ある愛の物語
四月の末、まだ寒さが残るころである。学校のグラウンドを黙々と走る少女の姿があった。他の生徒はまだ登校していない。
白いトレーニングウェアをまとった体躯はかなりの長身だ。額からは汗の粒が落ち、一歩走るごとにショートの黒髪が揺れた。すでに五キロ以上走り、それもかなりのハイペースだった。
ランニングを終えた少女は深い息を吐き、水飲み場に置いてあった、ペットボトルのスポーツドリンクを飲み干し、ようやく笑みがこぼれた。大柄な体格に似合わず、あどけなさの残る顔立ちである。
大原和美は都立K高校の三年生だった。
女子バスケットボール部のキャプテンで、将来を期待されるスター選手だ。
昨年は試験的とはいえ全日本のメンバーに選ばれ、日の丸のユニフォームに身を包んだ。中学から全国レベルの選手で、多くの有名私立高校から誘いがあったが、地元のこの学校を選んだ。一年からレギュラーとして活躍、二年時にはエースとして大車輪の活躍を見せ、インターハイに出場。惜しくも優勝は逃したが、ベスト四に残り、優秀選手賞を獲得。
一八五センチ、七八キロの体格を生かしたプレーは迫力があり、本来はゴール下を守るセンターを務めるが、フォワードをこなせるほどの高いシュート力を持ち、パス、ドリブルの技術も高い。特に相手のシュートをあっさりと叩き落とすブロックショットには定評があり、ゲームの流れを変えてしまう。
容貌も現代少女らしく整っている。肌の色が白く、きめが細かい。ぱっちりとした二重瞼に長い睫、あごのラインもすっきりとしている。和美が表紙を飾ったバスケ雑誌は売り上げがかなり伸びたらしい。大会では彼女見たさに多くの男性ファンが集まり、いろいろな意味で魅力的な女性だった。
ある日、教室で参考書を眺めていた和美にバスケ部顧問の杉下が声をかけた。
「大原、わかっていると思うが、ゴールデンウィーク中は工事で体育館が使えない。ゆっくり休んでおけ。インターハイ優勝は通過点にすぎん。お前は将来の日本女子代表の看板を背負って立つ器なんだからな。大会に入ったら取材やら何やらでてんてこ舞いだ。休めるうちに休んでおけよ」
「ありがとうございます、先生」
和美は助言に従って早めに帰宅することにした。クラスメートの親しい女子に挨拶すると、バッグを抱えて靴を履きかえる。校門に差し掛かった時、見知った顔があった。
「よう、お疲れ。今日は珍しく早いんだな」
「正人君……」
和美の頬が染まり、心臓の鼓動が高鳴った。学ランを着た少年が和美の姿を認めると、片手をあげて口元をほころばせた。
「正人君こそお疲れ様。空手部はもういいの?」
「ああ、俺たち三年はもう引退だからな。受験の準備でやめちまった奴もいるし、寂しいもんさ」
「ふうん……」
自然と、和美と正人は肩を並べて一緒に帰宅する形になった。
工藤正人は和美の幼馴染である。小学生のころからの付き合いで、お互いの手の内を知り尽くした仲だ。実家が空手の道場を営んでいることもあって、地元では知らぬ者のない猛者である。
バスケではすでに世界を視野に入れている和美も、この少年には頭が上がらない。幼いころ、気の弱かった和美がいじめられそうになった時、体を張って救ってくれたのが正人だった。勉強が苦手な和美に手ほどきをしてくれたのも。口にこそ出さないが、和美は今の自分があるのはすべて正人のおかげだと思っている。しかし、本人は恩着せがましい態度をとることはなく、あくまで友人として距離を取っていた。
しばし無言で歩いてゆくと、緑道公園に差し掛かった。さくらは散ってしまったが、季節の移ろいを感じさせるこの通りが、二人とも好きだった。正人は何も言わない。和美は何か言おうとするが、上手い言葉が出ない。気まずい沈黙が流れる中、ふいに正人が和美の顔を見てボソッとつぶやいた。
「なあ、お前、またでかくなったんじゃねえか?」
「え?そうかな。もうこれ以上伸びないと思うよ。あんまり大きくなっても早く動けないと意味がないし」
「馬鹿、俺が言っているのは身長じゃないよ」
「え?」
