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09:魔女見習い、湯浴みをする

 まずは湯浴みを、ということで、エリスを庭園に待たせたままアベルとメアリは部屋に戻った。さすがに王女と同じ部屋で湯浴みはさせられないというウィリスの配慮からであった。


 自室にたどり着くとすぐにアベルは箪笥からタオルを取り出した。そしてそれをメアリに差し出して言う。

「先に入るか」


 アベルとしては何の感情も嫌味も込めているつもりはなかったのだが、何を勘違いしたのか、メアリは口をひん曲げて即答した。


「お先にどうぞ、王子様」

 案の定アベルも額に青筋が立つ。


「いえいえ、遠慮なさらず。レディファーストですから」

 一語一語強調して言う。裏に隠されている嫌味に気付いたのか、メアリもにっこり笑った。


「いいえ、わたしは召使の身。畏れ多くも王子様よりも先に水浴びをさせて頂くなんてことできませんの。どうかお気になさらずにお入りください」

 ちゃんとした敬語が使えるじゃないかと思う一方、なぜだか腹が立つ。いつもは申し訳程度に敬語を使っているくせに、こういう時だけ過剰敬語になるなど、嫌味にしか聞こえない。というか、実際嫌味だ。


「じゃあ先に入らせてもらおうかな」

 柄じゃない言い方にアベルは悪寒がしそうだ。しかしこれが理想の王子様の話し方だろうと推測し、我慢する。彼女がその気なら、こちらも王子様続行だ。


 アベルは引きつった笑顔を晒しながら浴室へ消える。メアリも同様の笑顔でそれを見送った。


「どうぞごゆっくりー。というか、一生上がって来なくても結構ですけど」

 最後はボソッと付け加える。


「聞こえてるぞ」

 案外浴室は壁が薄いようだ。


 しばらくして水の流れる音が浴室の方から聞こえてくる。手持無沙汰になったメアリは、ゆったりとした動作で部屋の中を見渡した。

 いくらメアリでも、さすがに部屋の主がいないこの状況でいろいろと物色する気はない。ない、のだが。


「暇ですからね~」

 物色とまではいかなくとも、きょろきょろ、うろうろと辺りを見回し始めた。何かアベルの弱みでもないか、と始めたこの行為、しかしすぐに飽きることとなった。彼の部屋には、これと言って面白いものもなかったのである。あるものと言えば、よくわからない書類の山と分厚い本。――全く面白くない。


 メアリはため息をついて床に座り込んだ。本当ならばソファくらいには座りたいものだが、何しろ今の自分はずぶ濡れだ。さすがに高級そうなソファを濡らすには忍びないので床で我慢することにする。


 しかしそれにしても暇だ、暇すぎる。


 耳をすませば、すぐ隣から湯浴みの音が聞こえてきて。

 その音からなぜかアベルが湯浴みをしている姿を想像してしまって。

 自分は欲求不満な男かと馬鹿らしくなって、メアリは顔を己の膝に埋めた。男の部屋であるにもかからわず、警戒心を持とうとしない彼女の意識は次第に遠のいていった。


*****


 十分後、アベルは頭を軽く振りながら湯浴みを終えた。体が汚れているわけでもないし、しかも今は隣国の姫を待たせている状況だ。あまり長くは湯に当たっていられまいと、多少の名残惜しさを感じながらも浴室を出た。

