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空(から)のソラ




 “――なんで俺って生きてるんだっけ?”


 周囲が歓談で騒がしい中、彼はふとそんなことを考えていた。

 現在の時刻は午後九時を少し過ぎた頃。酒場は大盛況といった様子で、ちょうど今くらいの時刻がピークタイムを迎えているのかもしれない。複数の店員があっちへ行ったりこっちへ来たりとせわしなくしており、追い打ちをかけるかのように出入り口からは度々客が来店してくる。


 ここは繁一仕事を終えたサラリーマンやOL達で賑わう、華街の中心地にある飲み屋。

 その一角に、派遣社員である楠木くすのき そらは勤務先で設けられた部署の飲み会に参加している最中で、こじんまりと座っていた。

 部署の飲み会とはなっているが、他の部署から参加している者もいて二十人以上の人数が集まっている。


「でさ、その取引先がうるせーのよ。ダラダラ文句言いやがって」

「あー、ありますねそういこと」

 空は今、自身の先輩にあたる人物の話を聞いている。といってもサシで話している訳ではなく、他の同僚も何人かは一緒だ。

 特に自分から話したりしない空は周囲が話す話題に合わせて時折頷き、無難な反応を返す。そして面倒な話題が始まったら、違うグループを作っているとこに顔向けて話を聞き流す。これだけに終始していた。

 つい先ほども酔った勢いからか、同僚が社外で禁止されている話題に触れそうだったので、隣でやっている先輩が中心になっているグループの話題に入り込んだところである。


「へぇー、そうなんですね」

「だよね。本当あの人頭ほんとおかしいわ」

 そういって回りはゲラゲラと笑う。空も適当に笑ってはいるのだが、内心なにがおかしいのかよくわからない。正直なところ、話を聞いてもくだらないとしか思えないでいた。


 内容は相手に落ち度があるような話でもなく、少し対応が他の人と違っただけという話が大半だ。確かに中には悪質なものもあるが、全部がそうではない。

 けど、その相手を非難する側は語るときには一緒くたにして語る。大きいのも小さいのも関係なしに。それは違うんじゃないのか? と空は思ってしまう。


 まあ、そんなこと一々言わないけのではあるが。言ったところで自分の職場に必要のない敵を作るだけだし、何よりそれを正しくないと思っても、正す理由なんてそもそもない。


(……早く終わらないかな、飲み会)


 内心そんなことを考えながら、手に持ったジョッキを口に傾け啜るようにビールを飲む。

 

 空は飲み会が正直なところ好きではない。アルコール類は特に好きでもなく、この周囲が騒がし過ぎる場も、何が面白いともわからない会話も苦手だった。

 それに親しい間柄の相手もいない。そんな空が何故飲み会に参加しているかというと――


「なんだ? 今日も来てないのか?」

 上司の一人、それなりに年期の入っているシワが目立つ部長は社員の一人が見当たらないことに気が付き口にする。

「ああ、あいつ付き合い本当に悪いですからね。入社してから参加したのって新人歓迎会の時くらいじゃないですか?」

 二人が話しているのは入社してまだ半年経ってないくらいの新人のことだ。彼はこういった催しが嫌いだと公言している人物で、件の新人歓迎会も嫌々参加していたようだったのを空は覚えていた。

「たくあいつは……たまに参加しないとチームでのコミュニケーションが取れないだろうが」

 ぶつくさ言い始めた部長はその後、チームの輪がなんだと、若いくせにと語りは出す。そしてそれは徐々に、今日たまたま参加できなかった社員にも飛び火していく。空はそれを見て、また始まったと思う。

 こうやって部長は、出席しない社員のことをよくよくあーだこーだという。空は今の会社に勤めて三年過ぎたところだが以前からこういったことに部長はうるさく、翌日にはその新人は呼び出しを食らうことになる筈だ。

 空はそういった面倒ごとを避ける為だけに毎回ではないにしろ。三~四回に一度はこうして飲み会に顔を出すだけはしている。


 しかし今日はいつもより部長の虫の居所悪かったようだ。

「おい楠木!」

「あ、はい」

 嫌な予感がしつつ部長の方を向く。

 空と部長は仲がいいということは全くなく。どちらかと言えば同じ部署内ではあるが、基本会話と呼べるのかわ怪しい、社内チャットを使用しての定型文でのやり取りくらいで直接話す機会も特にない相手だ。

