【4章】恋敵、登場
4章 恋敵、登場
「もう···っ」
コナツは玉座の間の扉が完全に閉まってから、怒ったような声を出した。
リオに怒ったのではない。自分の高鳴る心臓に対し、苛立ちを隠せなかった。
(どうして、あたしは···っ!)
高鳴る鼓動の音がうるさい。左胸に手をあてそうになるが、コナツはすんでのところで止めた。
無暗に触るのも、良くないと思ったからだ。
「コナツ様···どうかしましたか、です?」
玉座の間の扉の前に、控えていた黒人の少女が声をかけてきた。南国からの奴隷であることは、彼女の褐色の肌を見れば明らかだろう。コナツは彼女を見て、眉間にシワを寄せながらも、首を横に振った。
彼女は、自分が皇宮に来てから、自分の側用人になった少女だ。
「セゾン、何でもないわっ」
縮れた黒く短い髪に、くるりとした大きな黒い瞳。
年は自分よりも1つの下の15歳と聞いているが、もっと幼く見える。丸みを帯びた顔だちだからだろうか。コナツに対しても遠慮がちな態度から、控えめであろうと努める彼女の性格が表れていた。
幼さが残る素朴な顔立ちで、他の皇宮に勤める使用人達と同様に裾の長い黒いワンピースに、白いエプロンをかけた衣装を着ている。
「お顔がお赤いようですが、ご体調でも悪いんです?」
セゾンは、カタコトの言葉を話す。
一応自分の側用人のため、敬語を使おうと気を遣っているのだ。
「何でもないわよ···っ」
自分がつい言い返すと、セゾンを困ったように眉を寄せ、頭を下げた。
(セゾンは心配してくれたのに、あたしったら···)
遠慮がちなセゾンに、きつい言葉を返してしまう。
自分の性格が、嫌になる。
「···ピロス部屋に行くわよ、こいつを連れていかなきゃいけないんだから···っ」
「え?こいつとは···です?」
ピロスを見えないセゾンは首をひねりつつも、さっさと回廊を歩いていくコナツについてくる。
白亜の回廊には、装飾などが一切ない太い柱が建ち並んでいる。
開国してから1000年もの歴史を持つグリックラン皇国の皇宮は、まるで遺跡のようだ。幾多の戦争を潜り抜けた建物は傷つき、ほころんでいる場所もある。草木が植えられた庭を通れば、2つに分断された柱が横たわっていた。
(長い歴史を持つ皇宮っていう良い言い方はあるけど、実際にはオンボロなだけよねぇ···)
回廊の欠けた柱を見ていると、歴史があるというのはいささか良い言い方をしているだけのような気がした。
(スモリペン島の城も古かったけど、こことは全然違う)
コナツは、かつて自分達がいた島を懐かしく思った。
元々自分とリオがいた、スモリペン島というグリックラン皇国の領地。リオは皇子という立場ながら、皇宮ではなく島で育った。
スモリペン島は磯の匂いがして、城が建っている帝都、コリンティアとは全然違う。
コナツはすたすたと回廊を歩きながら、女性2人の姿を横目にする。
「わっ!」
「ぐっ!」
突然、コナツの視界が水に濡れた。腕に抱いた河童も驚いて鳴き声を発する。自分と河童の身体を、冷たい水が濡らす。
大きく浴びせられた水は、衣服から水を滴らせる。
「あ···」
コナツは驚いて、自分の身体を見つめた。黒いワンピースドレスが身体にはりつき、気持ち悪い。くすくすと嘲りの笑みが聞こえてきた。
「あら、すみませんね」
2人組の女性の、青色のドレスを着た1人が悪びれていないように言った。悪意を含めた言葉だ。
「大丈夫です···!?コナツ様···!」
セゾンが、小声で訊いた。2人組の女性達の目を気にしている。
「ごめんなさい。掃除をしていたのですが、大きなゴミだと思ってしまって」
2人が掃除をしていたようには、見えなかった。
2人組の女性は、皇宮に勤める侍女なのだろう。自分やセゾンと違って黒いワンピースドレスではなく、華やかなドレスに身を包んでいる。彼女達2人が着ている両腕の部分の裾は長く、腰の部分が紐で縛られ、腰の細さが強調されている。
「猿風情が···」
赤色のドレスを着た女は、コナツを見て吐き捨てるように言った。
彼女の鋭い眼光は侮蔑に染まっており、猿というのが自分に放たれた言葉だということがわかる。
「皇帝陛下がお優しいからって、調子に乗っているからですわ」
コナツは、水に濡れた自分の顔を拭う。
(後宮の女官かしら···?貴族っぽいわねぇ)
2人組のドレス姿から、推察する。絹でできた布地や、胸に着けた宝石から、貴族の若い女性たちだと思う。
(スモリペン島と、これだけは変わらないわね···)