 ちょうど目の前に置いてあったタオルを手に取り、頭を拭きながら自室へと足を踏み入れる。


 アベルの部屋は、一般のそれよりもはるかに大きいだろうが、見渡せないというほどではない。よって、軽く見渡したその視界にメアリがいないことに気付くと、眉を寄せた。


「メアリのやつ、どこ行ったんだ」

 そうして苛立って歩き出すと、すぐに気付いた。丁度メアリがソファの前に蹲っていたので、その小さな体はソファの背に埋もれて、アベルの方からは見えなかったのだ。


「……はあ……」

 呆れてため息をつくと、アベルは身をかがめ、彼女の耳元に口を寄せた。


「――おい。おい!」

「はっ!」

 耳元で騒ぐ誰かの声に、メアリは反射的に顔を上げる。すぐにアベルの呆れた顔が目に入った。


「お前……こんなところでよく寝れるな。どんだけ警戒心がないんだ」

「殿下の湯浴みの時間が長いからですよ、女じゃあるまいし」

「十分もかかってないだろ。こっちとしてはこんな短時間で寝られるお前の神経を疑うぞ」

「いろいろと疲れてるんです~。誰かさんがわたしをこき使うから」


 メアリがぶつぶつと言った。その誰かさんは多少の思い当たる節はあるのか、ぐっと詰まる。


「もういい。分かったよ。お前もさっさと入れ」

「あーはいはい。すみませんねえ」


 緩慢な動作でメアリは立ち上がった。そしてグーッと伸びをする。何もかもがマイペースなその動作に、アベルは早々に向かっ腹を立てたが、そこは大人の余裕を見せ、見過ごしてやる。


「そういえば、着替えはどうしましょう?」

「あーそうだな。また適当に用意してもらっておくから、とりあえず先入ってろ」

「はいはーい」


 マイペースなメアリのことだ、湯浴みも長そうだという先入観の下、先に浴室へ向かわせた。


 アベルの方もゆったりしている暇はなく、自室を出ると、通りかかった仕着せを着た女性に声をかける。


「後でいいから、ちょっと仕着せを持ってきてくれないか」

「仕着せ……?」

 彼女は訝しげにアベルを見上げる。


「何に使われるんですか?」

「――え?」


 まさか、聞き返されるとは思わなかった。しかしこれもアベルの誤算、彼が声をかけたのは、城でも古参の侍女長だった。まだ若い新人だったならば、疑問に思う間もなく、ましてや疑問に思っても尋ね返す勇気もないまま持ってきてくれるだろう。しかし目の前の彼女は違う。侍女一帯を締めている侍女長だった、運の悪いことに。


「何に使われるんですか、仕着せなんか」

 目は口ほどに物を言うとは、まさにこのことだ。目の前の侍女長の目は語る。女物の仕着せを、男の殿下が、なぜ、どうして必要なんですか、と。


 アベルは次第に自分の顔に熱が集まってくるのを感じた。きっと彼女は、自分に女装癖があるのではないかと疑っているのだろう。違う、断じて違うと叫びたい。しかしその後は何と言う? 服を欲しがっている裸の女が自分の部屋にいると? だから貸してほしいと? ――言えるわけがない。


「な……何でもない。気にしないでくれ」

 必死の思いでそう言うしかなかった。


「いえ、もう何も聞きません。すぐに持ってきますので、少々お待ちください」

 悔しそうなアベルを哀れに思ったのか、侍女長は優しい瞳でそう言った。その視線が痛い。


「いや……本当にいいんだ。あの、ほんのちょっと……出来心というか」


 何が出来心だ!


 アベルは心の中で叫んだ。

 これじゃあ余計に自分が女装癖だと言いふらしてるようなものじゃないか!


「大丈夫です。すぐに持ってきますので」


 何が大丈夫なんだ……。

 アベルの心はもうズタズタだった。無意識のうちに空笑いが漏れる。


「本当、もういいんだ。こっちで何とかするから……」

 よろよろとアベルは部屋へ戻る。後ろの方から心配そうな侍女長の声がかかったが、構いはしない。もう疲れていた。


「あー……そっか、着替え……」

 結局アベルは何の成果もないまま帰ってきてしまったのだ。すぐにメアリの着替えがないことに気付く。


「俺の……でいいか」

 もう考える力を放棄していた。適当に箪笥からシャツとズボンを取り出す。


「おい、メアリ。着替えここに置いておくからな」

「あ、はい。ありがとうございます」


 呑気な返事に、アベルは脱力する。こっちは女装癖の汚名を被ってでも服を――と思ったが、よく考えてみれば結局仕着せをもらってくることはできなかった。全く無意味な自分の行動と、さらにそれによって女装癖の疑いをかけられたことに、アベルは更に気を落とした。


「上がりましたー」


 それからしばらく後、沈み込んでいるアベルのことなど露知らず、メアリは近くにあったタオルで頭を拭きながら出てきた。アベルはどんよりとした空気を振り払う様に首を振り、のろのろとした動作でメアリを見やった。しかし、そのまま動かなくなった。じーっと彼女の方をを見つめている。メアリは当然そのことに戸惑った。しかし、彼の視線が自分の左目にあることに気付くと、ハッとしてそれを隠した。いつもは長い前髪で隠れているのだが、水浴びして気が緩んでいたようだ。