 そんな部長にこうして呼ばれる時は、決まってお小言を言われる時だけであった。


「お前も参加率かなり悪かったよな? もっとちゃんとこういったことには参加しろ!」

「はい。すみません」

 適当な作り笑顔に、もう既に少し酔っちゃってますといった感じに返答する。


「……たく、いつも一人で黙々と仕事をしているのもいいがな、会社はチームプレイなんだぞ? さっきも言ったがな、こういった催しでコミュニケーションてのをとってより良い仕事環境にする必要があるんだよ。だからお前ももっと周りとコミュニケーションとれるようになれ。いい大人なんだからよう」

 つい先程、新人社員に対して言っていた時のような勢いは鈍くなっている。然しものの部長も酔ったように見える相手にまで、本気で語っても意味がないと思うのだろう。


「そんなんだからお前はいつまでも派遣だし。から――」

 そこまで部長が話したところで、部長へと声をかける者がいた。

「部長! この前の商談決まったお話を皆が聞きたいそうなんですよ!」

 それは空の隣に座る女子社員だ。彼女は少し離れたグループのところを指さしてそう言うと、ノリの良い社員が聞かせてくださいよと声を上げる。

「お! よっしゃ待ってろ!」

 言ってグラスを片手に席を立つと、既に空との事は気にも止めていない様子で部長はそのグループの中に入っていく。


「大変でしたね楠木さん」

 今しがた部長を呼んだその女性社員は、空の方を向いてそんなと言って軽く笑う。


 この女性社員は空と同期で入社した社員。といっても、彼女は空と違い正社員で年下であるのだが。

 別段同期だから親しい間柄ということでもなく、彼女は気が利く性格をしており。空だけに限らず、周囲に何かあればこうやって助け舟を出してくれる人物である。


 今も部長が空のことを、“あること”で罵ろうとしたことに気が付いたのだろう。こういった飲み会に参加したとき、空は大抵酔った部長からそれを言われるので慣れたものではあるが、気が付いたから彼女は部長に声をかけたのだ。


「……ありがとうございます」

「またなんかあったら言って下さいね」

 軽く一言交わして、彼女は自分のグループの会話に戻る。


 空は感謝の言葉を口にするが内心――お人よしはバカを見るだけだぞ。というふうに思っていた。

 それはもし頭の中が筒抜けになってしまったら、助けられた側がする考え方としては、下の下であることに疑う余地はないだろう。


 もうすぐ年齢も三十になろうとしている楠木 空。何故空がそんな考え方をするよう至ったかは、これまでに歩んできた人生にあるのかもしれない。


 空は物心ついた時から親、家族だけではなく。同年代の友人から、年の離れた大人や老人または年下と。その多くの人から慕われていた。

 それは以前の空が、誰彼構わず手を差し伸べる性質をしていたからかもしれない。


 助けを求められれば断らず、困っているのを見つければ自分から率先して動く。もちろん無理強いなどはせず、ちゃんと相手に確認をとってから手を出す。そんなことをいつからかしていた空だから、自身の周りにはいつも多くの人がいた。

 良い子、優しい子、人の気持ちが分かってあげられる子と言われ、空自身も誰かの為に行うことを純粋に喜ぶことが出来た。


 ――でもそのやり方が間違いだったと、今の空は思ってしまう。


 人間は慣れる生き物。習慣や周囲の物事に関しては特に顕著に合われるように。

 何度も助けを求める人というものは度し難いもので、彼ら彼女らは自分が困れば助けてもらえるということが当然となってしまう。助ければ礼ぐらいはされるがそれが一時の事ではなく、往々にして当たり前のものなってしまうのだ。

 助けたとしても、いつしかそれは口だけのものとなり。必要な行動と責任だけはこちらに被せて相手は何もしない。だが要求は常に上がり続けていく。

 助けを求める本人にとって、そこに善悪の感情は関係なく。また自覚あるなしにも関係なく、ただ結果だけをかっさらう。


 結局のところ、究極的に人が他者に求めるものとは無償の奉仕。

 これが今、人生を歩んできた空が抱く持論である。

 無論全ての人間がそんな傍若無人な者ばかりと言うつもりは毛頭ない。しかし、空にとって多くはそういった人間が占めていたのも事実。


 それでもまだ考えが幼かった頃の空は、本当に困っている人には手を差し伸べることは止められないでいく。

 いつかこんな自分だって報われる筈と根拠がなくとも信じていたから。だが、それも年齢が二十を過ぎても状況はなにも変わらないと、いつの間にか期待というあやふやなものは出来なくなっていた。


