悪役令嬢ですが、記憶喪失になりました
転んだ拍子に頭を石にぶつけて、すべての記憶が吹っ飛んだーー。
「……じょ……様! お嬢様! 誰か医者を呼んでくれ!」
男の人の声を最後に、私は気を失った。
「記憶障害ですね、これは」
医者は深刻そうな顔で言った。
というのも、目を覚ました私は何も覚えていなかったからである。これまでの日々も、父や母の顔でさえも。
「そんな……っ…」
母だという人は涙声で口元を押さえている。今にも泣き出しそうだ。
「ああっ、シェリル。可哀想に……!」
ぎゅっと抱き締めてくれる温もり。知らない人でも心地いい。
「記憶を取り戻す方法は?」
男の人が訊く。……あれ? この人のことは知っているな。確か名はセオドア?
と同時に頭がショートしたように痛んだ。情報が湯水のように流れ込んでくる。
私、私は……鈴村芽衣。高校生で通学の途中でトラックにぶつかってーー。
んん? 何これ。
「おば……お母さん、手鏡を貸して下さい」
「え、ええ」
戸惑ったような顔をして母だという人は手鏡を貸してくれる。その中を覗き込んで私は仰天してしまった。
緩くウェーブがかかったプラチナブロンドの長髪。森を切り取ったような緑の瞳。顔の造作はややつり目であるものの、美しい。
見知らぬ人物の顔だ。……いや、違う。私はこの顔に覚えがある。
乙女ゲームの悪役令嬢の顔だ、これ!
雷を打たれたような気分だった。もしかして私、あの事故で死んでゲームの世界に転生してしまったのか! それも悪役令嬢に!
悪役令嬢の名はシェリル・アビントン。第一王子と婚約している公爵令嬢だ。
ヒロインに数々の悪事を働き、最後にその罪が暴かれて婚約破棄されてしまう運命にある。そして最後には北の地に追放させられてしまうのだ。
なんてこった。とんでもない人物に転生させられたものである。
「何かきっかけがあれば、思い出される方も少なくありません。ですが、一生思い出さない方も多数見受けられます」
「きっかけというのは?」
「以前、赴いた地に出向いたりですとか、以前、日常にしていたことをするとかですかね」
「なるほど。ありがとうございます」
では、と言って医者は部屋を退出した。残されたのは私と母とセオドアだ。セオドアは確かシェリルの執事だったはず。
寝台に腰かけている私の前にセオドアは跪いた。
「お嬢様。やはり私のことも思い出せませんか?」
「はい……すみません」
私は申し訳なさそうな顔を作った。ここで知っていますと言ったら話がややこしくなる。
セオドアは落胆した様子を見せ、「そうですか……」と目を伏せる。
「私はセオドアです。あなたの執事です。以後、お見知りおきを」
「セオドア、さん?」
「セオドアで構いません」
ああ、整った顔立ちをしてるなぁ。睫毛が長い。そんなことを呑気に思った。
って、そんな場合じゃない!
「セオドア、私は何歳ですか?」
「十七歳です」
十七! 大変だ、婚約破棄されるイベントが間近じゃないか!
