「くそうず」の空に
うーん、やっぱり温泉はいいな!
つぶらやはどうだ、少しはリフレッシュできたか?
いつも仕事だ、小説だなんてわめいているから、ちと心配よ。
意欲を燃やすのは大いに結構。だが、はしゃぎすぎて、迷惑かけたり、オーバーペースで体を壊さんようにな。
なに、どちらでも、すでに注意されたことがある? 相変わらずの暴走機関車だな、お前は。
そんな奴には頭を冷やす水風呂……と俺がすすめると思っていたのか。
サウナいくぞ、サウナ。お前の熱って奴が、どれほどのものか拝見させてもらおうじゃねえか。
金具の部分は避けたな? よし、我慢比べといく。先に根をあげた方が負けだ。負けたらあとでコーヒー牛乳をおごる。それでいいな?
え、今日はありがとう? おいおい、勝負の前に礼を言い出す奴がいるか。相変わらず、ズレとる奴だな、お前は。どういたしまして。
黙っているのもなんだ。俺からも一つ、話を提供しようかね。
人類の歴史を見てみると、公衆浴場っていうのは、本当に昔から存在している。
日本もその例外じゃない。日本は聖徳太子の時代、仏教が浸透した頃に、身を清める沐浴の大切さが説かれたことが、風呂が流行する一端となったらしい。
鎌倉時代の「風呂ふるまい」を経て、江戸時代の初めには、町ごとに風呂がある、なんて言われるくらい、銭湯が建ちまくった。
あまりに流行りすぎて、混浴ということもあり、いやーんや、うほっな出来事もあったらしいが、それはそれ。
その後も銭湯は改良を続けて、今のように湯と水が出る蛇口が取り付けられたのは、昭和の初めの話。
大震災を経て、作り直される建物が増え、銭湯も新しいスタイルを求められるようになったんだ。
とある片田舎。これまで銭湯で使っている燃料は、薪や石炭が主流だった。
ドラム缶風呂に入ったことはあるか? あれはあれでなかなか入り心地がいい。薪の醍醐味と言えるかも知れん。
それで銭湯も長年、薪に頼ってきた。ほとんどの銭湯に煙突が残っているのも、その頃の名残ってわけだ。かなりの高さがあるからな。文字通りの広告塔として、客寄せにも一役買っていたって話だ。
で、その田舎では銭湯はどこもかしこも似たようなもの。何か特徴がいるんじゃないかと、とある銭湯の持ち主は考えたのさ。
薪で沸かすとなると、定期的に重労働を従業員に課さなきゃいけない。人件費もかさむ。コストカットとしても策が必要だったのさ。
そして目をつけたのは「くそうず」だ。
え、九相図? バカ野郎! なんで銭湯に入って、死体がどうなっていくかの絵を見なきゃいけないんだ。子供も入るんだぞ。
そんなものをタイル絵に描いてみろ。男も女も裸で逃げ出すわ!
「臭水」。つまり石油だよ。石油使って、湯を沸かそうとしたんだ。とはいえ、軍での需要があるから、そうそう大量に買うことは難しい。
そこで、銭湯の主はダチの工場主にな、そこの廃油を使わせてもらえるように、取引したんだと。
いきなり全面的な移行は無理だから、徐々に薪から石油を使うようになった。人件費は浮いたんだが、新しい問題が生まれた。
臭いだ。石油ストーブを使ったことはあるか? あの石油の臭い、なかなかイカすだろ。色々な意味でな。それが銭湯一杯に広がるわけだから、さあ大変だ。
せっかくきれいになりにきたのに、石油の臭いが身体に染み込んじまうらしいぜ。工場仕事に慣れた連中はよくても、いかにも「品行方正」って奴には受けが悪かった。
かつては薪から出る煙を逃がしていた煙突が、今度は臭いを逃がす煙突に早変わりしちまったんだ。それでも完璧に臭いを消すのは、無理だったようだがね。
客足については、臭いを気にしない連中のおかげで、経営ができる程度には安定していた。
住んでいる人の間では、臭水へのバッシングが絶えなかったらしいが。
しかし、しばらくすると、そんなことをしている場合じゃなくなった。
真珠湾攻撃から、太平洋戦争が始まったんだ。
銭湯ももろに煽りを食らった。
人は取られる。金具も取られる。あげくに時間を奪われて、警報のたびにガタガタさ。
それでも、田舎だったことが最終的には幸いしたんだろうな。多少の空襲はあったものの、終戦までその地域の銭湯は無事に生き残ることができたんだってよ。
田舎とはいえ、鉄道の一本は通っていた。戦地に赴いていた人々が、狭い列車の中でぎゅうぎゅう詰めになって戻ってきたんだ。
銭湯も、これから気兼ねなく営業できるということで、戦い疲れた人たちを癒すためにバカスカと薪を火にくべ出したわけだ。
だが、人手がいなかったせいで掃除ができず、筒の中に煤が詰まっていたんだろう。いつも以上にどす黒い煙がもうもうと出ちまってな。汽車に乗っていた人たちは、煙に咳き込んだり、涙を流したりと大騒ぎだったんだってよ。
やがて、噴煙地帯を越え、駅が近づいてくる。涙が止まった彼らの目に、唯一、煙を吐き出さない煙突に設置された垂れ幕のメッセージが飛び込んできた。
「おかえりなさい」。
ほどなく先ほどとは違う涙が、彼らの瞳に溜まっていったんだ。
ああ、本当に生きて帰ってきたんだ、と彼らはようやく実感した。
「臭水」を使う、あの銭湯が用意した垂れ幕。
それは戦地に赴いた人が帰還するまで、ずっと風にはためいていたらしい。
臭水の、臭い漂う、空の下で。