猿と罵られるのは、スモリペン島にいた時からよくあったことだ。グリックラン皇国の人間と違って黄色の肌をしていることで、「猿」という侮蔑の言葉が浮かぶのだろう。最初は言葉こそ理解できなかったが、リオの傍に侍ることで教育を受け、侮蔑の言葉と理解することができた。
(···ほんっと、くだらないわ···っ)
コナツはイラッとしていた。
珍しい毛色の奴隷だからとヤマトから連れてこられて、蔑まれるということに納得がいかない。
他国から連れてこられた奴隷で、虐げられて従順になる者もいる。セゾンが良い例だろう。
だが、コナツは違った。優しいリオが主人で、ずっと守られてきたからかもしれない。
言いたいことは、言う。
奴隷として、黙って虐げられて、従ってなどいられない――というのが、コナツの持論である。
「――あんた達ねぇ、こそこそこそこそ五月蠅いのよっ···!!」
「ぐっ!」
奴隷にあるまじき態度で、コナツは低い声音で唸る。大声に驚いて河童が声をあげ、女性2人組がびくりとした。ぎらりとコナツの瞳が光る。
その時、コナツと2人組の女性の間を、1つの剣が引き裂いた。傷がついた白亜の壁に、細いレイピアが突き刺さる。
(えっ、剣――?)
勢い良く飛ばされてきたそれを見て、コナツは目を丸めた。レイピアには白い百合の装飾が施されている。「ひっ」と女性達が息を呑む。
「きゃあぁっ!」
遅れて女性達は悲鳴をあげ、後ずさった。レイピアからなるべく離れたいとばかりに後退していく彼女達を見ながら、レイピアが飛んできた方向に目を向ける。
「すまないっ!手元が狂った!」
慌てたようにして少女が走ってきた。ぱたぱたと駆けてくる女性は、申し訳なさそうに眉を寄せていた。
「エレニ様···」
「おお、コナツじゃないか。偶然だな」
赤いドレスを着たエレニ・メルクリは棒読みな口調で言った。
黄金の長い髪に、溌剌とした紺碧の瞳の少女だ。
らんらんと輝く瞳は好奇心旺盛で、少女らしい純粋さを残しつつ、凛とした美しさが彼女にはあった。まるで、白い花を想像させるような美しさだ。
彼女の可憐な容姿といい、華奢な体つきからは、まさかレイピアを振り回すようには見えない。
「偶然も何も、ここは皇宮ですからねぇ···」
コナツはひくりと口の端を吊り上げ、エレニと向かい合う。
自分は皇宮に勤めているのだから、皇宮にいるのはおかしい話ではない。むしろ、エレニが皇宮にいて、そして皇宮の庭で剣を振り回しているのは不自然だ。
エレニは公爵家の娘で、先帝の妹を母親に持つ。
彼女は、リオの従兄妹なのだ。スモリペン島に来たことは一度もないが、リオが年始の行事には必ず皇宮を訪れていたため、同伴していたコナツも会ったことがある。
(エレニ様が、皇宮に?しかも剣を振り回して···)
幼い頃から彼女は剣を好み、剣の鍛錬を行っているとは話に聞いていた。彼女が他の貴族の女性達とは違い、ドレスや宝石よりも剣を好んでいることから「騎士姫」なんて貴族たちには揶揄されているらしいことも。
「ところで、何故コナツの体は濡れているんだ?」
エレニは、笑みを浮かべて言った。ドレス姿で、あっさりとレイピアを引き抜く。壁に突き刺さっていたのだから、抜くにはそれなりに力が必要だろうに。
「そこもと達が、やったのか?」
「エ、エレニ様···!」
2人組の女性は、エレニを見て深々と頭を下げた。エレニが皇族の血を引いているため、普通の貴族ではひれ伏すしかないのだろう。エレニは困ったように笑う。
「そこもと達は、後宮の女官だろう。弱い者虐めなど、後宮の品位を疑われるような行為だ。皇帝陛下のためにも、止した方が良い」
「も、申し訳ございません···っ!」
エレニは、丁寧に女官たちを諫めた。コナツは目を瞬かせる。
奴隷である自分を庇うなど、予想外だった。騎士姫という異名があるのも、黄色の肌を持つ奴隷を貴族から庇うような、彼女の正義さ故なのかもしれない。本当に騎士のように、真っすぐとした正義さだ。
「床が汚れてしまっているな。君達が責任をもって片付けろ」
「は、はい!」
女官達は命じられたまま、慌てたように駆けていく。
エレニは彼女達の背を見届けると、ドレスから真っ白いハンカチを取り出し、自分に差し出した。
「こんな物しか持ち合わせていないが、使うと良い」
「あ、ありがとうございます」
コナツは、ハンカチを受け取る。彼女の態度に驚く。こんな風にハンカチを差し出すなど、普通の貴族ではできないだろう。
(後宮の女官達を、エレニ様が知っている?)
