七年目の朝
住宅街に佇むマンション。そこの一室、玄関口に立って三人の人物がいた。
顔のシワや、黒髪に混じって白髪が少し目立ち始めた老年に近い女性。
三十を少し越えたぐらいではあるが、薄い化粧で整えられている壮年の女性。
最後の一人、歳は五~六くらいであろうか。幼い男の子だ。
男の子は壮年の女性の手に掴まっており、親子である事が窺える。
「ちょっと! ちゃんと聞いてんのかあんた!!」
罵倒が上がった。口を開いたのは老齢の女性で、言われているのは母親の方だ。
「すみません。本当にすみません。もうすぐ準備出来るので……」
母親は言われるがまま、ただ平謝りを繰り返し。相手が言い返さないと知っているのか、それをいいことに老齢の女性の言葉は徐々に汚さと激しさを増す。
この場にはこの三人しかおらず、助けてくれる人は誰もいない。もし周囲に通行人がいたとしても、見ず知らずの他人が介入してくることなんてまずないだろう。
寧ろ関わり合いになりたくないと考えるのが普通というものだ。
手をつないだ男の子にはまだ難しい内容なのか、何故自分の親がこんなにも怒鳴られているか理解は出来ていない。
ただそれでも、そんな辛そうにする母の姿を見ていられなかった男の子は、勇気を出して一歩前に出ることを決意する。
「すみません。おばちゃん、僕も準備ちゃんと手伝うから……」
母よりも前に出た男の子。彼は母がそうしていたように、頭を下げた。
何度も。何度でも。
流石にこんな年齢の子供に言われては、頭に上がっていた血も下がったのか。老齢の女性は母親に一言、二言口にして去っていく。
母親は了承して頭を下げた後、相手がいなくなるまで頭を下げ続けた。
背中が見えなくなると、母親は子供を促して家の中に入り玄関を閉める。
「――ハァ」
声の方に男の子が目を向けると、緊張の糸が途切れたのか。はたまた、ようやく嵐が過ぎ去ったかのように。玄関口に寄り掛かる母親の姿が映った。
男の子は心配そうに見つめるが、当の母親は天井を仰ぎ見ておりその表所は伺えない。
「お母さん」
声をかけるが、母は天井を向いたまま。つないでいた手と反対の方を伸ばし、男の子の頭に手を置く。
「ありがとう空。お母さん助かっちゃった」
――その時の母は、一体どんな顔をしていたのだろうか。
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目が覚めると、もう見慣れた天井が目に入る。
昔、それも何時のことだったか。正確には思い出せないがこの世界に転生する前、以前いた世界の夢を見ていたのをぼんやりとだが少年――ソラは覚えていた。
(そういえば、こんなこともあったかな?)
夢に対して特に感じ入ることもなく。ただそう思ってからベッドから立ち上がる。
近づいて締め切った窓を開くと、暗がりだった部屋に光が少しだけ満ちていく。
見ると、少しばかり雲空の模様。太陽が隠れてしまっており、早朝にしてはここから見える景色もあまり日差しがかかっていない。
椅子を窓際に持ってきたソラは、一人静かに読書を始めた。
普段なら椅子の定位置である机でそのまま本を読むのだが、本日は薄暗いこともあって、比較的明るい窓付近まて近づいて読むことにする。
この世界にソラとして生まれ変り、時は流れていた。
年月が経つにつれて、この世界の事はある程度ではあるが知ることが出来ており。今読んでいる本もこの世界について書かれた書物だ。
まずこの世界の生活レベル関しては元いた世界のどれか一つが当てはまる、と簡単に言い表せるものではないようだ。
建物については石・煉瓦・コンクリートを主に使用する。元いた世界では組積造と似たような構造を使用されている。
これは現在記録が残されている歴史書。一番古い記録では約千二百年前となるのだが、そこから建物等の設計に関しては大きくは変わっていない。
構造上横の揺れ。地震等に弱いものではあるのだが元いた世界――地震大国だった日本に比べてみれば、この世界では年間通して殆ど地震は起きず。あっても極小さな揺れに収まることから長く普及されているようだ。
そして着るものは、植物の繊維から取り出したものを使用していて、着心地はさして変わらず。一般的に使用されている素材は、元いた世界の麻で作られていた物が近いかもしれない。