和美が戸惑っていると、正人は勿体つけるように少女をからかった。
「胸だよ、胸。バストサイズ」
白い歯が並んだ口を開き、和美はますます頬を紅潮させた。硬派だと信じていた正人の口からこのようなセリフが出てくるとは、まさに青天のへきれき。和美はパニック状態に陥ったが、さすがに怒気を示した。
「正人君、セクハラだよ!いくら親友だからって、言っていいことと悪いことがあるよ!わたしだって女の子なんだからね!」
「悪い、悪い。ちょっとからかってみたかったんだ。スポーツをやっている女も大変だよな。しっかし、そんなに怒ることはないだろうに」
「もう……」
和美は頬を赤らめたままぷいっと横を向いた。正人は苦笑している。なにしろ、顔立ちがいいといっても一八〇センチを超える女性に軽口を叩ける男はそういないだろう。正人も一七四センチと小さくはないが、和美の横に立つと随分と小柄に見える。
「いや、本当に悪かった。親しき中にも礼儀ありだよな。お詫びと言っちゃなんだが、今度一緒に映画でも見に行かないか?」
「え?」
和美はポカンと口を開けた。正人の口調があっけらかんとしているので気が付くまで時間がかかったが、これは立派なデートの誘いである。一気に胸の鼓動が高まった。心を読まれまいと、再び前を向く。
「なんだよ、嫌なのか?もうこの映画、終わっちまうんだよ。俺と行くのが嫌なら他の奴と行けばいいじゃないか。チケットは二枚あるんだから」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
舌がうまく回らない。淡い恋心を抱いていた正人と二人きりで映画。夢にまで見たシチュエーションだが、和美はこの年齢まで実はまともなデートの経験はない。なにしろ中学以来バスケ漬けの毎日で、街を歩いても男によけられる体格。さらに、正人以外の男子と会話すらままならないほどうぶなのだ。
「どうする?別に無理強いはしないけど?」
「う、うん。少し考えさせて」
そうごまかすのが精いっぱいだった。正人は和美がうろたえているのに内心やれやれと思っていたが、少女をおもんぱかって何も言わなかった。
「和美先輩、昨日見ましたよ?一緒に下校してたの、空手部の人でしょう?」
部室で声のトーンを落としつつ、核心をついてきたのは二年生の木下千秋。身長はさほど高くないが、外から放たれるシュートは確実にネットを揺らし、隙のないディフェンスでレギュラーを確保している。
「千秋、見てたの?お願い、このことは誰にも言わないで!」
和美が顔の前で手を合わせる。すでにほかの部員は帰宅したが、まさか後輩に正人とのツーショットを見られていたとは、不覚というしかない。
「大丈夫、あたし、こう見えても口は堅いですから。で、あの人、もしかして彼氏さんですか?」
「わ、わたしに彼氏がいるわけないじゃない……」
手短に、和美は正人との関係と映画に誘われたことを千秋に話した。いちいちうなずいた後、千秋は顎に手を当てて、思案にふけった。
「何の問題もないと思いますけど?先輩はその人……正人さんを好きで、相手も同じですよね?」
「別に好きってわけじゃ……」
「じゃあ、なんでそんなに顔が赤くなってるんです?」
千秋に指摘されて、和美は二の句が継げない。昔から嘘のつけない性格であることは、本人も自覚していることだ。
「それに、先輩たち三年生は今年で卒業ですよ?これから夏になるんだし、思い出づくりには最高の舞台だと思います。話を聞いた限り、正人さんは男らしくても自分からバシッというのは苦手なタイプだから、いっそ先輩から告白したらどうですか?」
和美は唖然とした。自分がなにも覚悟を決めていないのに、千秋はどんどん話を進めていく。あることに引っかかって、和美は後輩に聞いた。
「千秋自身はどうなの?これだけわたしにアドバイスをくれるところを見ると、恋愛経験は豊富なんでしょ?」
「あたしですか?中学時代に一人付き合っただけです。三年の時に誘われて処女は捨てましたけど」