「お前の瞳……左右で色が違うんだな」

「…………」


 何とも言いようがなくて、メアリはくるっと背を向けた。


「……別に隠さなくてもいいだろ」

 いつもと様子が違うメアリに、アベルは戸惑った。何か失礼なことでも言ったのだろうか、と珍しく気を遣う。


「気にしてるのか? 別にいいじゃないか」

「…………」


 未だ、返事は返って来ない。そのことに苛立ち、アベルが口を開こうとすると。


「でも」

 メアリが小さく呟いた。


「わたしの父も母も妹も、みんな茶色の瞳なんです。だから――」


 自分の左目だけ、青色であることが酷く辛かった。


「何だ、色が気に食わないのか?」

「別にそう言う訳じゃ……」

「綺麗な色じゃないか」


 メアリが驚いて目を見張る。その様子に、アベルも自分が口走ったことに気付き、赤面する。


「いや……別に他意はないというか……。いや、というか、そうだ、俺の瞳も碧眼なんだ。綺麗だろ? 気に入ってるんだ」

 もはや何を言っているのか自分でもわからない。


「――殿下、そういうの全然似合わないですね」

 突然ふっとメアリが噴出した。


「慰めとか励ましとか……全然柄じゃないでしょうに」

 言われなくても分かっているのに全て口に出すメアリに、アベルはがしがしと頭を掻いた。


「お前も似合わないだろ」

「え……?」

「大人しいとか落ち込むとか、全然柄じゃないくせに」

「……失礼な」


「お前がそんな風になったらこっちが調子狂う」

 メアリがおずおずと振り返ると、アベルは頬を赤くしてそっぽを向いていた。それがおかしくなって、ふっとメアリは笑う。


「ありがとうございます」

 メアリの言葉に、アベルは顔をそちらへ向けた。が、彼女の一点の曇りもない純粋な笑顔に、気恥ずかしくなってすぐに目を逸らす。ついでに話も逸らす。


「そういやお前、風を出せたな」

「は? 何ですか突然」

 突然の話題転換に、メアリは怪訝な表情を浮かべた。


「術だよ、お前の変な術!」

「なっ、変な術とは失礼な!」


 れっきとした師匠直伝の魔術である。それを変だとは!

 先ほどまでの暗い気持ちがどこかへ飛んでいき、すぐにむかむかと怒りが沸き起こった。


「それで髪を乾かしてくれ。いくらなんでも濡れたまま姫に合うのは失礼だ」

「――わたしのこと、なんでも屋だとでも思ってませんか?」


 髪など、しばらく放っておけばいずれ乾く。それを早いからと言って魔術を使うのはいただけない。


「いいじゃないか、減るもんじゃないし」

「減りはしないですけど怒られるんです」

「なぜ?」

「むやみに魔術を使うなって」

「……今まで無暗に使ってたじゃないか」


 思い出すのはメアリと出会った時。肉料理を奪う時にも術を使っていたし、銅貨に紐をくっつけるだけのためにも使用していた。――本当、無暗に使っていたような気がする。


「人のためじゃないと魔術は使えないんです。魔女は人々の暮らしに役立つように魔術を使うんです」

 メアリは誇らしげに胸を逸らした。しかしアベルが突っ込む。


「人のためだろ」

「へ?」

「これだって十分人のためだろ。俺がこうやって頼んでるんだし」

「いや、どこが頼んでるんですか。それが人にものを頼む態度ですか」


 ふふん、と得意げにメアリは腕を組む。アベルの額に青筋が立つが、堪える。ここは堪える。


「頼むよ」

「…………」


 じぃっとメアリはアベルを見つめた。不貞腐れながらも彼は目を逸らさないので、メアリは息を吐きながら腕をまくる。


「もう、仕方ないですね。こんなことやるの、今回きりですからね」

「あ、ちょっと待て」

 呼び止められ、不本意な顔を向けた。


「いきなりは不安だ。まずはやって見せてくれ」

「はあ!?」

「どんなものかも分からないのに、身を預けるなんてできないだろ、怖くて!」


 自信満々にアベルは言い切った。ここまで開き直られると、メアリももう何も申すことはない。


「はいはい」

 メアリは呪文を唱え、周囲に軽い風を引き起こした。冷風だが、メアリの側を何度も往復するようにして風が吹くので、効果は覿面だ。あっという間に髪が乾いた。――ぼさぼさ頭だが。