また、履物に関しては革製のレザーブーツが着用されている。
高級品となれば、前述したものに留まらないようではあるが。
食べ物に関しては穀物や野菜、動物のミルクに肉と魚等も食卓に並ぶ。
料理の味付けに使われるのは、塩やコショウがメインだ。一応マヨネーズやソース等の元いた世界に近いものまであることにはあるが酸味が強く、後味が舌に残ってしまう。
トイレも水洗式であるし、湯に浸かるための浴槽もある。
一応かなりざっとではるが、こんなところだろう。
逆にないものを語るとすれば、まずは電気だ。
この世界には電力が無く、日が傾けば光源となるのは蝋燭やランプを使用することになる。
ただ蝋燭は少々値が張ることあって、もっぱら使われるのは廃油を再利用する各家庭自家製の油ランプであり。電球の頃に比べれば心もとない明りではあるものの、本を読むソラにとっては無いよりかはマシであった。
もちろん他に電気を使ったテレビに電話・エアコン・洗濯機、そして冷蔵庫等々は当然無い。
寒い時期ならまだしも、冷蔵庫が無いことから食物の保存は難しく大抵口にする肉は干し肉だ。また保存状態を維持するのが難しい商品等はそれだけで値が張ってしまう。
次に言うとすればガス管か。料理を作る時には家庭にある釜戸に薪を燃やしてやることになる。お風呂も似たようなものだ。
ガス会社というものは存在せず。火を起こしても料金はかからないのだが、時折の薪集めかは必要だし。何より火が強くなるまでが時間がかかってしまうのが一番のネックかもしれない。
他にもまだまだあるが、取り合えずの元いた世界との違いの一部だ。
――ある程度読んだところで、壁に立てかけられた手巻き式の時計に目を向ける。
現在の時刻は六時半、どうやら起床から既に一時間程経過しているようだ。
ソラは椅子から立ち上がる。手にしていた本を開いたまま、版面を下にして椅子の上に置く部屋の扉を開いて出ていく。
ソラの部屋は建物の二階に位置しており、壁際にある階段を降りて一階へ向かう。
一階にもいくつか部屋はあるのだが、目的地は決まっており一番広い部屋の扉を開く。
そこは大きめのテーブルにいくつかの椅子、そしてそのテーブルの上にはいくつかの食事が彩られている。
そう、この部屋は食卓だ。
「あ――お、おはようございます、ソラ様」
ソラが入室したことに気がつき、お茶の準備をしていた女性は手を止めて挨拶をする。
見た目四十前後で小太りのその女性は、メイド服らしきものを着用している。この家の使用人の一人で名はマーサという。
「おはようございます、マーサさん」
一度だけマーサの方をむいて挨拶だけを返し、ソラは席へと歩く。どこからか、安心したような溜息を吐く音が聞こえる。といっても、この部屋には今入ってきたソラと先客のマーサしかいない為、ソラが吐いたのでなければ、誰のものかはまるわかりではあるが。
ソラが来たからか、マーサは一礼して部屋から退室していく。これから朝食の時間なので、両親を呼びに行くのだ。
席に着いたソラは食事を始める。
本日の朝食はパンに豆と野菜のスープ、それにいくつかのフルーツが皿に盛られていた。それをソラは一人静かに食べ進めていく。
半分程食べ終えた頃、静かな室内に何かが注がれる音が小さく響く。少ししてソラの前にお茶を注がれたカップが差し出される。持ってきたのはマーサだ。
そういえば、先程食べている途中にまた戻って来ていたなと思い出す。
マーサはカップを置くとそそくさと定位置に戻っていく。そしてまた何やら溜息を吐く音が聞こえた。
食事を終えて、カップの紅茶を口に運ぶ。中身は季節の葉を使用した匂いの強いお茶だ。
一口飲むと鼻の奥に強い匂いが残る。どうにもこの世界の人々は、後味に何か残るものを好む傾向があるようだ。
部屋の扉が開き、一組の男女が入室する。
「やあ、おはようソラ」
入ってきた片割れ、中背中肉で少しだけ長めにまとめた黒髪。年齢はまだ三十に満たないくらいではあるが、顎髭を蓄えた笑顔の男性に声をかけられた。
ソラのこの世界において父となる人物、ニコラスだ。
ニコラスは何が楽しいのか、笑顔を崩さずソラの横まで歩み寄る。
