第15話 地獄の猛特訓 それでもあたし頑張ります!
来る!
鋭い刃物を皮膚に押し当てたような、あの感触。
リン・カンザキ士官候補生は咄嗟に身を伏せた。
直後、敵堡塁から閃光が走り、至近を銃弾が掠めた。
フゥー、危ない、危ない。
思わず安堵のため息が漏れる。
直感の囁きに従っていると、けっこう命拾いしたりする。優れた兵士には生まれつき備わった資質なのだと、教官が教えてくれた。はい、そうですかと、素直に返事する気にはなれなかったけど……。
戦闘開始から既に三〇分が経過していた。味方の勇猛果敢な攻撃にも拘わらず、敵堡塁の抵抗は一向に衰えなかった。後方からの支援はないので、敵はやりたい放題。迂闊に接近しようとすると、銃弾が豪雨のごとく降りかかる。身を屈めて移動しようものなら、立ち所に狙い撃ちだ。
結局、亀のように地を這って匍匐前進するのだけど、これならまだ亀の方がマシだと思えるほど、部隊の前進速度は鈍化していた。
総攻撃開始の時刻まで、あと一〇分。それまでに所定の位置まで進出しなければならない。
残された時間は少なかった。……と、まあ、こう言うと、強大な敵に命懸けで戦いを挑む、華麗なる猛き乙女のように思えるんでしょうけど、実はこれ、すべて、軍事演習の話なんです。
陸軍士官学校で定期的に行われる実戦さながらの戦闘訓練。
でも当然のことながら死のリスクは回避されてるわけで……。
頭上を飛び交う銃弾はすべてペイント弾。身体に命中すると、色取り取りのペイントが付着して、その個所を計器が判定、死亡や負傷などの結果を出すのだけど。
疲労困憊した兵士がわざと撃たれて、意図的に戦闘訓練から脱落するケースはよく耳にするけど。そんなことがもし教官にバレでもしたら、厳しいマイナス査定と厳しい懲罰が待っている。今期のわたしの成績を考えたら、それは絶対に回避すべき項目だ。
あたし、もう少し頑張ってみよ。幸いなことに、百ヤード先に塹壕がある。あそこまで……。
敵の攻撃から身を守るため、塹壕や遮蔽物を利用して前進するのだけど、匍匐は胸の形が崩れるので、女性兵士の間では極めて不評だった。
もっとも落命してまで胸の形を気にする者はいないので、陸軍の伝統的基本動作は忠実に守られている。
胸の下に両腕を入れて、少しだけ上体を浮かせるのが胸の型崩れを防ぐコツだ。上体を上げ過ぎて、頭を撃ち抜かれた女性兵士の話は、たぶん士官学校で受け継がれる都市伝説の類なのだろう。
もし彼女が実在したなら、きっとCカップ以上の大きさだったに違いない。あたし、Bカップなんだけど、匍匐前進してもぜんぜん邪魔にならないもんね。
うん、神様も捨てたもんじゃない。
銃弾の飛び交う地獄を潜り抜けて、ようやくD溝と称された塹壕に辿り着いた。
フゥー、なんとか無事到着っと……。
目標地点A1まで、あと百ヤード余り。これなら予定時刻に間に合いそうだ。
ドドドドドッ……。
いきなり目の前の小石が弾け飛んだ。慌てて頭を引っ込めた。敵兵に気付かれたのだ。
これじゃ迂闊に飛び出せない。攻撃時刻が迫ってる。もう躊躇している暇はない。
こうなりゃ、一か八かやってみるか。
攻撃の途絶えるタイミングを計って、塹壕から飛び出す。
敵の射撃音をカウントして、弾丸を撃ち尽くした瞬間を狙うのだ。
目を閉じて意識を集中する。
銃にはそれぞれ固有の癖があり、それが射撃音に反映される。飛び交う銃声の中から、自分を狙う銃の音を聞き分けるのだ。そんなこと出来るのおまえだけだって、教官は笑ってたけど。
これか。
敵はKFー25自動小銃を全自動で使用している。これでは弾の無駄使い。ものの数秒で弾倉は空になる。連射で弾丸をばら撒いても、その量に比例して敵が倒れるわけじゃない。