「まあこんな感じですかね。ちょっと髪が絡まるのは難点ですが」

 手櫛で軽く髪を整える。


「じゃあ俺にもやってくれ」

「あーはいはい」

 メアリはそのまま呪文を唱えようとしたが、一瞬その動作が止まったが、しかしそれもつかの間。


「……まあ、いいか」

 メアリは小声で呟いた。アベルが聞き返す間もなく、風が巻き起こる。風――というか突風が。


「うわっ、ちょ、おい! 何だこれは!」

 アベルが慌てるのも無理はない。現在、アベルの周りだけに嵐が訪れている状態だ。


「あーすみません。相手に魔術を施す場合、調整が難しいんです。だから我慢してください」

「ああ? 我慢だと!? これに耐えないといけないのか!?」


 言ってる間にもどんどん嵐の威力が増す。


「おまっ……もういい! 止めてくれ!」

「えっ? 何ですか?」

 風が唸る音で、アベルの渾身の願いはメアリの耳には届かない。


「だから……止めろって!」

「え? もっと大きな声で!」

「だから――!」


 もうわざとやっているのかと思うくらいに腹が立つメアリの難聴ぶり。呆れと怒りでない交ぜになりながら、アベルは実力行使に出る。一歩一歩、踏みしめるようにしてメアリに近づくのだ。当然、メアリの方は、周囲が嵐状態のアベルが近づくことで、彼女自身も嵐に巻き込まれることになる。


「ちょっ……こっちに寄らないでください!」

 せっかく整えたメアリの髪も突風に煽られ逆立つ。


「じゃあさっさと止めろよ!」

「わ、わかってますって!」

 メアリは解除の魔術を呟いた。次第に嵐は収まっていく。アベルはもちろん、メアリもほっとしたが、しかし、呪文に集中しすぎた。


 様相を整えようと動き出したメアリは、アベルの長いズボンの裾に足を取られ、すっころんだ。そこまでは良いのだが、何の因果か、アベルを巻き込んだ。彼を押し倒すようにしてメアリがその上に倒れこむと、丁度同じ位置にあった彼の頭とメアリの頭がかち合う。当然もんどりうって二人は痛みに苦しんだ。