「今日もソラは早いね。昨日も遅くまで読書していたんじゃないのか?」
「ええ。ベッドに入ったのは十一時くらいでしたね」
ソラが答えるとニコラスは、そうかそうかと頷く。
「ところで――」
「ちょっとあなた!」
何かを言いかけていたがもう片割れ、ミディアムストレートにカットされた艶やか青髪が目立つ二十中頃の目つきがキツイ女性。その彼女がニコラスの言葉を止める。
こちらの女性はニコラスの妻、アイリーン。詰まる所、この世界でソラの生みの母親。
ソラは顔立ちは母に、特に目つきが似てしまっていたが、髪に関しては父に似たようで同じ黒色の髪を適当にまとめている。
アイリーンは何か気に障ることでもあったように、少しばかり厳しいというか、焦った表情をしていた。
ニコラスがアイリーンに顔を向けると、ソラの視線も自然とそちらに向いてしまい。一瞬、ソラとアイリーンの目が合う。
「――ッ!」
アイリーンはまるで恐ろしいものでも見たように目を一度だけ見開くと、直ぐに視線を逸らす。
「あなたこっちへ!」
言ってアイリーン手を引っ張り、部屋の部屋の隅へニコラスを連れて行くと、何か小言で話し合を始めた。
「おいおい、昨日も。それにさっきも話しただろ?」
「でも――」
夫婦の話はまだまだ終わらなさそうだ。
これから予定もあるソラは、空いたカップをソーサーに戻すと席を立つ。
「あ、ソラ!」
ソラが部屋を出ようとしていることに気がついたニコラスは、妻を制して声をかけた。
「サリオならもう来ている筈だから、気をつけてな」
「あ、はい。ありがとうございます」
扉を開き、部屋の外へソラは一歩踏み出した出したところでニコラスは「――ああ、それと」と続ける。
「……今夜は会合があるから私たちは遅くなる」
だから夕食も一人で食べてくれ、とのこと。それを口にしたニコラスの顔は、少しばかり申し訳なさそうな表情をしていた。
しかし普段から今朝の朝食のように、殆ど一人で食べていることが多いソラにとって、なんでそんな顔をするのか今一理解出来ない。
「わかりました父さん」
扉越しに顔だけ出してソラは答える。
数分後。一度自室に戻り、必用な準備を終えたソラが向かったのは玄関だ。
玄関口には壁に寄り掛かる人物。金髪を短く整えた背の少々低い、眠たげな眼をした青年がいる。青年は手に持った書類物に目を通しながら、ブツブツと独り言を呟く。この青年がニコラスの言っていたサリオである。
「おはようございます。サリオさん」
「ん? ああ、おはようございます」
サリオは面倒くさそうに答えた後、持っていた書類を脇に抱えると取っ手を掴んで玄関を開く。
開いた先には草を刈って整えられた、それなりの広さがある砂利道が家を横切って続いており。その道の脇には馬車が停められている。
ソラが外に出ると、サリオはそそくさと横を抜けてその馬車の御者席へと座り込む。それに気がついたのか、馬車に繋がれた馬は軽く嘶きを上げた。
「お~よしよし。今日もいつもどおりの道だからな。よろしく頼むぞ」
相変わらず眠たそう目のまま、馬に声をかけるサリオ。馬も言葉を理解しているのか、それとも雰囲気で感じ取ったのか、分かったとも言いたげに身を震わせる。
ソラも馬車に乗り込むのだが、座るのは同じ御者席ではなく客席の方だ。
「んじゃ出しますよ」
座ったのを確認してサリオが言う。間もなくしてゆっくりと馬車は道を走りだす。ここから目的までは片道二十分かからないくらいだ。
これから向かう先は少し前に入学した町中の、それほど大きくない学校である。
自宅が少し町はずれにあることもあり、ニコラスのススメもあって馬車を利用していた。
ソラは持ってきていた本をカバンから取り出し、読み途中の項目を開く。
「それにしても今日も早いですね。こんな時間に行っても誰もまだいないと思いますけどねぇ」
本を読もうとしていたところにサリオが声を出す。それが最初、自分に対して言われていることだと気づかず、ペラペラとページを捲っている途中でソラは相手の視線に気がつく。
自室を出る前に時刻を確認したが、恐らく今は七時半を過ぎた頃だろう。学校の開始は九時からなので、着いても一時間程早い登校であった。
「ええ、まあ。特に家にいてもやることないので」