重大事項をあっさり言ってのける千秋に、和美は目が点になった。中学で性体験?あまりのショックに、しばし和美は呆けてしまった。
「大丈夫ですか?あ、もしかして先輩、キスの経験もないとか!」
再び和美は沈黙する。千秋は失笑するのをこらえるのに必死だった。コートでは大声を出して縦横無尽に暴れまわるキャプテンが、ここまで純粋だったとは。しかし、この先輩を放っておいたら、先々本人が苦労するのは目に見えている。髪の毛をいじりながら、千秋はうーんとうなった。
「とりあえず、映画には行ってみましょうよ?その時の対応次第で、告白してもいいし、相手がしてくれるかもしれない。ただ、焦りは禁物ですよ?恋愛はいくら経験があっても言葉の選び方一つで関係が壊れてしまうんですから。バスケみたいに、取られたら取り返せばいい、なんていう考えはだめです。はっきりしているのは、正人さんがデートに誘っている段階で脈があるということ。映画に行くときにどんな服を着ればいいか、最低限のレクチャーはあたしに任せてください。先輩は顔もきれいなんだし、自信持っていきましょうよ!」
(自信か……)
千秋に言われて、和美はうつむいた。バスケでは怖いものなしでも、正人といると言葉が出ないのは、確かに自信がないからだ。向こうより体が大きい、自分の取柄はバスケだけ。そんなことは言い訳にすぎず、ありのままの自分を出せばいい。さすがに千秋ほど積極的にはなれないが、後輩の言葉に和美は救われる思いだった。
正人から誘われた二日後、和美は向こうの教室に向かって映画の件はオーケーだと伝えた。いささか面食らった様子だったが、正人は笑ってうなずいた。
「わかった。なるべくお前に合わせたいけど、俺もいろいろあってな。今週の日曜でいいか?」
「うん。じゃあ、楽しみにしてるからね」
手を振って去っていく和美は、一緒に下校した時より明らかに上機嫌だった。
率直に言うとあまりに無礼な発言と後悔していただけに、正人の心も幾分軽くなった。
当日、早めに正人は自宅を出た。映画館は最寄り駅の近くで、様々な娯楽施設を備えたビルの五階にある。時計を見ると、約束の十時より一五分ほど早く着いたが、和美はすでにエレベーター付近で待っていた。
「ずいぶん早いな。まだ上映まで間があるぞ」
「ま、まあ、せっかく正人君が誘ってくれたんだし……遅刻するよりはいいでしょ?」
正人は一歩引いて和美の姿を眺めた。白いカットソーの上にピンクのカーディガンを羽織り、桜色のスカートも様になっている。さすがにかかとの高い靴は履いていないが、すらりと均整の取れた長身を際立たせる、十分にセンスのいいコーディネイトだ。正人があたりを見渡すと、男どもが一斉に和美に注目している。バスケのユニフォーム姿から想像もつかない、十分に異性を魅了するプライベートの和美。正人はらしくもなく、心臓の鼓動を感じていた。
「どう?適当にファッション雑誌を見て決めたつもりなんだけど……似合ってる?」
「ああ、俺のためにめかし込んでくれたんだろ?嬉しいよ。そろそろ行こうぜ」
俺のために……和美の胸がキュンとなった。さりげなく、正人は和美の手を取った。それだけで、心臓が爆発しそうになる。幼馴染でも、どこか遠い存在。その正人が、まるで恋人同士のように自分の手を取ってくれている。
映画館の中に入ると、和美の胸はますます苦しくなった。薄暗い中で正人と隣り合わせなのだ。本人は飲み物を買ってくるといって席を立ったが、和美はそわそわして落ち着かない。
「お待たせ。お前、炭酸は苦手だったよな?オレンジジュース買ってきたぜ」
「あ、ありがとう。ごちそうになっていいの?」
「はは、こんな程度でごちそうもないだろ。俺が誘ったんだし、遠慮なく飲んでくれ」
おずおずと、和美はストローを口に含んだ。一口飲んだジュースは、何とも甘美な味がする。正人が自分のために買ってくれた、それだけで切ない気分になるのは、相手に恋しているせいだろうか。
(自信持っていきましょうよ)
千秋の言葉が頭によみがえる。後輩の助言を無駄にしないためにも、和美は必ずこのデートを成功させる決意をした。
