07:魔女見習い、着替える
馬を厩舎に繋ぎ、足早に二人は城内へ入って行った。幸い、泥だらけなのは上半身だけで、靴は被害に見舞われていないので、何人もその歩みを止めることはなかった。とはいえ、どちらにせよ誰も王子を止めることはできないのは分かりきっているのだが。
姫を迎えるということで、相変わらず城内はてんてこ舞いだったが、にもかかわらずこの奇妙な組み合わせはなおも目立っていた。それもそのはず、くたびれたローブを着ているメアリだけでなく、泥だらけになっているアベルもメイドたちの目には珍しく映っているのである。
「あーもう、さっさと水浴びしてえ」
「水浴び? そんな時間ないんじゃないですか?」
「姫は先に父や母と目通りする筈だ。少しくらいなら大丈夫だろ」
「そうですかね……?」
「あ……おい」
呼び止められたと思い、メアリがアベルを見上げると、彼は別の方を向いていた。全く、相手の名前くらいきちんと呼び分けてほしいものだ、とつくづくメアリは感じた。
呼び止められた相手――一介のメイドは、姿勢を低くして振り返る。
「何でしょうか」
「こいつに替えの服を用意してやってくれ。簡単なものでいい。――水浴びは……必要か?」
「え? 別にいいですよ。水浴びなんて面倒ですし。ちょっと水で洗えばこんな泥、すぐに落ちますもん」
「そのみすぼらしい姿でうろちょろされる方が困るんだよ。少しでも小奇麗になってもらわないと」
「小奇麗って……。泥くらいで水浴びなんて面倒だから結構です。替えの服だけ貸してもらえれば」
「お前なー、それでも女か? よくそんな恰好で我慢できるな」
「殿下だってそれでも男ですか? そのくらいの汚れを気にするなんて。もしかして殿下、潔癖症ですか?」
ぷぷぷ、とメアリは馬鹿にしているようなおちょくっているような笑みを浮かべる。もちろんアベルは青筋を立てた。
「誰だってこんな汚い恰好嫌に決まってるだろ。女として終わってるな」
「殿下こそ男で潔癖症って……。もしやメイドさんの掃除の仕方まであれこれ口出すタイプですか~?」
「何だと?」
「何ですか!」
どこかで聞いたようなやり取りをするメアリとアベル。その傍らで、さっさと業務に戻りたいとメイドが小さくため息をつく。
「もういい! お前はその泥まみれの顔で一生を過ごしてろ!」
「はあ? 馬鹿ですか殿下。誰もこの顔洗わないとは言ってませんよ~。水浴びまではしなくても、顔を洗うくらいするにきまってるじゃないですか。それくらい当たり前です」
「――お前な」
ああ言えばこう言うメアリに、アベルはいい加減堪忍袋の緒が切れそうだ。しかしそこを何とか理性で押しとどめ、くるっと踵を返した。
「とにかく、その汚い恰好だけでも綺麗にしてもらえ。姫が来るんだからな」
「言われなくても着替えさせてもらいます! 殿下のせいでこうなったんですからね!」
「おまっ!」
思わずさらに言い返してしまいそうになるのを堪え、アベルは歩き出した。もう本当に姫との対面の時間が迫っていた。
幾人もの使用人たちの好機の視線に晒されながら、アベルはようやく自室にたどり着いた。メアリとの口論のせいでずいぶん時間を食ってしまったように思える。すぐに浴室に行って手早く服を脱ぎ、髪を濡らさないようにして水を浴びた。髪にも泥がこびりついているので、本当なら隅から隅まで洗いたいところだが、何より今は髪を乾かす時間などない。体をきれいに洗った後、水で濡らした手巾で軽く泥を落とす程度にした。
部屋に戻り、正装に着替えている間、そういえば、とアベルはあのおとぼけ魔女に思いを巡らせた。
「やはりあいつも水浴びさせればよかったか……」
古ぼけたローブが一張羅だと言っていたが、曲がりなりにもあの見習い魔女の性別は女。いくら面倒面倒と口で言っていても、内心では着替えるだけでは物足りなかったかもしれない。男の自分だけが水浴びしているのも多少気が引ける。
「いや、しかしだな……」
水浴びさせようにも、浴室は王族の部屋にしか取り付けられていない。となると、当然メアリはアベルの部屋で水浴びをすることになり――。
「あり得ないだろ、それは。そうなったら醜聞どころじゃないぞ」
先ほどは何も考えずに水浴びの提案をしたが、よく考えれば早計だった。仮にも隣国の姫は、現在、婚約の顔合わせという名目でこちらに赴いている。にも拘わらず、万が一お相手のアベルが女を連れ込んでいたなどと知られてしまったら外交問題に発展するかもしれない。しかも明らかにこちらに非がある状態で。
メアリの物言いは腹立つものだったが、結果として断ってもらって助かった。ものすごく癪に障るが。