それだけ答えて本に目を戻す。それだけで会話は終わりとしたところ、サリオはつまらなそうに眉をひそめ、前に向き直そうとするのだが、何かを思い出した様に口を開く。
「そうそう。お誕生日おめでとうございますソラ君」
サリオが口にして、はたと気づく。
(……そうか、そういえば今日って俺の生まれた日だったか)
特に何か想い入れもない為か、ソラはこの瞬間まで今日が自分の生まれた日であることを忘れてしまっていた。
(年齢も七歳か)
今年でソラは七歳を迎えた。つまりこの世界に転生して既に七年の月日が経過したことを意味している。
ソラはサリオに目を向けた。
「はい。ありがとうございますサリオさん」
礼を口にすると、サリオは軽く微笑んで今度こそ前に向き直す。
ソラはというと、手に持っていた本を開いたまま窓から、つい先程出たばかりの自宅に目を向けていた。
その自宅は周囲にある民家よりも五~六倍程の大きさをしている。お屋敷、と言っても過言ではないだろう。
それもこれも、父ニコラスは物販での商いをする、所謂商人なのだが、これが遣り手のようなのだ。
特に物流の流れを読むことに長けており、他の商人に先んじて動くことが出来き。そこから市場の流れを自身に有利に進めていく。
この先見の明があって、一財産気づいたとまでは言えるかはソラの存ぜぬところだが。とにもかくにも、お屋敷を建てて家族だけではなく、自分の店の数多くいる従業員の面倒も見れる程度に経営は成功。
まだ三十に満たない男が、ここまで築き上げていた。
ちなみに今馬車を動かしているサリオも、ニコラスの店の従業員の一人だ。
そういえばと、今朝のニコラスが最後に申し訳なさそうな顔をしていたが、誕生日は早く帰るとか以前そんなことを口にしていたなと思い出す。
ソラにとってそれはただの会話の一つに過ぎなかったが、ニコラスとっては貴重な息子との約束だったのだ。それを破る形になってしまいあんな顔をしたのだろう。
しかし、誕生日が近づくと何かしら一緒にと言うのだが、一度も達成したことはない。
ソラも以前の世界では一応サラリーマンを経験していたので、実際社長がどれほど多忙なのかは知らないが、暇ではないのだろうとは考えた。
(……七年か)
目的地に着くと、ソラはサリオに礼を言って馬車を降りる。
「それじゃ、また帰る時にお迎えに来ますので」
はい。お願いしますとソラは頷く。
サリオはソラに軽く手を上げてから、馬をまた走らせていく。
小さめの門を通り、短い石畳みを道なりに進むと直ぐに建物に行き当たる。この建物がソラの通う学校であった。
この校舎は然して大きくなく、自宅のお屋敷の方が広いぐらいだ。
まあ、全体通して生徒が四十人に満たない程なので、それで事足りているようではある。
そのまま校舎に入るが、他の子供たちの声は聞こえてこない。まだ授業の開始まで結構時間の余裕がある。いつものことだが、今日もソラが一番の登校のようだ。
校舎に入り、通路を曲がって進む。直ぐに一室に行き当たり、そこが教室。
扉を開け中に入る。やはり誰もいないようで、一番乗りかと思ったのだが。
「お誕生日おめでとうソラ!」
扉の陰に隠れていた人物は、ソラを脅かそうとしたのか突然姿を現す。
「おはようございますユズハ」
だが慌てたりなどはなく。いつも通りのままのソラに少々不思議そうな顔をしてしまう相手――栗色の髪をショートヘアに、ハツラツそうな顔つきの一人の少女。
「あれ? 驚くと思ったんだけどな~」
年齢はソラと同じ、活発なイメージがあるこの少女の名はユズハ。
彼女とは既に二年程の付き合いで、幼馴染という間柄だ。
「まあいいや、おはようソラ――って! もう、ここ髪の毛また立ってるよ!」
言ってユズハはソラの手を取り、席まで引っ張っていく。
ソラを自身の席に座ら、自分のカバンからヘアブラシを持って戻ってくる。
「ほら、あんまり動かないでよ」
ユズハはソラの髪に手をかけると、ブラシで髪の毛を整え始める。
ソラよりも少しだけ年上のユズハは、時折先のようにふざけることもあるのだが。妹や弟の多い彼女は、度々こうやってお節介を焼くお姉さんともいった関係。
また幼馴染であるものの。同時に父ニコラスが別の商家と組んだ縁談の相手――つまりは、ソラの許嫁でもあったりした。