 気づいた頃には他者に嫌悪感を感じてしまう自分がいたことを、空は後に知ることになる。

 実家から出て。人付き合いを避け。なるべく誰かと関わらないような生き方をするようになり。人助けも止めてしまう。


 何度か仕事を転々とするうち、自分で全部やれることもわざと手を抜くようにすると、周りから頼られることも減っていくことに気が付いた。

 それもそうだ。助けを求める者が出来ない相手に頼る必要性がないのだからと妙に納得し、手を抜く行為を増やす事で煩わしいことも次第に無くなっていく。

 人との関りを避けるようになったからか、それとも自分にとって害悪と感じるようになってしまったからか、最後には他人に対して関心というもの事態が無くなっていた。好きの対義語は無関心と言われているが、ここまでなってあながち間違いではないのかもと今の空は思うようになる。


 そして、そんな状態が続くこと更に数年――今もう正確に思い出せないがいつからか、自身が心の浮き沈み、高揚感、そういったものが徐々に薄れてしまっていくのに空は気が付く。

 年齢を重ねれば人は落ち着いていくという。そういったことで、感情を表に出さないとか冷静になるようになるとかは知っていたが。そういったものとはどうにも違っている。


 最初は楽しいとか嬉しいといった心にとってプラス面の感情、これが徐々に薄れていった。

 元々多趣味だった空は色々なことに手を出していたのだが、スポーツや読書や料理、ファッションやゲームといったものから、オタク趣味といったものにも手を出していた。その他にも面白そうなことがあれば何んでもやり、楽しさを感じていたのだが。今は何をしてもその時あった筈のプラス面の感情が沸き上がってこないようになってしまう。


 そして続いてマイナス面の感情、辛いとか苦しいとかそういったものが薄れていった。

 一番気になっていた人との関りを避けるようになっていたとはいえ、生きて生活をしていればどうしても大変な時はどうしてもある。

 だがそれも、今となっては感じ取れないようになってしまっていたのだ。

 

 小さい頃から行っていた誰かの為にというある種のアイデンティティが崩壊したからか。または自分が嫌悪する頼りきりの何もしない者達と近しい行動をとっていることを理解しているからか。感情の薄れというのは最終的に、自身の事でさえ無関心に近いものとなっていくのかもしれない。

 今では趣味だった事にも全く手を付けないようになり。することと言えば、仕事と必要最低限の買い物以外には家を出ず。自宅でただラノベや文芸書、実用書、ビジネスや経済の書物または新聞などの活字を読んで過ごす毎日。ただしそれは楽しいからと言うことは一切無く、人と関わらず時間潰しが出来るという側面だけが強いからであった。


 そしてそんな日常を過ごすうちに“――なんで俺って生きてるんだっけ?”と度々頭を過るようになっていく。


 生きがいも無く。ただ生きているだけ。生きているだけで万々歳という人もいるが、それは楽しいとか嬉しいとか。はたまた辛いや悲しいという喜怒哀楽があって成り立つものであり。それが無くなりつつある空にとってはなんの意味もなさない言葉である。

 だからこそこんな考えをしてしまうのだが、その問いに答えは出ていない。


 空もそんな状態はなるべく態度には出さないようにはしているものの。表裏無く感情を出さない為、まるで心がないみたいと空を評する者も少なくはない。

 そしてそんな相手からは、名前の空を文字って (から)っぽ、と呼ばれており。先程の部長が言おうとしていたのもこれのことである。

 本来なら認めてはいけないところではあるが、間違ってはいないなと空自身も納得出来てしまえていた。


 それから空はまた適当なグループの話を聞き流しながら、お酒を口にしながら時間が過ぎるのを待った。一時間程で終了となると、店を出たところでは数名の社員がまだ時間あるとのことで、二次会の話をしている。参加者を募っているところで、空は軽く挨拶だけして一人スッと歩き出すが――

「楠木さんも一緒に行きませんか?」

 声をかけてきたのは先の女性社員だ。空が一人でいることを気にかけてのことだろう。


「いえ、明日出社早いんで今回は遠慮しておきます」

 空が断ると彼女は残念そうな顔をされたが、軽く誘ってくれた礼と会釈してその場を離れていく。

「ホント空っぽ君は――」と誘ってくれた女性社員ではない。誰かの声が聞こえてきたが振り向かずその場を後にした。


 最寄り駅までは少々距離がある。その道中はふらついてる中年。道端で蹲っている人物にそれを介抱している別の人物など酔っ払いが多い。周囲が飲み屋で囲まれており、遅い時間も相成っているからだろう。ここいらの駅までの道程はこういった状態が続いている。