さて、一応時間通りに正装に着替え、部屋で待機することができたアベルだが、いまだ少々の不安が残る。大雨で姫を隣国へ帰国させる作戦も台無しになり、結局は何の手立てもないまま姫とのご対面の時間になってしまった。まずい。このままでは本当に婚約させられ、挙句の果てには結婚にまで至ってしまうかもしれない。それだけは断固阻止だ。そのためにも、最後の足掻きとしてメアリと何か作戦会議をしたかったのだが、肝心の彼女の姿が見えない。着替えたらすぐに部屋へ来いと言っておいた方が良かったのかもしれない。てっきりそれくらいは心得ているだろうと過信しすぎたのが敗因だ。メアリの頭が空っぽなことくらい、これまでの付き合いで経験済みだというに。
姫が来るまでじっとしていられなかったアベルは、ついには自室を飛び出した。もしかしたらもうこちらへ姫が向かっているかもしれないという考えも頭を過ったが、何より今は作戦が重要だと瞬時に切り替えた。女性との婚約――しかも一国の姫――を、揉めることなく穏便に躱す自信がなかった。
「メアリのやつ、どこをほっつき歩いてんだ」
しばらく廊下を彷徨ってみたものの、彼女の姿は見つからない。そうこうしているうちに、メイドがアベルを呼びに来た。
「殿下、部屋で王女様がお待ちですよ」
「――もう着いたのか。すぐ行く」
アベルが部屋を離れてから数分も経っていない。無駄足になるのなら、部屋で大人しく待っていた方が良かったのかもしれない。自分の無駄な行動を後悔し、アベルは神妙な面持ちで踵を返した。
何の計画もないまま、アベルはそのまま自室へ向かう。そして扉の前で重いため息をついた。
アベルは珍しく緊張していた。今まで妙齢の女性と二人きりになったことなど、経験したことがなかったからだ。侍女を除いた女性との会話すら、パーティーの時に数回あるかないかくらいだ。――今の彼に、完全にメアリのことは念頭になかった。メアリが聞いたら憤慨しそうな言い様だ。
いつまでもうじうじと躊躇ってしまいそうな自分に喝を入れ、ドアをノックした。自分の部屋をノックするなど、変な感じだな、などとどうでもいいことを考えながら、同時にドアを開ける。
「申し訳ない。待たせてしまって」
謝罪と共にアベルが部屋に入ると、すぐに姫がソファから立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
「いいえ、そんなに待っておりませのでご心配なさらずに」
隣国の姫だという目の前の女性――エリスは穏やかに笑った。アベルよりもいくつか齢を重ねているせいか、年上の余裕を感じる。
アベルが座った後に、エリスも向かいにゆっくりと腰を落ち着けた。
「アクロイド国第一王子、アベルです」
「エルウィン国第一王女のエリスです。どうぞよろしくお願いいたします」
互いに軽く頭を下げ、簡単に自己紹介を終える。この後はどうすればよいのか、と逡巡していると、丁度タイミングよく侍女がアベルに紅茶を入れ始めた。姫の方はとそちらを見ると、もうすでに紅茶が入れられていた。
所在無げに目線を下げていると、そのアベルの瞳に紅茶を入れている侍女の手元が映った。緊張しているのか、その手は震えていて、カチャカチャと音を立てている。新人か――とその顔を盗み見れば、瞳は長い前髪に覆われて見えない。長い茶髪を二つに結っているようだが、このような髪形の侍女はアベルの専属ではない。慣れない手つきからも新人のように思えるが、しかし新人に王族の世話を頼むだろうか。此度は隣国の姫との対面である。普通なら専属のプロが任されるはずであるが――。
「アベル様」
「――っ、ああ、いえ」
唐突に目の前のエリスに声をかけられ、アベルははたと意識を彼女に向けた。エリスのことを完全に忘れ、意識が侍女に奪われていたことに気付かれてしまったかと焦ったが、当のエリスは穏やかにこちらを見ているだけだった。その様子にホッとしたのもつかの間、すぐに何か話題を探さなければと思いいたった。しかしそうはいったものの、女性経験どころか、対人経験すらあまり無いアベルがどんなことを話題に出せばいいのか分かるわけもない。その場に居心地の悪い空気が流れた。
もういっそのこと、このままの状態で顔合わせを終わってしまおうか、という気にもなっていた。未来の夫となるかもしれないアベルが気の利いたお世辞や話題の一つも出せないと分かると、彼女も落胆するかもしれない。そうだ、そうしようと半ば諦めたような瞳であちらこちらと視線を彷徨わせた。そうして自然に目に入る、侍女の姿。アベルは先ほどから彼女の存在が気になって仕方がない。