それに、エレニが言ったことが気になった。恐らく、コナツも彼女達は皇宮ではなく、後宮の女官ではないかと思っていた。
後宮は、皇后や皇帝の妃が暮らす宮殿のことだ。だが現在の皇后は空位で、特定の妃もリオにはいない。1年前に即位した時から後宮は、事実上誰も暮らしていない。
(まさか···)
嫌な予感がした。
「エレニ様!皇宮で剣を振り回さないでくださいっ!」
エレニが来た方向から、走ってくる中年の女性がいた。彼女は息を荒くしており、慌てて駆けてきたのだろう。濃い茶髪を夜会巻きにしており、青い目でエレニをきつく見据えた。
「ああ、マーキス。遅かったな」
と、エレニは何てことなさげに言った。
マーキスと呼ばれた彼女は、渋い茶色のドレスに身を包んでいる。
「あなた様は、皇后候補ですよ!?後宮に入られるのですから、剣などお持ちにならないで下さいっ!」
マーキスは、言い放った。「やれやれ」とエレニがため息をつく。
(こうごう、こうほ?)
コナツは、頭から石を落とされたような衝撃を受けた。コナツが息を詰めたのも、きっと誰も気づいてはいないだろう。
美しいエレニのことを、コナツは見つめる。
(皇后候補)
嫌な予感は、当たっていた。
後宮の女官だとエレニが断定するのは、彼女が後宮の主だからだ。皇宮に勤めてもいない彼女が、後宮の女官を知っているはずがない。
「まだ候補だ」
「お美しく、教養もあるエレニ様ですから大丈夫ですっ!」
マーキスが鼻息を荒くして言うのに対し、エレニは苦笑していた。
「コナツ、皇帝陛下は玉座の間におられるか?公務のお邪魔にならないようにしたいのだが、誰といる?」
名指しされたのに、コナツは自分に質問をされたのかわからなかった。暫し間をあけ、コナツは応える。
「あ···臣下は、クロノスがいるだけです」
「そうか。じゃあ向かうとするか」
エレニは自分が傷ついていることなど、気が付いていないのだろう。明るく笑うと、剣をマーキスに預ける。
「可愛い子だな、その子」
「え?」
エレニは、河童を見た後、玉座の間に向かって歩いていく。彼女を追って、マーキスも後をついていこうとしたが、足を止めた。
コナツが訝し気になっていると、マーキスは自分を睨んでいた。
「あなたが、皇帝付きの文官ですか。猿だとは聞いていましたが」
侮蔑するように、マーキスは言った。
は?と、コナツは凄む。マーキスは自分のことを邪魔だとばかりに睨み据えていた。
「その役職は、普通なら皇后候補が与えられるものです。猿ごときにその役職を与えるとは、全く嘆かわしい···」
皇帝付き文官とは、要は皇帝の秘書のようなものである。皇帝の傍に仕え、雑務をこなす。皇子時代からリオの側用人だったコナツは、リオの皇帝即位に伴って、皇帝付きの文官となった。
皇帝付きの文官は、皇帝の傍にいることが多いため、皇后候補などの貴族令嬢が役職として与えられることが多かったそうだ。外交などで他国の大使とも会うことが多く、皇后になる令嬢は、他国の政治にも明るくなり、皇宮や後宮にも慣れることができるため、都合の良い役職なのだろう。
(だって、リオ様がお望みになったんですもの)
自分は、リオから与えられたことをしているだけだ。
「何よ、あんた···っ」
コナツが噛みつくように言おうとしたが、マーキスは鼻を鳴らすと、エレニの後についていった。
「コナツ様···」
2人が去った後を見つめるコナツに、セゾンが声をかけた。コナツは衝撃のまま、動けずにいた。
「ぐ···」
河童の身体がうごうごと蠢く。腕の中で動く河童の体に、コナツはようやくハッとした。
(···今は···この子を)
まだまだ、やることはあるのだ。渡されたハンカチで身体を身体を拭き、そのハンカチをセゾンに強引に押し付けた。
「行くわよ···」
衝撃を受けたコナツは身体無理矢理に動かし、歩き始める。回廊を抜け、元々目的地だった部屋の鍵を開き、入る。
「川魚を用意して。食べるはずだから」
「はい、です」
コナツはセゾンに言いつけ、部屋の中を見渡した。
