プロローグ 夢の始まりは夢の続き
コニー、コニー、
誰かがわたしを呼ぶ声がする。
誰なの、わたしを呼ぶのは……。
闇の中から一条の光が射した。
コニー、コニー、
耳元で、また誰かがささやいた。
優しく穏やかな白昼夢のかけら。
わたし、まだ眠いの……。
コニー、コニー、
籐椅子が微かに揺れた。
午後の日差しが目に柔らかい。
暖かい木漏れ日。小鳥のさえずり。野を渡る風。咲き乱れる花々。
見慣れたはずの風景が目の前で美しく輪舞する。
目覚めれば、また夢の続き……。
物憂げに背伸びをしてみる。
癒しがたい疲労感が全身を押し包む。
三か月間、休みなく社交界を乱舞したその残滓。
上流社会の子女なら誰もが夢に見る社交界デビュー。
わたしは夢と現実の狭間に迷い込んだ。
コニー、コニー、円舞曲を一曲。
コニー、コニー、葡萄酒を一杯。
コニー、コニー、愛のささやきを一雫。
群がる男たちの背後に、政界の大物たる父の権威が見え隠れする。
エッフェル卿の一人娘という定冠詞に、多くの人々が媚び諂った。
華やかな世界の山峡から俯瞰する虚飾に満ちた世界。
夢のような日々の峡谷から浮かび上がる退屈な日々。
二つを結ぶ架け橋はいつから軋み始めたのか。
London Bridge is broken down
broken down broken down
London Bridge is broken down
My fair Lady
架け橋を落したのは、わたしの意志。
父の打算的な目論見の犠牲になるつもりはなかった。
将来の花婿候補など、今のわたしにはバラ一輪の値打ちもない。
満たされぬ想いを秘めて、自分の生きるべき世界へ回帰する。
夢の終わりは、夢の続き……。
差し出した人差し指を止まり木にして、小鳥が羽根を休めた。
コニー、コニー、
耳を澄ませば微かに響く。
胸奥から湧き上がる愛の鼓動。
コニー、コニー、
わたしを呼ぶのはだれ?
不意に小鳥が空へ舞った。
背後から忍び寄る人影に驚いて。
「お目覚めですか? ミス・エッフェル」
振り向くと、見知らぬ男の人が立っていた。
わたしと同じ年頃の若い男だ。
「失礼。どうやら午睡の邪魔をしたようだ」
そのキザな口ぶりが癇に障る。
大学生かしら?
パナマ帽にアロハシャツなんか着こなして、なんか軽そうな人。
社交界の正装を見飽きた目には、却って新鮮に映るけど。
「あの、お名前は?」
「後で名刺を差し上げましょう。ぼくの名前を忘れないように」
涼し気な瞳がわたしにほほ笑みかけた。
「新藤秀一郎です。よろしく」
あの人は腰を屈めると、私の手を取ってキスをした。
本気とも諧謔ともつかない、その謎めいた物腰。
「お庭を拝見したいのですが、案内していただけますか?」
「……はい」
何気なく差し出された手のひらを、わたしは迂闊にも握り返してしまった。
その瞬間、あの人は恋の呪文をささやいたのかもしれない。
赤く染まった頬の言い訳が見当たらない。
まさか、このわたしが一目惚れだなんて。ほんと、人生って何が起きるかわからない。
■■■
微睡の中で流れる輪舞曲、それは……。
旅客機という巨大なゆりかごが紡ぎ出す安らかな幻影。
夜間飛行の静謐感が醸し出す美しい想い出の欠片。
コニー・エッフェルは欠伸をすると窓外へ目を移した。
窓の向こうで、わたしがほほ笑んでいる。
きらめく星々の祝福を受けて、なんて幸せそうな笑顔。
見つめている当人ですら、嫉妬を禁じ得ないような。
まっ、無理もないか……。
わたしは今、世界で一番の幸せな女の子なんだから。
昨晩、正餐の席で愛する人から求婚された。
「生涯、ぼくの側で秘書を務めてほしい」
それが求婚の言葉とは……。
相変わらず不器用な人。でも……。
彼の秘書となって一年余り、わたしはその言葉を待ち望んでいた。
「はい……」
俯き加減に、ただ一度だけ呟いた。
でも心の奥では何度も何度も呟いた。
彼に優しく手を握られると、抑えきれない喜びが涙となって溢れ出た。
不思議なものね。人って嬉しいときにも涙が出るんだ。
人差し指を伸ばして、窓ガラスに映る自分の頬を突く。
彼女の小首が傾いで、その陰から人影が現れた。
隣席から軽い鼾が聞こえてくる。
愛する人は眠っていた。
腕を組み、肩を怒らせ、まるで何か考え事をしているような。
きっと会議の夢でも見ているのだろう。
連日、重役たちと丁々発止の渡り合い。
昨日も二時間の予定が五時間に伸びるほど、熱の入った論議を闘わせた。
会社や自分のためだけではない。世界中の人々の幸福のために。
軍需産業という人々の不幸を糧に成長した企業の御曹司という負い目が、あの人を恒久平和の実現へ駆り立てた。