相手は戦闘に不慣れな新兵か? ベテランの兵士なら、半自動で確実に一人ずつ仕留める。
まっ、人のことは言えないけどねぇ。
小銃のレバーを全自動から半自動へ切り替える。
教官の教えを守れないのは、どうやら敵だけではないようだ。
こんな初歩的なミスを冒すなんて、やはり演習とはいえ戦場で恐怖心を克服するのは難しい。
孤立した状況の中では個々の兵士の判断力が問われる。
きっと教官の狙いもそこにあるのだろう。
わざと危険な状況を設定して、生徒の資質を見極めるつもりなのだ。
単独行動なんて、戦術論に反した命令なんだけど。
士官学校の授業では、なるべく避ける行為と教えられた。
相互支援を欠いた部隊の生存率って、けっこう低いんだよね。これが。
ハハッ、どしよう? これが実戦なら名誉の戦死間違いなしだ。
こんなことなら、さっさと士官学校辞めとくんだった。
口元が自嘲気味に綻ぶ。
今更、愚痴を言っても始まらない。軍人という職業は自分で選んだ道なんだ。もし士官学校を卒業して、実戦に投入されて戦死したそんときゃ、せいぜい自分の選択ミスをあざ笑うまでだ。
腹を据えたら気合が入った。
銃撃が止んだ。
今だ、乙女の花道、突っ走っちゃる!
勢いよく塹壕から跳び出した。
グッドタイミング!
思わず心中で喝采を叫んだ。
飛来する弾丸は皆無だった。見事、弾幕の幕間をつくことに成功した。
走れ、走れ、立ち止まるな!
慌てふためく敵兵の姿が目端に映った。
彼らが新しい弾倉を装填するのに、約五秒。目指す前方の茂みまで約二十ヤード。
時間よ伸びろ、距離よ縮まれ、ああ、神様!
アッ!
幸運と不運は背中合わせ。
生と死も紙一重。人生甘くないってこと、つくづく思い知らされた。
まさか躓くなんて……。敵前で転倒するなんて……。
二十歳なんだよ、二十歳。これが実戦なら、人生にピリオド打つにはまだ早すぎるって年齢だ。
敵兵が小銃を構え直した。照準器の赤い光が眩しい。
電子サイトだ。
補足率は九〇パーセント。なんらかの偶然が作用しない限り、目標を外すことはない。
マズい、マズいよぉ~。
反射的に頭を抱え込んだ。
浮かび上がる暗闇の中から、死神の黒い影が浮かび上がる。
これは演習なんだって自分に言い聞かせても、やはり死の恐怖は拭えない。
おーい、神様。あんたなんか二度と信じないからね。
妙に長い一瞬の空白。
瞬間、呼吸が止まった。心臓が止まった。思考が止まった。時間が止まった。止まった、止まった、なにもかも。ついでに生理も止まったりして……、あれ?
恐る恐る目を見開いた。
痛くない。
恐る恐る顔を上げた。
痛くない。
恐る恐る身体の各所に触れてみる。
痛くない。
けたたましい銃声が意識を現実へ回帰させた。
ここは天国じゃない。ってことは……。
喜び勇んで跳ね起きた! やった、わたしは生きている!
「バカ、なにやってんだ!」
背後で鋭い怒声が飛んだ。
と思ったら、いきなり顔面を強か地面に打ち付けられた。
何者かが背後から、わたしの頭を押さえ付けたのだ。
地面との接吻は避けようがなかった。おまけに泥まで食べるはめに……。
力はすぐに緩んだ。
顔を上げると、ペッと泥を吐き出した。血の味がした。唇を切ったのだ。
「ちょっと、酷いじゃない!」
「おまえ、こんな場所で浮かれてたら、敵に狙い撃ちされるぞ」
聞き覚えのある声だった。顔は見るまでもない。
幼馴染の頼れる相棒。我が青春の好敵手。
士官学校では男勝りの乱暴者として恐れられている……。
「クリス! あんた、無事だったのね」
「ああ、なんとかな」
クリスチーネ・リネロが土埃で汚れた顔に、白い歯を覗かせた。