 歩いているとまたふと“――なんで俺って生きてるんだっけ?”と考えてしまう。

 なんの生きがいもない人生。ただ生きているだけの毎日。そこに空はなんの価値も感じられないでいた。


 以前はそのことに焦りを感じていた時期もあった筈だが、その想いも既に薄くなってしまっている。

 もちろん。ゼロではないので可能なら何とかしたいとは空自身も思っているが、その方法はわからないままだ。


 そこで何となく頭を過ったのは、少し前に読んだ本。

(あれは、そう――ラノベだったな)

 

 所謂転生もの。主人公が不慮の事故で無くなって別の世界で生まれ変わる物語。

 そんなことが実際にあれば衝撃で自分自身にもなにか変化が起きるかもと考え、直ぐに非現実的すぎるなと思い直す。


(まあ、あんなことが起こるなら誰も苦労はしないか)


「おっと」

 歩道橋を上がっている途中軽くフラつく。お酒には余り強くないのでいつもは少しだけにしてはいるのだが、今日は潜り込んだグループで酒を進めてくる社員がいて少し飲み過ぎてしまっていた。

(取り合えず駅に着いたら水でも買おう)


 そう思いながら歩道橋を上がり切った矢先の出来事だった。

 酔いから軽くぼんやりする頭を上げると、目の前には同じく酔っているであろう恰幅のよい相手が視界に入る。相当泥酔しているようで目が虚ろだ。

 その相手は空がいたことも気がついていない様子で、思い切りぶつかってしまう。


「あ」

 空自身が酔ってふらついていることもあり、あっさりと体は後方に崩れていく。このままでは不味い、と酔って鈍い頭にしては素早く理解ができた。


 近くの手すりへと手を伸ばす空。元々運動神経は悪い方ではなく、むしろそれなりには良い方であったので問題なく手すりに届きそうであった――が。


(――ここで助かってどうする? 生きる理由も見つけられないのに?)


 ほんの一瞬。しかし、気が付けば手すりを掴めない程に体は傾き――真っ逆さまに落ちていく。

 二度三度打ち付けられていく中、痛みが体を走った。少しして一番下まで落ちたのか、仰向けになって動きが止まる。


 次に何処かで悲鳴が上がった気がして、そちらの方へ顔を向けようしてみたが全く動かない。

 目に映るのは、どんよりとした曇り空だけだった。

 

 その視界も次第に霞んでいき。漠然と終わりというものを感じでいた。

 しかし恐怖というものはない。その中で空が最後に思ったことは、それは。


(……ああ、こんな時まで俺には何も――)

 何も沸き上がるものがない――そのまま楠木 空の意識は消失していくのだった。 




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 ――何処かで声が聞こえ、意識が戻る。

 そういえば歩道橋から落ちたのだと空は思い出す。

(あれ……俺は助かった……のか?)


重い目蓋を上げる。少しずつではあるが、視界が開けていく。

 

目から見えてくるものはどこかぼやけており、どうにもハッキリと映らない。頭も起きたばかりだからか、それとも飲み過ぎていたせいであろうか。意識が朦朧とはしていたが、そこが屋内であることは理解できた。


(ここは一体どこだ?)

 少なからず、空にはこの場所がどこかは思い当たらない。見知らぬ天井だけが目につく。


 取り合えず屋内に運ばれたということは自分を運んだ誰かがいる筈である。その人物が近くにいるかもしれないし、もしくはこの状況を説明してくれるのであれば別の誰かでもよいだろう。取り合えず誰かが近くにいれば、呼べば反応あるだろうと思い空は声を上げようとしてみた。


 だが、声を出そうとしたところ、なぜかちゃんとした言葉が発音出来ない。

(もしかして落下した際の後遺症?)


 そんなことを思いはするのだが、特に焦ったりということはなかった。そういこともあるかもしれないと。自分の事ながら、どこか他人事のように感じられてしまう。


 次に手に力を入れてみると、これは問題なく動く感覚があった。重くはあるのだが、動く。

 顔の前まで片手を動かして、空はあることに気がついた。


 その手は自分の記憶にある手と違い、それこそまるで別人の手。

 いや、自分の意志で動くのだから、自身のものであることは紛れもないのだが明らかに違う。言うなれば肌の艶やサイズが違っていた。

 そうまるで、幼子の手にしか見えない。


 既に頭や視界のぼんやりしている感じはある程度抜けてきており、どちらもクリアになり始めている。

 試しにもう片方の手も顔の前に持ってくるのだが、やはりこちらも同じサイズ。見間違いではないことを確認。

 ついでに顔に手をやってみると顎周りに髭の感覚はなく、肌はつるつるしているようだ。


 続いて体の他の部位を確認しようとするが、頭は左右に動くのだが上げることが難しい。

 何とかして見えないと力を入れていると、何処からか大きな手が自身に迫ってくるのが見えた。その手は空を襲う為のようなものでないようで、脇に回された後、後頭部に手を回され空は持ち上げてしまう。