国内の戦死した兵士の遺族に対する支援から、国外の戦災難民に対する支援まで、その活動は徐々に形を成しつつある。だから長い目で見守ってほしいのだけど、収益率の足枷となる企業ボランティアに批判の声は絶えない。
社会収益を重視するあの人と、企業収益を重視する役員とでは、水と油のごとく折り合わなかった。
わたしは複数の役員が陰口を叩くのを聞いた。
曰く、バカ息子の道楽。
そのことを話したら、あの人は笑いながら自身を夢想家と自嘲した。
社長の息子であり、邸宅に帰れば”若様”と呼ばれるあの人も、会社では役員待遇の一社員に過ぎない。
父親の放任主義は会社中の知るところで、後ろ盾など期待できるはずもなく、また当人が派閥を嫌っているため、社内からの協力を仰ぎにくい。
それでもあの人は諦めなかった。
(わたしはそんな彼の姿を間近に見てきたのだ)
孤軍奮闘の続く中、とうとう有力な人脈を発見したのだ。それも思いもかけない身近なところに。
あの人はさる大物政治家に働きかけて、人道支援のために金を出すよう、会社に圧力をかけるつもりなのだ。
で、その大物政治家というのが……。
落胆のため息。
ああ、選りによって、あんな人に話を持ちかけるなんて。
政界では”頑固おやじ”のあだ名で通っている相手だ。
結婚の問題を承諾させるだけでも一苦労なのに、計画の協力まで仰ごうというのだから。
片手で追い払われるだけなら、まだマシ。
最悪の場合、猟銃で撃ち殺されることも考えられる。
(まさか、まさか……)
悪い予感が駆け巡る。
あの人も事の困難を予想したのか、
「当面は計画の実現に専念したい。結婚式はその後で」
えっ、そんなぁ……。
幸せ気分は跡形もなく潰え去った。
当分の間、新婚生活はお預けってわけね。
ほんと、頭の痛い問題ばかり。
夜空に煌めく星々は、わたしの祈りを聞き届けてくれるだろうか?
どうか、どうか、あの人の情熱と誠意が報われますように……。
愛する人の顔には疲労の色が濃い。
無理もない。もう二年もの間、本社と戦災地を往復する日々を送っているのだから。
わたしが有能な秘書なら、あの人の苦労を少しは緩和できたでしょうに。
至らない秘書で、いえ、至らない妻でごめんなさい。
周囲の客席に人影は疎らだった。
誰も見ていない。今なら。
わたしの唇があの人の額へそっと押し当てられた。
「うん、どうかした?」
不意に見開かれた双眸は、悪戯っぽい笑みで染まっていた。
あっ……。
羞恥心が頬を赤く染めた。
あの人は目覚めていたのだ。
ただ眠った振りをして、わたしをからかっていただけ。
「いいえ、なんでもありません」
少々、旋毛を曲げてしまった。
神聖な愛情表現を茶化すなんて、ほんと意地悪な人。
腹立ち紛れに席を立った。
あの人と笑顔で話すには、少し時間が必要だった。
お互いの理解と思い遣りが幸せな結婚生活を保障する。
あのセンスの悪いユーモアは、たぶん愛情と相似形なんだ。
笑ってあげればよかった。
わたしには子供っぽいとしか思えないけど。
化粧室に入ると、用を済ませて、洗面台の鏡を覗き込んだ。
胸元から控えめに覗く、コタール産のパールネックレス。
月の光を想わせる、淡い輝きが魅力的なんだけど。
あの人は気付いてくれなかった。
”似合ってるよ”の一言が聞きたくて、なけなしの貯金を注ぎ込んだのに。
がっかりしたけど、それくらいならまだ我慢できる。
有名ブランドのオーダー物のスーツに至っては……。
ワインレッドの鮮明な色彩が魅力的なんだけど。
まさか、揶揄のネタにされるなんて。
ひどい、ひどすぎる! 一か月分の給料はたいて買った、お気に入りの一着だったのに。機能性を重視した肩幅の広いデザインを選択したのが失敗だった。
「肩パットいらずか。頼もしいな」
あの人の両手が、わたしの両肩を抱きとめていた。
口づけを交わした直後の無神経な一言。
両肩に手を回してみる。
女性らしくないゴツゴツした手応え。
新体操選手だった頃のしなやかな筋肉など望むべくもない。
要人警護の格闘術を習い出してから、日々肉体がたくましくなってゆく。
あの人の側にいる以上、SPの役割を担うのは当然のこと。そう思って厳しい訓練にも耐えてきたのに。
人の気にしていることを、よくもまあ、ズケズケと。
鏡に向かって舌を出す。
どうせ、わたしは怒り肩ですよ~だ!
少しだけ憂さが晴れた。
陰のある笑顔、でもふくれっ面よりはマシ。
これならあの人と喧嘩せずに済みそうだ。
まっ、プロポーズされた翌日なんだから、少しはしおらしくしなきゃ。
身支度を整えて化粧室のドアを開けると、そこには……。