どうにか回避する手段はないものか……。
「お嬢様は学園に通われていたのですよ。それも思い出せませんか?」
「はい……」
知ってる。貴族の令息令嬢が通う雅やかな学園だ。十八歳で卒業となるが、私はその前に退学させられてしまう。
他にもセオドアは話をしてくれた。公爵令嬢であること、第一王子と婚約していること、などなど。
「セオドア、そろそろ休ませてあげましょう。この子も混乱するわ」
「そうですね……ではお嬢様、私どもは下がります。何かご用があればお呼び下さい。すぐに伺いますので」
そう言ってセオドアと母も退出していく。残された私はふかふかの寝台に横になった。
豪勢だなぁ。さすが公爵令嬢。
それにしても、セオドアに嫌われている様子はない。ゲームでは高慢ちきな嫌な女だったけれど、現実では違うんだろうか。
はてさてヒロインに悪事を働いているのかも分からない。でも婚約破棄は既定路線なんだろうなぁ。
結局、婚約破棄を阻止するいい案が浮かばず、夕食の時間になった。ナイフとフォークを慣れない手つきで使い、肉を切る。ううむ、味付けはシンプルだけどおいしい。
「ねぇシェリル。しばらく学園はお休みしたら?」
「そうだな。家でゆっくり過ごすといい」
両親からそんな提案がされるが、私は首を横に振った。のんびり過ごしている暇などない。
「いいえ、行きます。授業に遅れてしまいますから」
「でも……」
「大丈夫です、お母さん」
二人は心配そうな顔をしている。それもそうか。娘が記憶喪失になり、口調までがらりと変わってしまったのだから。
口調は徐々に切り替えていくことにして、食事を終えた私は席を立つ。
「ごちそうさまでした。じゃあ部屋に戻りますね」
自分の部屋の位置は覚えた。セオドアが丁寧に教えてくれたからだ。こんなに優しい人だとは思わなかった。ゲームではシェリルの命を受けてヒロインに嫌がらせしていたけれど、この彼からはそういったことに手を汚しているとは信じられない。
「お嬢様、案内致します」
「大丈夫です。場所は覚えましたから」
さて、部屋に戻ったら作戦会議だ。どうにかして婚約破棄を回避させねば。
……だが、現実は無情だった。翌日、学園に登校したところ、昼休みに第一王子に庭に呼び出されてしまった。
「シェリル! 君がそんな女性だとは思わなかったよ!」
きてしまった。婚約破棄イベントだ。
「ベティに散々嫌がらせをしたそうじゃないか! 見損なったよ!」
「存じ上げませんわ」
「は?」
「わたくし、記憶喪失なものですから」
第一王子は何を言っているんだという顔をしている。その隣にはヒロインらしきベティという女性がおり、泣き真似を見せている。
ああ、嘘泣きだ、あれ。
「う、嘘をつくな! 言い逃れをする気なんだろう! 僕には通用しないぞ!」
いえ、事実です。けれど、面倒なので黙したままの私。
こうなったら腹をくくろう。起こってしまったものはしょうがない。
「ともかく、僕とは君との婚約を破棄する!」
「分かりましたわ」
すんなりと呑むとは思っていなかったのだろう。第一王子は麗しい青の瞳を見開いている。
私は優雅に笑ってみせた。
「わたくし、記憶喪失なものですからあなたに思い入れなどありませんの。泣いてすがり付く様をお見せできなくて残念ですわ。ではご機嫌よう」
私は颯爽と庭を去ったのだった。
翌日、家にお達しがきた。学園を退学にする旨と北の地に追放するとの命が。
母は泣き、宰相である父はカンカンだった。あ、もちろん第一王子にね。
「セオドア、ついてきてくれますか?」
「もちろんです。お嬢様の行くところでしたらどこへでも」
柔らかい笑みを浮かべるセオドアに私はほっとする。だってさすがに一人では心細いもの。
私もセオドアも支度を整え、一週間後には北の地に出発することになった。
北の地での生活は貧しいものの、穏やかな日々だった。面倒な貴族社会のしがらみから解放され、これでよかったのかもと思う。
そうして北の地での生活に慣れたある日、なんと第一王子が訪問しにきた。
「すまなかった、シェリル!」
「え?」
いきなり頭を下げられ、私はぽかんである。
「君を信じてあげられなかった僕を許してほしい! だからどうか、もう一度僕と婚約をーー」
どうやら、あの女狐の本性が暴かれたらしい。でも私にはもう関係ないことだ。
「無理ですわ。だってーーわたくし、セオドアと結婚しましたもの」
第一王子は唖然としていた。驚きもするだろう。執事と結婚したとあっては。
「ですから、あなたはもうお呼びじゃありませんの。他を当たって下さいな」
第一王子は打ちひしがれて帰っていった。ふふ、ざまあみろ。
貴族社会のしがらみから解放され、大好きな旦那様と暮らせて私は幸せです。