありませんから」
彼女、フフッと侮蔑的な笑みを浮かべた。
「知らなかったよ。あの手のバカが治るなんてねえ」
あの手のバカって、どういうこと?
「あのね、人の婚約者捕まえてバカバカって。いったい彼に何の恨みが……」
突然、彼女の左手から殺意が溢流して、わたしの言葉を遮った。
胸部に突き付けられた、ひんやりと冷たい金属の感触。見ると、それは拳銃だった。
「騒がないで。言うこと聞いた方が身のためだよ」
まさか彼女、ハイジャック犯!
瞬間、頭の中が真っ白になった。
化粧室の壁に手をついて、辛うじてよろめく身体を支え切った。
「ハハッ、さすがは両家のお嬢さんだ。倒れ方まで上品ときてる」
なんなの、あのらしくない恰好は?
拳銃を突き付けられても、まだ信じることができない。
ドレスを着たハイジャック犯なんて、あなたの方こそお上品でしょうが。
「お嬢様には不似合いな場所だけど、少しの間、我慢してもらうよ」
つまり、わたしは化粧室に監禁されたってわけね。
ああ、SP気取りが足手まといの人質に。
この状況では人に助けを求めるわけにもいかず。
どうやら自力で脱出する以外に助かる道はなさそうだ。
女性美を犠牲にして修得したお涙物の護身術。
今こそ生かすチャンス、と言いたいところだけど。
果たしてうまくいくだろうか?
悲しいかな、しょせんは俄か仕込みの素人SP。
拳銃を突き付けられても、瞬時に身体が反応しなかった。
あのとき彼女の手首を押さえて、顔面に肘打ちを喰らわせていれば。
「さあ、手を頭に当てて、後ろを向くんだ」
彼女、銃口をわたしの胸の谷間へグイと押し当てた。
こんな近くでは、つま先で拳銃を蹴り上げる……、なんて芸当も使えそうにない。
悔しいけど、今は彼女の言うことをきくより他はなさそうだ。
「ほら、早くしな」
言われるままに、クルリと軽いステップで彼女に背中を向けた。
鏡に映るわたしの顔。
ツンと澄まして、なんか余裕すら感じてしまう。でも視線だけは何気なく、さりげなく、背後を窺う。
鏡の片隅に映る彼女の顔。
不安げな面持ちで、左腕の腕時計に眼を落している。そして肝心の銃口は心持ち床の方へ。わたしが無抵抗なので、彼女、完全に油断した?
チャンス到来!
わたしは何食わぬ顔をして、つま先でドンと壁を蹴った。
その音に驚いて、彼女がハッと顔を上げた。
反射的に銃口がピクンと上へ向いた。
今だ!
素早く身体を捻り、相手の右腕を取って脇に挟み込む。
勢い、彼女の上半身が前方へ流れる。
前屈みになった彼女の下腹部へ、思い切り膝蹴りを叩き込んだ。
ウッ、
彼女の身体が崩れかけた。
目に浮かぶ驚愕の色。
「チッ、猫被りやがって」
口元が笑っている?
なによ、余裕なんかチラつかせて。
恐怖が怒りに転化すると、スムーズに技を繰り出すことができる。
渾身の力を込めて、必殺の肘打ちを放った。
ゴキッという鈍い音と共に、彼女の側頭部へ肘がめり込んだ。
帽子が舞って長い黒髪が床に乱れた。強風に煽られて落花した紫色の大輪のような。
彼女、気を失って床の上に咲き乱れた。
やった!
目にも止まらぬ早業。
我ながら惚れ惚れしてしまう。
新体操の選手だったんだもん。運動神経にはちょっとばかり自信があるのよね。テロリストを一撃で倒すなんて、並みの女の子にできることじゃない。まさか新聞の一面を大々的に飾ったりして。
民間人、ハイジャック犯をKO お手柄は二十歳の美人秘書
エッフェル卿の娘と知ればマスコミも騒ぎ出すはず。
すると、あれかな、やっぱり考えちゃうよね。よくあるパターンだけど。
他業種で名前を売ってから芸能界へ転身ってやつ。
成功する人少ないんだよねえ。
でもでもでも、憧れちゃうな、銀幕デビュー。
この美貌と才知で世界中の目を釘付けにしてやる。ーーなんて、今はそんなこと考えている場合じゃない。
自分の頭をコツンと叩く。
(取り敢えず反省して、と)
たぶんハイジャック犯は彼女一人じゃないはず。早く秀一郎さんに知らせなければ。