騒がしい部屋だ。色んな形の生き物がそれぞれが個体に合わせた檻の中に入り、鳴いていた。コナツが入室したのを見ると、反応している生物も多くいる。
黄金の鱗を持ったドラゴンや、忙しなく羽を動かす妖精。不思議な生物達はそれぞれに適した環境が用意され、檻の中に入っている。檻は場所によっては2つ、3つが重ねて積まれていた。
『メシ、ヨコセ』
「まだご飯の時間じゃないわよ、タラコス」
檻の中にいる1匹のピロスが、話しかけてきた。このピロス部屋にいる、唯一人の言葉を介せるピロスだ。
タラコスは、ライオンのような体躯だが、体は鱗に覆われ、尻尾はくるりと丸まっている生き物だ。
『ニンゲンノコドモ、ヨコセ』
「あげるわけないでしょ?今日も鶏肉よ」
それはタラコスという名前の、昔隣国で人間の子供を襲っていたというピロスだ。ピロスが皆、河童のように温厚ではない。人肉を好むような生き物もいる。
リオはピロスを好んでおり、収集しているため、皇宮にもピロスが集められた部屋があるのだ。
「丁度あいている檻があるから、これで良いわね」
「ぐ!」
コナツは部屋の中にある檻を見つけ、胸にしがみついている河童を引き離した。両手足をばたばたと振り、コナツに近づきたいと悶えているようだった。
思わず、くすりと笑ってしまう。
「コナツ様、お魚をご用意してきました、です!」
「ありがとう」
セゾンが川魚を数尾用意して持ってきた。小さな、青い川魚である。河童と共に、川魚を檻の中に入れると、河童は目を輝かせる。
「ぐぅ!」
小魚と共に檻の中に河童を入れると、河童は喜んで小魚を食べ始めた。河童が夢中になって小魚を食べるのを見届けながら、コナツは先程のエレニのことを思い出す。
(公爵家の姫が···皇后候補···)
エレニの家柄を考えると、確かに彼女は皇后として相応しいだろう。
家柄を抜きにしても、彼女の美しさは、リオの隣に立つ資格は十分すぎるほどだ。
(リオ様は皇帝になられたお方。あたしなんかじゃ···)
彼が皇帝になるなど、スモリペン島にいる時は予想などしていなかったがーーーそもそも、皇族の血を継ぐような男を懸想することが身分不相応だ。
(···いくら優しいとはいえ、勘違いしちゃいけない···)
胸が傷む。リオの姿を思い出すたびに、苦しいぐらいに胸が痛みを発するのだ。
(これは、あれの痛みだ)
コナツは、左胸にある異物のせいにしようとした。
「ぐ!」
檻の中にいる河童が、檻の隙間から手を伸ばしてきていた。ぎゃあぎゃあと鳴くドラゴンの声を背にしていたが、すぐ近くにいるコナツには、河童の声は耳によく届いた。
檻の隙間から、河童は与えられた小魚を差し出してきていた。必死に短い手を伸ばし、コナツに近づけようとしている。
「···なぁに?くれるわけ?」
河童の手は、ぷるぷると震えている。コナツに小魚を渡したくて、差し出してきているのだろう。
(そっか。こいつは、人に恩返しするピロスだから)
小魚を渡してくれたお礼に、小魚を返すのか。檻の中には他にまだ何も入っていないため、せめて渡せるものを渡してきたのだろう。
河童のいじらしさに、コナツはついくすりと笑う。
「いいわよ。折角あげたんだから、あんたが食べなさい」
「ぐぅ?」
渡された小魚を受け取らず、押し返す。生の小魚をもらったところで、自分は食べない。不思議そうに河童は首を傾げている。「食べないの?」と言わんばかりの目だ。
太った河童のそんな所作に、コナツは笑みを深める。
コナツは河童の仕草に、愛嬌を感じた。自分の出身国からのピロスということもあり、親近感もある。
「···タロウ。あんたのことは、そう呼ぼうかな」
自分のいた土地では、河童のことをカワタロウと呼んでいた。河童という正式名称よりは、コナツにとって馴染みのある名前である。
「···ぐ!」
きっとタロウは、人間の言葉などわからないだろう。不思議そうにコナツのことを見つめていたが、くるりとコナツに背を向け、押し返された小魚をぱくぱくと食べ始めた。