映画はハリウッドの恋愛もので、とくに有名な俳優が出ているわけではない。それでも、若い男女が思いをぶつけあうシーンはバックの音楽がマッチしていることもあって、和美も感情移入した。
その時、和美の右手に正人の左手が重なった。思わずジュースを吹き出しそうになったが、和美が正人の顔を見つめると、真剣にスクリーンを凝視している。同時に、正人の指が和美のそれに絡んできた。和美はどう対応していいかわからない。正人の手は暖かく、空手で鍛えているせいか少しごつごつした印象だった。
(これ、好きってことだよね……)
もう、和美は映画のセリフも耳に入らなかった。相手の気持ちにこたえるように、しっかりと絡めた指に少し力を込めた。
「ああ、なかなかいい映画だったな」
劇場を後にした正人は、何事もなかったようにクールな口調で言った。和美は答えない。内容などほとんど覚えていないくらい、正人のアプローチが胸に突き刺さっている。ちょうどお昼時なので近くのレストランで食事を済ませ、ぶらぶらと散歩した。
気が付けば、デパートの屋上にいた。子供用の遊び道具が置いてあるが、人気はなく、二人きりだ。正人は転落を防止する柵に腕を置き、あごを乗せた。
「もうすぐインターハイだな。自信はあるんだろ?」
和美は口ごもる。もちろんバスケは大事だが、今の彼女は正人のことしか考えられない。それでも、正人を気遣って笑顔を作った。
「うん、高校最後の夏だからね。他のメンバーも気合が入っているし、手ごたえはあるよ」
「そうか。それで、卒業したら名門大学に行くんだろ?お前ほどの選手を放っておくはずないからな。まあ、たくさんオファーがあると思うが、悔いのないようやってくれ」
「正人君」
切り込むような口調で、和美は幼馴染に迫った。正人は柵から体を離し、正面から和美に向き直った。
「どうしてバスケの話をするの?さっき、映画を見ていた時はわたしの手を握ってくれたじゃない?あれはなに?わたしをからかっているの?」
正人は唇を固く結んで何も言わない。また視線をそらし、ほとんど雲のない空を見上げた。
「俺はただ、お前と最後の思い出を作りたかっただけだ。楽しかったよ。ありがとうな」
「最後って何?」
和美は怒りと悲しみの混ざった表情で追及する。
「わたしがバスケを続けたって、いい大学に進学したって、それで終わりなの?
どうして勝手に決めつけるの?」
正人は苦笑した。だが、その顔はどこか寂しげで、憂いの残る目つきをしていた。
「お前は本当に強くなったよ。バスケに打ち込んでいるときももちろん、それ以外でもな。もう、俺がしてやれることはない」
そういった後、正人は和美に歩み寄り、自分より背の高い少女の髪をくしゃくしゃにかき回した。
「俺がこれ以上踏み込んだら、お前のバスケ人生が狂っちまう。だからさよならだ。生き方が違うんだよ、俺たちは」
「いや!そんなの納得できない!」
プライベートでめったに感情を爆発させることのない和美は、うっすらと涙ぐんでいた。
「せっかくここまで来たのに、お別れなんて……なんでそうなるの?わたしが一番大切に思っているのは、バスケもそうだけど、正人君だよ。ずっと好きだった。だから誘ってくれて本当にうれしかった。それなのに……」
和美の瞳から大粒の涙が流れた。長い間思い焦がれていた正人に痛烈な別れを告げられて、乙女心は乱れるばかりだ。正人はしばし沈黙したが、追い打ちをかけるように残酷なセリフを吐いた。
「隠していたわけじゃないけど、俺、長生きできないんだ」
「え?」
正人の言う意味が分からない。真っ赤に腫れた目を大きく開いて、和美は少年の顔をじっと見つめた。
「生まれつき、内臓が極端に弱いらしいんだよ。先月医者に言われた。思い残すことのないよう、やりたいことは済ませなさいと」
茫然と正人を見据える和美に対して、少年は目を伏せた。
「もう、学校に通えるのはわずかだろう。お前と最初で最後のデート、俺の夢でもあった。これ以上喋るとお前がつらくなるだろうから、ここで終わりにしよう。元気でな」