「お、おまっ……!」

「い……いたい……」


 怒りと共に、二人は様々なことを叫びたかったが、しかしあまりの痛さに声を出す余裕もない。しばらく声にならないうめき声を上げ続けた。


「お前……な」

 始めに痛みを乗り越えたのはアベルだった。残念ながら、ふつふつと湧き起こる怒りは乗り越えることができなかったようだ。


「いつもいつも……散々な目に遭わせてくれるな!」

 その怒鳴り声は部屋に大きく響いた。


「うっ、うるさいです! 頭に響くでしょう! 頑固な石にぶつかってしまった可哀想なわたしの頭に……!」

「何が頑固な石だ! 頑固なのはお前の頭の方だろ!」

「わたしはか弱い女の子なんです! 固いのは殿下です! あー嫌だわ、考えることが固ければ、頭も固くなっちゃうんですね~」

「お前……!」


 アベルが言うよりも早くメアリが捲し立てるので、アベルが口をはさむ暇はない。仕方なしに最も理解できなかったことに話題を変える。


「だいたいな、何なんださっきの嵐は!? お前が自分自身にかけた奴と大違いじゃないか!」

「自分自身にやる時と相手にやる時は違います~。調整ができないんです~」

「それを先に言え!」


 至極もっともなことをアベルが言う。


「まあ……いっかなって思いまして」

「いっかなって! これがまあいっかなっていう程度か!?」

 アベルは大きく手を広げた。


 そんな大げさな、とメアリも始めは鼻で笑ったが、彼の後ろに広がる惨状を目にし、目を丸くした。


「片づけるの大変だろ……。大切な書類もあったんだぞ。整理してあったのに、何が何だか分からないだろ」

「あ……はは、すいません……」


 これにはさすがのメアリも素直に謝罪を述べる。しかし心の中では、どうせわたしにも手伝わせるんでしょうという突っ込みも健在だ。

 それに気づいたわけでもないだろうが、アベルの怒りは収まらない。更に矛先を変える。


「つーかお前、そんなんだからいつまでたっても見習いなんじゃいか?」

 アベルがハッと鼻で笑う。


「な……何ですと?」

 メアリはわなわなと震えた。


「雨はちょっとしか降らせないし、風も大して操れない。おまけにお前、どんくさいからな」

「う……」


 返す言葉もない。確かに、メアリは同年代の娘と比べると、頭も足りないし、礼儀作法もなっていない。それどころか、見習い魔女であるメアリは、この年にもなって見習いという身分からおさらばできずにいる。魔女の友達は、みんなとっくにそれぞれの師匠から認められ、立派に成人魔女として生活しているのに。それなのに自分は――。


 アベルの言うことは事実なのだが、彼に図星を指されたことで言い様のない怒りがメアリの頭を支配する。そうしていつの間にか爆発した感情が叫びとなってメアリの口を出た。


「うわあぁーーー!!」


 メアリの咆哮!


 アベルは怯んだ!


 メアリの突撃!


 アベルは倒れた!


 メアリの殴打!


 アベルは避ける!


 幼稚な喧嘩はしばらく続いた。それはもう、口に出すのも馬鹿らしいくらいの長い時間――。



 さて、二人が湯浴みをしている間、庭にて置いてけぼりにされていたエリス。彼女はいつまでたっても呼びに来られないので二人のことを心配していた。それはもう、アベルの部屋にまでやってくるほど。

 メアリとアベルはある意味で二人の時間に入っていた。それはもう、ドアをノックする音に気付かないほど。


「失礼します」

 拳をつき出したり、その腕を掴んだりで忙しい二人の動きは、一瞬にして止まった。驚くよりも先に、二人はその声の方を向く。


「えっ……?」

 誰ともなく発声される戸惑いの声。

 アベルとメアリは顔を見合わせ……そして瞬時にエリスの方へ向いた。どちらの表情にも焦りが浮かぶ。


「ひ、姫……どうしてここに――」

 疑問を言葉にしようとしたアベルは、すぐに自分の状態にハッとする。いつかのように、取っ組み合いの喧嘩をしていた二人はアベルがメアリを押し倒す形で行われていたのである。そう、男が女を押し倒す形で。

