少年
僕は母親が嫌いだ。
「ただいま~」
ドアを開けるなり酒とタバコで焼けたガラガラの声を狭い部屋に響かせ、酒の匂いを撒き散らしながら帰ってくる母親が嫌いだ。
「なによあんた。いるんならお帰りくらい言いなさいよ。誰のために必死で金稼いでると思ってんのよ」
知らない男に媚を売って金を稼いでくる事を得意げに話す母親が嫌いだ。
「勉強してんの?まじめねぇ。でも頭がいいから偉いだなんて思うんじゃないわよ。世の中金を持ってる奴が偉いの。私みたいな馬鹿でも、色気使えば金持ちから金を貰えるのよ。だからあんたより私が偉いの。勉強なんて意味ないからさっさと働いて私を楽にさせなさいよ」
いつも母の言っている事は意味がわからなかった。ただ世の中はくだらねえんだなってのだけはなんとなくわかる。
僕が勉強をしているのは、最初はただ母に褒められたかっただけなのだから。
「よっこいしょ」
僕に言いたい事を言うなり母はいつものように座ってテレビをつける。
「相変わらずこの時間はニュースしかしてないわねえ。毎日毎日同じ事ばっか言ってるし、仕事の話の種にもなりゃしないわ」
母が愚痴っていると、テレビは次のニュースに切り替わり、一家心中の事件の報道をする。
「あら、これこの前の放送事故の時のババアじゃん。うける。あの後炎上して相当追い詰められたみたいだけど、心中するとか。うける」
母は心底うれしそうに一人でゲラゲラと汚く笑う。誰だっけな、双子の息子を有名私立高校に入れて、教育ママ代表みたいな感じでテレビに出てたおばさんだっけ。確か息子がいじめをしてる事を生放送で暴露されて、その後ネットやらメディアに叩かれまくってたな。あの時は大して深く考えなかったが、なんとなく爽快だった事だけははっきりと覚えている。夫と息子も巻き込んで、家に火をつけて心中したらしい。悲惨だけどいい気味だと思ってしまう。
「私ずっとあのババア気に食わなかったのよね。あの放送で追い詰めてた男はよくわかんないけど、あれは爽快だったわ。いやー心中とかうけるわ」
母は相変わらずうれしそうにゲラゲラ笑う。本当に心の底から腐っているなと思う。でもこんな母親が本当に嫌いなのに、結局僕と母親はよく似ているんだろうな。みんな腐ってるんだ。社会も母親も、僕も。
もう母に話しかけられるのも面倒だと思った僕は、黙って布団の中に入って、うれしそうに笑う母の後姿を見ながら眠りについた。
何やらあわただしい音が聞こえて目を覚ますと、昨日寝る前に見たままの母の後姿が見えた。どうやらテレビを見ながらあのまま机に伏して寝てしまったらしい。
母の背中越しにテレビを見ると、激しいカメラの光と音でよくわからないが、総理大臣を記者達が囲んでインタービューをしているようだ。テロップには“異例の憲法改正!?総理の真意は”と出ている。
『え~とですね、これからの未来を生きるのは若者なんですから、やはり若者の意思を反映するべきだと思うんですよ』
総理大臣の工藤が話し始める。
『今は少子化で若者の方が少ないんですから、若者と高齢の方の一票が同じだとバランスが取れないでしょう?それでですね、やはり若者の意思を反映するには、若者の票の価値を上げるべきだと私達は判断しました』
『それではもう死ぬだけの年寄りは政治に参加するなと言うことですか?総理、それはあまりにも横暴では』
記者の一人が噛み付く。
『そんな事は言っていないでしょう。ただ現実問題として、これからの未来を生きるのは若者なんです。それなのにも関わらず、少数の若者の意思が多数の高齢の方の意思によって潰されてしまうのはあまりにもバランスが取れていないと。私達はそう考えています』
『若い人達の意思が正しいとは限らないのではないんじゃないですか?お年寄りの方が長く生きている分、正しい判断を下せるとは思わないんですか』
他の記者が群集をかきわけ、マイクを無理やり総理につきつけて聞く。
『正しさと言うものは今生きている私達にはわかりません。それは何十年か後に歴史が判断する事でしょう。ただ私は、若者の意思が全く反映されなかった未来を、若者が生きる事になると言う現実が問題であると考えています。ですから、若者は自分達の意思で決めた未来を、自分達で責任を持って生きられるよう、そう言う社会を作るべきだと私は考えているのです』
『正しいかどうかは歴史が判断って、それは総理、あまりに無責任すぎはしませんか?若者が責任を持つ前に総理が責任を持つべきでしょう』
そうだそうだと他の記者も野次を飛ばす。犬と一緒だ。飼い主の一部の言葉だけ聞いて反応する。後は自分の欲望だけを他人にぶちまける。
くだらねえ人間ばっかだ。どうせ何も変わらない。こんな騒ぎを見ても自分の生活に何か変化が起きるビジョンなんて微塵も感じられない。
また一から説明しようとする総理を写すテレビを切り、僕はまた布団に入って眠る。
翌日、学校の教室は今朝のニュースの話で盛り上がっていた。
「要するにこれが上手くいったら老害の意見が通らなくなって俺達の時代が来るって事でしょ?」
誰かが言った。僕のクラスメイト達はとてもじゃないが知能が高いとは言えない。彼らの言う老害の方が恐らくよっぽどマシな考えを持っている。ただなんとなく大人が気に食わないのはわかる。大人のしいたレールはいつも冷たくて、少し進んでみると実は途中で途切れている。途切れたところで立ち止まる若者を見て大人はこう言う。『近頃の若いもんは』
誰とも話す事もなく、ぼーっとそんな事を考えていると始業のチャイムと共に担任の山下が教室に入ってくる。
「お、山ちゃんおっは」
生徒の一人が山下に話しかける。
「はいはいおはよ。おーっしみんな、ホームルームするから席つけよ~」
ざわざわと騒ぎながらもみんなは山下の言うとおりに席につく。山下はその様子を見てニコニコ笑う。生徒の話を親身になって聞き、嫌な事も言わないし、いざと言う時はきっちり指導する。よくいる典型的な人気のある先生だ。だが僕はそんな山下の笑顔の下に何か言いようもない深い闇をいつも感じていた。
そんな事を考えながらぼーっと山下を眺めていると、山下と目が合いぎょっとする。相変わらずニコニコと笑っているのに対して、僕を見る目はあまりにも無機質でまるで何もかもを見透かしているかのようだったからだ。
見透かされて困ると言った後ろめたい事があるわけではないが、僕は慌てて目を伏せてしまう。