正人はいつもの通り、右手を上げて挨拶すると、和美のもとを離れていった。
口を軽く開き、和美は正人の言葉を頭の中で反芻した。
(正人君がもうすぐいなくなる……)
衝撃などという言葉では尽くせないダメージが、少女の胸に突き刺さった。
無人の屋上で、和美は泣くことすらできずにたたずむばかりだった。
和美は帰宅するとベッドに寝そべった。正人の言葉がリフレインする。長生きできないんだよ。余りにも重い告白。幼いことから世話になり、思い焦がれていた正人がそんな運命とは夢にも思わなかった。
夕飯の時間になっても和美はずっと正人のことを考え続けていた。娘が二階から降りてこないので母の小百合が心配そうに声をかけた。
「和美、体調が悪いの?ご飯を食べないと練習に響くわよ」
「う、うん……」
歯切れの悪い和美に、小百合は部屋に入ってきて正座した。
「何かあったのならきちんと相談しなさい。自分で抱え込んでも解決しないでしょ?」
促されて、和美は正人のことを告げた。話しているうちに再び悲しみが襲ってきて、泣き崩れていた。
「そう、正人くんが……」
自分より頭ひとつ大きい和美を抱きしめながら、小百合は娘の背中をさすって赤子のようにあやした。
「お母さん、どうしたらいい?わたし、正人くんに何もしてあげられない。小さい頃から何度も助けてくれたのに……」
和美は涙で頬を濡らしながら、母に救いを求めた。
「あなたが正人くんを本当に好きなら、最高の思い出を作ればいいじゃない」
「最高の思い出?」
意味が分からず、和美は小百合を見つめた。
「二人とも、まだ経験がないんでしょう?」
和美は唖然とした。貞淑な小百合からまさかこんな提案が出てくるとは。しかし、思えば最愛の人に処女を捧げることほど幸せはない。正人も受け入れてくれるだろう。残された時間は多くない。
「お母さん、ありがとう。近いうちに、正人くんに打ち明けてみるね」
小百合は無言で微笑むと、再び娘の背中をさすった。
ゴールデンウィークの半ば、和美は正人の自宅に電話した。正人は驚いた様子だったが、和美が重大な要件があるというとすぐに電話を切り、和美の家に向かった。
「お邪魔します」
玄関を開けて挨拶しても返事はない。正人は不審に思いつつも、靴を脱いで居間に上がった。
「和美、いないのか?」
またもや返事はない。首をひねりつつ、正人は数年ぶりに二階に上がり、和美の部屋の前に立った。
「おい、いるんだろ?開けるぞ」
正人がドアを開けると青いワンピースに身を包んだ和美がベッドに腰掛けていた。デートの時も女性らしい雰囲気を感じたが、今日の和美は一段と大人びている。和美は努めて笑顔を作った。
「ごめんね、正人くんなら来てくれると思ったんだ」
「いや、気にすることはないが……随分高そうな服だな」
「だって、今日はふたりの記念日だもん」
正人は困惑した。和美はゆっくりと立ち上がり、頬を真っ赤に染めて思いを打ち明けた。
「正人くん、あなたがいなくなるのは寂しい。お葬式は、きっと泣いちゃうと思う。だから、今日は最高の一日にしたいの。わたしのバージン、もらってくれる?」
口を大きく開いて正人は絶句した。妹のように思っていた少女が人生最大とも言える決断を下したのだ。深呼吸して、正人は声を落とした。
「お前……本当にいいのか?」
「もちろんだよ。正人くんこそ、わたしでいいの?」
「馬鹿……俺がお前を拒む訳無いだろうが……」
和美が長身をかがめて目を閉じたので、正人も両眼を塞いで唇を重ねた。震える手で和美を抱きしめる。少女の体は暖かく、女性らしいやわらかさを持っていた。
そのあとのことは二人ともはっきりと覚えていない。ただ、正人は最愛の少女に童貞を捧げ、和美はいつも自分を守ってくれた少年に処女を捧げた。
二人はしっかりと抱き合い、理由もわからず泣き続けた。
二週間後、正人の容態は急に悪化した。近くの総合病院に和美が見舞いに行くと、ベッドに寝そべり、体中に管をつけられた正人の姿があった。
「和美か。忙しいのに悪いな」
「ううん。随分痩せたね」
