旧き良き日常
ごく平凡な日常を送る、一高校生の天屋良星。今日の出来事も、少し甘酸っぱい、ただの思い出になるはずであったのに……。
「終わった終わった。ああ、自由っていいなあ」
「やれやれ、やっと陸上ができるわ。今日こそ自己新を更新してやる」
「なあ、帰りにトレカショップに寄ってかないか。こないだ話したカードが、今日発売なんだよ」
解放感にあふれたクラスメイトの声が重なって、放課後の教室がわんわんと鳴る。
黙々と帰り支度をする、俺の隣席に、
「おい、良星」
長身の茶髪男子が勝手に腰かけた。
「どうした、有人?」
こいつは小学校からの付き合いの藤原有人。
「実はすごい噂を仕入れたんだけど」
興奮気味に語る有人を見て、
(はあ……)
俺は、内心、ため息をついた。
藤原有人には、本人の興奮度合いと情報の信頼性が反比例する、という厄介な法則あるからだ。
「聞いてびっくり!」
俺は、教科書をしまう手を止めずに、それを聞く。
「なんと、あの九谷さんが、お前のことを好きだというんだよ」
「……はあ」
噛み殺しきれなかったため息が、口からこぼれる。
「あら? 予想外のリアクション。もしかして俺のネタを信じてない?」
「当たり前だろう!」
図らずも大声が出た。
「いいか! 九谷さんだぞ! あの九谷貴咲!」
『あの』が指示する内容は、以下のとおりである。
その端麗な容姿が、入学式で早くも、上級生の間でも話題に上る。
文武両道を地で行き、学業もスポーツも学年トップクラス。
今日時点での告白者数は計七人。内訳は、同級生四人、先輩二人、教師一人。
「その九谷さんが、どうして俺なんかを好きになるんだよ」
「まあ、確かにな。お前は、勉強は平均のちょい下。運動させても平均のちょい下。おまけに顔かたちまで平均ちょい下。おかげで、浮いた話は中学校の頃から一つもなし」
「大きなお世話だ!」
「ところがだよ。奇跡の大逆転。そんな天屋良星に、あの九谷貴咲が惚れたというんだ」
「あのなあ……」
強い脱力感に包まれる。
「そういう与太話は暇な奴にしてやってくれ。俺が忙しいのは知ってるだろ」
そう言って鞄を担ぎ、急いで帰路に着こうとする。
「その噂、僕も聞いたことがある」
「え?」
突然、会話に参加してきたのは、俺の真後ろの席の男子だった。
机を枕にして惰眠をむさぼっていた、小柄のメガネ男子が、ゆっくりと顔を起こす。
「ふわあ」
眠そうに一つ欠伸をした。
「悪いな。起こしてしまったか、志童」
倉木志童。こいつとも小学校からの腐れ縁だ。
「別にいいよ。朝から寝たっきりで、そろそろ起きようと思っていたころだから。むにゃ」
もうとっくに放課後だが……。
「それより、志童。良星の噂をお前も聞いたって?」
「ああ、寝ている俺の横で、女子がその話できゃあきゃあ盛り上がってた。ふああ。おかげで昼休みはあまり眠れなかったな」
志童が耳にしたのは、こういう話であるらしかった。
クラスの一部女子が、夏の定番イベントである肝試しを計画する。
そして、男子の参加者を広く募るため、人気者の九谷さんに参加をお願いしたらしい。
「客寄せパンダってわけか」
「だろうね。当然、九谷さんはそれを断った」
「それはそうだ」
九谷さんのプライドがそんな役回りをよしとはするまい。
「そこで困った女子たちがこう提案したらしいんだ。『九谷さんの、一緒にペアになりたい男子を言ってくれれば、その人を参加させるって』って」
「なるほど。そこで良星の名前が出てきたわけな」
「そうらしいよ」
「どうだ、良星。俺の話はデマじゃあなかっただろう」
「い、いや。だからといって……」
確かに、ストーリーの裏付けのある、この話の信憑性は高いのかもしれない。
――だが。
(本当に俺なんかを? あの九谷さんが?)
自らに対する評価の低さ。そして、
「ん? どうした? 俺をじっと見て」
この藤原有人という悪友に対する根本的不信。
以上の二つが化学反応を起こすと、
「お前ら、俺をひっかけようとしてるな!」
という結論がはじき出された。
「ちょ、ちょっと待て、良星。今回はそんなつもりは」
「今回ってなんだ。じゃあ前回はそんなつもりだったのか」
「い、いやその」
「落ち着けって、良星。僕が有人の片棒を担ぐわけないだろう。むにゃ」
志童の発言はもっともらしいが、決定的な証拠にならないのも本当である。
「とにかく、俺は状況証拠を持って有人を信じることはできない」
「良星は疑り深いなあ」
「というか君の信用が足りなすぎるんだ。……ウトウト」
この時、教室中央から、俺たちに近づく人影があった。
「相変わらず騒がしいわね、三人とも」
「ん? なんだ宮嶋。珍しいな」
有人の言うとおりである。
クラスの中心人物の一人であり、人気者グループに属する宮嶋圭が、冴えない俺たちに話しかけてくるのは、ちょっとした事件といえる。
「実はね、三人にというか、天屋君にお願いがあるのよ」
「お、俺?」
俺の戸惑う顔面に、その場の全員の視線が集まる。
「実はね、私たちのグループが主導して、今度肝試しをやろうっていう話が持ち上がったのよ。それで、九た……、ある女子がさ、天屋君が出てくれたら自分も参加するって言ってるの。ねえ、私たちを助けると思って、ぜひ肝試しに参加してくれないかしら」
――このようにして、科学的証拠は向こうからやってきたのだった。
「ほら見ろ、良星。俺は嘘つきじゃあなかっただろう」
有人は鬼の首を取ったようにはしゃぐ。
「やれやれ。あらぬ疑いが晴れてよかった。……ぐうぐう」
志童は机に顔をうずめると、また寝息を立てはじめる。
「お願いよ、天屋君」
俺はといえば、望外の現実に頭がついていかず、
「う、うん」
宮嶋さんに求められるまま、頷くだけの装置と化していた。
〇
学校帰り。
母親のいない父子家庭である我が家では、家事全般を俺が担当している。
行きつけのスーパーで、栄養バランスと父の好みを両立させる、献立を思い浮かべ、それに必要な食材をカゴに放り込む。
「九谷さんが俺を好き」
小声でつぶやく。
先ほどの出来事が現実味を帯びだしたのは、スーパー、ドラッグストア、全国チェーンの衣料品店とハシゴし、昭和の流行を色濃く残す自宅を視界に収め、ようやくであった。
「いやっほう!」
周囲に人目がないことを確認してから、大声で叫んだ。
九谷さん。
あの九谷貴咲。
学校の大アイドル。
彼女に好意を抱かれるなんて、俺如き小ミジンコには、三回生まれ変わったって起こりえないイベントのはずだった。
高揚した気分でスキップをする脚には、ひび割れたアスファルトさえ、雲上の踏み心地である。
人生十六年で味わったこともない多幸感。
それは俺に大切なことを忘れさせていた。
ほぼ全世界の人が知る、『浮かれすぎると後で手痛いしっぺ返しをくらう』という経験則。
そして、やはりというべきか、案の定。
転落の日は、俺にも用意されていた。
その日は、件の肝試し当日。
最高の幸福を帳消しにするような、最大の悪夢が、俺を手ぐすね引いて待ち構えていた。