 手の力は強いようで抗う事が出来ない。されるがままでいると、男性の大きな顔が目に入ってきた。男は顎髭を蓄えてはいるが、まだ見た目よりも若そうな印象を受ける。

 その男は、何やら嬉しそうな顔で空を見ては考え事をするように天井を向くといった行為を繰り返している。


 少しの間男の様子を観察をしていたが特に何かするということもなく。自分が何をしようとしていたかを思い出す。

 頭をある程度固定されたことで自身の下半身にも目がいくようになり、そこで理解した。


 体が縮んでいる。自分の体が赤ん坊の様に小さく――いや、正確には赤ん坊になっていることに気がつく。

 今空を抱きかかえている男性の手や顔が大きく感じるのも、空自身が小さいのだから、サイズ差があるのだから当然かと妙に納得してしまう。


 男は空を抱きかかえたまま数度何かを口走る。しかし、その言葉は意味が分からないもので。少なくとも日本語か英語でないのは確かようだ。

 そして男は屋内に設置された窓のところまで移動していく。抱きかかえられた空は、そのまま窓からの風景を覗いてみた。


 目に入る景色はよく目にしていたビル街やコンクリート造りの住宅街といったものではなく、煉瓦や石造りの建物が連なっている。

 その周囲の建物にも当然窓が取り付けられていて、そこから中をよく観察してみれば生活感があるのが分かり。また人の姿もちらほらある。

 

(民家、で間違いないようだな)


 やはり記憶にある日本とは違う。じゃあここはどこなんだ? 俺は一体どうなってるんだ? と思いもう一度窓から外を見る。


 そこで“ソレ”が目に入ってきた。


 最初は目の錯覚だったんじゃないかと思った。

 一度深く目を閉じて、一度深呼吸してからゆっくりと開く。そして改めて確認する。


 空が見たのは今天にも昇ろうと翼を羽ばたかせる馬。神話やゲーム等にしか現れない筈の存在。

 “ソレ”とはペガサスであった。


(……ああ)

 ここで空はようやく理解と確信を得た。

 

 やはり元の自分はあそこ、あの歩道橋を落ちた時に亡くなったのだろう。

 そして――そして自分が願った異世界転生が起きた事を。


 空を抱えていた男もペガサスの存在に気がついたのか、その行く先を目で追う。

 そして何か思いあたったのか唐突に小さく「――ソラ」と口にする。


 何か良いことでもあったのか、そこから男は手に抱く赤子の脇を両手で抱え上げて何度も、ソラ、ソラと繰り返す。

 

 後に分かることであるのだが、男性はこの世界における空の父でありニコラスという名で商家を営んでいる。

 そして、ニコラスは生まれたばかりの息子に名を決めかねていたのだが、ペガサスの向かう先の“空”。日本と同じ発音の“ソラ”が気に入り、この時息子にその名を付けたのだ。


 いつからだったろうか? 

 “――なんで俺って生きてるんだっけ?”と考えてしまう日々。なんの生きがいもない人生。ただ生きているだけの毎日。そこにはなんの価値も感じられないでいた自分自身。


 合わせるかのように、徐々に、けど確実に薄れていく感情というもの。

 以前はそのことに焦りを感じていた時期もあった筈だが、その想いも既に薄くなってしまっていた。


 ――それでも、直せるなら直したいと思っていた。


 主人公が不慮の事故で無くなって別の世界で生まれ変わる異世界転生。

 非現実的すぎるとはいえ、そんなことが実際にあれば衝撃で自分自身にもなにか変化が起きるかもと考えたこともあった。


 だがそれはこうして実際に起こった。

 

 起こってくれた。


 だが――


(……ああ、それでも俺の心には何も――)

 

 何度も嬉しそうにソラと繰り返す男に「ホント空っぽ君は――」という耳に残ったあの言葉が聞こえた気がした。


 ソラはもう一度、空を仰ぎ見る。その空はあの時、元の世界で見たものと同じ。どんよりとした曇り空が広がっている。




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