和美は強がっていたが、あまりの正人の衰弱ぶりに泣きたい気分だった。
だが、それを一番悲しむのは正人だろう。和美は椅子に座り、愛おしむように正人の腕を握った。
「和美、俺の頼みを聞いてくれるか?」
「うん、なんでも言って」
「俺が死んだら、しばらくは覚えてくれていい。しかし、いつまでも俺の影を引きずるな。お前はこれから何十年も生きていかなきゃならないんだ」
「わかった」
「もう一つ、お前の悲願であるオリンピックで金メダルを取ってくれ。これがどれだけ厳しいか、わかっているつもりだ。お前ならできる」
「うん、正人くんも辛いだろうけど、命が尽きるまで諦めないで」
「ああ、わかった。それから……」
正人は窓際に視線を移した。
「俺にとって、最初で最後の女がお前で本当に良かった。お世辞じゃない。最高の思い出を、俺にくれた。だからこそ、お前にはプライベートでも幸せになって欲しい。それだけだ」
「うん」
正人は振り向かなかった。和美が泣いているのを見たら自分も涙を流してしまう。二人はそれ以上、言葉を交わさなかったが言い知れぬ幸福感に満たされていた。
一ヶ月後、工藤正人の葬儀が行われた。正人と、家族の意向でささやかな葬式だった。遺影の中で、正人は屈託なく笑っていた。和美は焼香を済ませると、
手を合わせ、目を閉じて頭を下げた。
「和美ちゃん、今日はありがとう」
正人の母、理恵が自分より三十センチほど大きな亡き息子の友人に一礼した。
「正直に言うと、あなたを呼ぶか迷ったの。人目をはばからずに号泣するんじゃないかって」
「大丈夫ですよ。わたしが泣いたら正人くんが安心して成仏できないじゃないですか」
理恵は和美を見上げ、目の勁さにたじろいだ。
「正人くんと約束したように、必ずオリンピックで優勝します。それぐらいできないと、今まで正人くんに受けた恩義と釣り合いが取れないでしょう?」
「和美ちゃん、本当に強くなったわね」
理恵に別れを告げると、和美は迷いのない歩調で歩いて行った。
八年後、ベルリンで開催されたオリンピックで日本女子バスケ代表は決勝に駒を進めた。相手は最強のアメリカ。キャプテンでエース、センターの和美に厳しいマークが付く。
「和美さん、こっちが空いてる!」
高校時代からチームメイトの木下千秋が声を出す。和美はパスをさばいた。受け取った千秋はすぐにスリーポイントを打つ。これが決まり、同点に追いついた。
「よし、残り二分だ!きっちり止めて優勝するぞ!」
監督の西城も椅子から立ち上がって手を叩く。アメリカは全てにおいて日本を上回っていたが、ただひとつ、気持ちで押されていた。
ボールがセンターの一九二センチ、ジャクソンに渡った。シュートを打つが、あっさり和美がブロックする。
「よーし、速攻!相手は浮き足立ってるぞ!」
西城の言うとおり、司令塔の松井がコートを駆けてなんなくレイアップを決める。
「よくやった、松井!ディフェンス一本!集中しろ!」
アメリカも試合を捨てていない。じっくりパスを回し、フォワードのスミスがミドルシュートを放つが、リングにはじかれ、リバウンドは和美が制した。
(この一本を決めれば優勝は確実……!)
全員に重圧がのしかかる。千秋が和美の背中を叩いた。
「先輩、気負わないで。インサイドで勝負したいけど、無理ならパスをください」
千秋は高校時代から変わっていない。飄々として、きっちり仕事をこなす。
和美は頷くと、松井にボールを渡した。
試合終了まで一〇秒を切った。ゴール下の和美にパスが通る。アメリカは二人がかりでエースを封じに来た。
素早いモーションで和美はシュート体勢に入る。一九〇センチ台の二人が同時にブロックに飛んだ。だが、和美は斜め後ろにステップを踏み、男子でも難易度の高いフェイドアウェイジャンプショットを放った。
(入れ!)
ゆっくりと、ボールはネットに吸い込まれた。そしてブザーが鳴り、試合終了。日本は悲願の金メダルを獲得した。
バスケを引退した後、和美は仏門に入り、尼になった。
正人の菩提を弔うことで、和美の余生は終わった。
(完)