 これでは誤解するなという方が無理である。アベルはすぐさまメアリの上から身を退ける。


「い、いや、これは違うんだ。その、体勢を崩したというか、な、なあメアリ?」

「へ? あ、そうです。誤解……というか、わたしが足を滑らせて、なぜか取っ組み合いの喧嘩になって……」


 手振り身振りで二人は仲良く言い訳をするが、エリスの耳には入っていないように見える。


「彼シャツ……床ドン……」

 ただ放心したように呟き続けている。


「ど……どうしましょう殿下」

 エリスに聞こえないように、メアリはアベルの耳に顔を寄せた。


「絶対王女様誤解してますよ。っていうか、心ここにありませんし」

「……だな。何とかしないと、外交的にも支障が出るかもしれない」

「殿下の方から何か言ってあげてくださいよ!」

「はあっ!?」

「だってわたしから言ってもきっと聞き入れてくれないだろうし、ここは一つ、婚約者の殿下が――」

「婚約者じゃないって言ってるだろ!」


 アベルは思わず叫んだ。それが聞こえたのか、はたまたこっそり耳打ちし合う目の前の男女が憎らしく見えたのかは分からないが、エリスはわなわなと震えだす。


「い……」

「い?」


 二人は耳を澄ました。が。


「いやあああああーーー!!」

 エリスは唐突に叫び出した。地団太を踏んで、髪を振り乱して。


「ちょっ……王女様! 落ち着いて!」

 メアリが驚いてエリスに近づいた。しかしその声は聞こえないようで、彼女は手で顔を覆ったまま立ち尽くしてしまった。


「あの、そんなに騒いだら……衛兵たちが来てしまいますって!」

 前回それで嫌な目に合っているメアリは必死に宥める。しかしエリスはただ叫ぶだけで、話を聞いてくれない。その全力の叫びは、次第に切なげな嘆きに変わった。


「きっと殿下の婚約者じゃないって言葉に傷ついたんですよ! あーもう! 殿下のせいで!」

「俺のせい!?」

「大丈夫ですから、わたし達、別に深い関係とかじゃありませんし、ただちょっとわたしが足を滑らせてあんな体勢になっちゃっただけなんです、本当に」


 アベルは混乱して全く役に立たないので、メアリは言葉をかけ続ける。


「せめてもう少し落ち着きませんか? 穏やかに話し合いを……」

 しかし彼女にはもう声すら届いていないように思える。途方に暮れてメアリはアベルの方を振り返った。


「ちょっ……殿下! どうにかしてください!」

「は、はあ? 俺か!?」

 目に見えてアベルは飛び上がった。


「だ、だってこのままじゃ……!」

 メアリの言葉を代弁するかのように、遠くから大勢の足音が聞こえてくる。通り過ぎることを祈るも、当たり前の様にこの部屋の前でそれは止まった。


「前回の二の舞に――」

「叫び声が聞こえたのですが、どうなさったのですか!?」

 扉の外から焦ったジェイルの声が聞こえる。既視感が尋常じゃない。


「ど、どうしましょう殿下!」

 メアリは藁にも縋る思いでアベルを懇願の目で見上げた。しかし本当に彼は藁であった。


「ああ、もうお終いだ……何もかも」

 現状に絶望し、何もかもすっかり諦めていた。


「婚約の顔合わせ……しかしその合間に侍女を連れ込んでいちゃこら……」

「いや、いちゃこら何てしてませんからね! しっかりしてください!」

「姫がこんなに発狂するほど俺に惚れてたなんて……」

「なに調子乗ったこと言ってるんですか。そんなこと言ってる暇ないでしょう!」


 ぶつぶつとよく分からないことを口にする前に、扉の向こうを何とかしてほしい。そんな思いを込めてメアリはアベルの頭をはたいた。少しでもしっかりしてほしいと。しかしそれは逆効果であったようだ。


「い、いやあ、俺って罪な奴だな……」

 何だか更に頭のネジが吹っ飛んだように見える。


「二人の女に取り合われる王子……なんて罪なんだ」

「取り合ってませんから! 少なくともわたしはアベル様要りません!」

「しかし俺は誰の物でもない……。そう――」


 芝居がかった様にアベルは両手を天につき出した。


「みんなの物だっ!」

「くたばれぇっ!」


 最後の一言にキレたメアリは、アベルに向かって飛び膝蹴りを繰り出した。くぐもったうめき声を上げながら、王子はゆっくりと床に倒れこんだ。


「っ……」

 突っ込みと全力の飛び蹴りを披露し、メアリは荒い息を吐く。やってしまったという思いと共に。


「どうしよう……」

 今はもう叫んでいないが、それでも力尽きた様に呆然とするエリスに、うつ伏せに気を失っているアベル。――まるで殺人現場のようだ。アベルは被害者で、エリスは第一発見者。そして自分は――犯人!?


 あわあわと途端に慌てふためくメアリだったが、アベルが倒れた音でついに突入を決意し、部屋になだれ込んできた大勢の兵士たちの姿を目にし、動きが止まった。


「どうなされたのですか!?」

 乱雑に並ぶ兵士たち。その数は隣国エルウィンの兵士の方が多い。その事実にメアリは頬を引き攣らせた。当たり前だが、彼らの腰には剣が帯刀されている。メアリはさらに頭が真っ白になった。


 今の彼女の状況は、まさに隣国の婚約者に王子のと密会がバレた恋人――殺人現場とも呼べるが――というものである。ここでいくらメアリが恋人じゃないと声を張り上げても聞き入れてくれるかどうか……。非情な王子のことだ、自分の身の保全のために口封じにメアリを投獄するかもしれない。尋問、追放、縛り首……。


 嫌な想像ばかりが頭を過って、メアリはついにはその場にへたり込んだ。


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