仕事と珈琲
喫茶店の錆びたドアベルが、また“からんころん”と鳴る。それは古く錆びていて、本来黄金に光っていたであろう箇所は、今では薄く濁っている。それと同時に、ボロボロの腐りかけた木の古めかしいドアは“ぎぃっ・・・”と音をたてて開いた。
ドアを開けた仏頂面の背の高い男が、私の隣へ座ると同時に、そのドアは壊れそうな勢いで“ばたん...”と余韻をもったまま外界との空間を断ち切った。それはまるで、彼女とのデートで見送り届けたあと、玄関のドアを閉めるまで手を振り続けた後に訪れる静寂と似て非なるものであった。それほどに、今、私は“外界”が恋しい。なぜなら、この隣に腰を掛け、煙草をふかし始めたこの男とは、何があっても遭遇したくなかった相手だからである。男は“すぅっ”と一呼吸で煙草を完全に根元まで吸いきると、その灰と残った指先の煙草を灰皿に押し付け殺すようにねじり消すと、こちらに顔だけ向けて口角をあげた。そして、今から“喋りますよ”と言わんばかりに息を深く吸い、その煙草臭い口を開けた。
「へっへ。まあ、ここにいると思ったよ。お前はここの珈琲が大好きだ。そうだろう?」
そういうと、男は回転椅子に手を掛け、中腰になってから私の方へ体を向けて、またどすんと座った。私はその質問に“YES”と答えんばかりに、目の前の年季の入った木製のカウンターの上に置いてあるマグカップを手にし、中に並々と入った熱い珈琲を口元へ近づけたが、湯気が頬に触れた時には、まだかなり熱かったため、口をつける寸前で一旦手を停止し、そのまま相手の質問に答えた。
「あぁ、確かに私はここの熱い珈琲が好きだ。その好きな理由を説明するまでもない。・・・だが、君はこんな分かりきっている質問をするためにここへ来たわけではないだろう。」
私は普段このような強気で物をいうたちではないが、この熱い珈琲をいま、このまま飲みたいという欲望の決意であった。私が手にもったそれを唇へつけ、もうすぐに口へ到達するというところで、男は下を向き“ふふ”と意味深な笑みをこぼしてから、また顔をこちらに向け、喋りだした。
「今日はヤケに強気じゃねーか。まあ、いい。お前に仕事の依頼だ。」
それと同時に、その珈琲が私の喉を通過し、普段ならここで“あぁ、なんて美味しいんだろう”と余韻に浸りつつ、バッグからお気に入りの文庫本を出し、読み始めるところだが、気分は最悪だった。私が考察するに、“仕事”という二文字は、母親が作った手料理や妻・彼女が作った手料理すらも最悪の味に変えてしまうほどの素晴らしいスパイスであると考える。なぜなら、私はここの珈琲がとても好きであるが、今の一口は、まるで泥水を飲むかのように苦く、また、マグマが喉を通るほど熱く、それはまさに“最悪”であった。私は、手に持っていたマグカップを一旦カウンターに置き、椅子に掛けていた灰色のコートを取りながら、大きくため息をつき、袖に腕を通した。そして、またそのマグカップを手に取り、心の中で“早急に冷めてくれ”と願いながら、残った珈琲を飲みほして、マグカップを力強く置いた。もちろんのこと、ものすごく熱かったので、おそらく火傷したであろう口内を舌でなめながら、床に置いていたバッグのサイドポケットから黒い長財布を取り出し、それの代金を机に置いた。
すべて飲んだはずの私のマグカップの中には、まだ若干ではあったが珈琲が残っていて、机に代金を置いた時の振動で水面がゆらゆらと揺れていた。