隣国の姫との対面――二人きりのように思えるが、部屋の隅に立つ彼女の存在によってそれは打ち消されている。果たしてこの状況は二人きりだと言えるのか、はたまた何か話すとこの侍女にも聞かれてしまうのだろうか、というかこの侍女はなぜこの場にいるのか、仮にも一国の姫との間に間違いが起こらない様に侍女がいるのか、ということはつまり自分は彼女に監視されているのだろうか、そして挙句の果てには会話の内容などを王妃に報告されてしまうのだろうかなどと思考がどんどん絡みついていく。経験がないだけに、アベルは何が何だか分からなくなってきた。
「私、ちょっと外の空気を吸ってきますわ」
再び、唐突にエリスが声をかけた。それに反応する間もなく、彼女は立ち上がり、いそいそと部屋を出ていった。あとに残されるは、呆気にとられたアベルと静かに佇む侍女。――何となく、フラれたような気分になった。そして、戸惑う。これからどうすればいいのか、と。姫の後を追えばいいのか、大人しく帰りを待っていればいいのか、はたまた彼女との共通の話題でも探しておかなければならないのか、などなど。気まずい雰囲気から解放されたとはいえ、まだまだ王子の悩みは尽きない。
「もう殿下~、何やってんですか」
そうして頭を抱えるアベルに上から声がかかった。申し訳程度の敬語に間延びした口調。加えてあの人を食ったような話し方をする奴は一人しか知らない。
「お……お前、まさか」
アベルは驚愕した。
「メアリ、か?」
目の前の新品の侍女服を着た少女を信じられない思いで見つめた。
「え……何言ってんですか。そうですよ」
そして答えは呆気なく知らされる。メアリはきょとんとした表情で言った。そしてすぐにその顔は顰められる。
「え、え? もしかして気づいてなかったんですか?」
「いやだってお前、いつもフードしてたし。前髪長いし。いちいち人の顔なんてじろじろ見ないし」
思わぬ知り合いの素顔に、アベルは狼狽えた。いつもフードを目深に被った古臭いローブ姿でうろつき、およそ女とは思えない言動で人を小馬鹿にするあのメアリが、こうして改めてちゃんと見ると女……いや、人間に見える。妖術を使うせいかもしれないが、どこか神秘的に思えていた彼女が、ちゃんとした人間に見える。妙に感心した。
「――って、聞いてますか!?」
「……うん? ああ、聞いてる」
「絶対聞いてなかったよ……」
メアリは小声でぶつぶつと言った。それは無視する。
「で、何だ」
「ほらやっぱり聞いてなかったー!」
「うるさい。で、何だ」
「――だーかーら、いつまでもエリス様お一人にしてたら駄目ですって! 外聞悪いですよ?」
「外聞?」
「そうです。あの人は隣国の王女様なんですよ。いつまでもお一人にしていたら男としての名が廃りますよ」
「別に俺は気にしない。それに正直ホッとした。あの気まずい沈黙から抜け出せて」
「――同じ部屋にいるわたしもすご居心地悪かったんですけど。なんで王女様に話しかけないんですか?」
「いや……何をどう話せばいいか分からなかった」
気まずそうにアベルは頬をかいた。一方メアリは素直に戸惑いを告白されたので、逆に動揺する。目の前の少年が急に年相応に見えてきた。
「いやでも……好きな食べ物とか趣味とか、ただの質問ならたくさんありますよ。適当に投げかけてれば会話もそれなりに成立しますって」
「趣味……ねえ。俺にはそんなもの無いが、聞き返されたらどうする?」
「うっ……、適当に見繕って答えればいいんじゃないですか? 例えば……あ、乗馬でいいと思いますよ! 活動的な印象を与えるので効果的です」
ふむふむとメアリはさらに考え込んだ。
「あっ、それなら王女様を乗馬に誘いましょう! 殿下の愛馬を見たらきっと王女様も感動しますよ~。ほら、これで次回のデートの約束もできますし!」
「そうか、乗馬か……って、次回のデートって何だ! 今回のはデートじゃないし、今後もするつもりはない! 却下だ!」
アベルは頷きかけてハッとした。危うく結婚コースに突入するところだった。
「もう、我儘ですね……」
「お前が本末転倒なことを言うからだろ! もういい、このままの状態で顔合わせを終えることにする。一緒にいてつまらない男とは結婚する気にもならないだろ」
「えー……そんなの相手の王女様が可哀想じゃないですか。きっと遠い国での縁談だなんて緊張なさってるだろうし。なのに相手は素っ気ないとか」
「遠い国じゃないし、隣国だし。話が弾んだら結婚にまで至っちまうだろうが」
「いいじゃないですか、それで。この際結婚しちゃいましょうよ。王女様、お綺麗ですし~」
「……お前、本当に俺に協力する気があるのか……」
アベルは頭を抱えた。
「とにかく今は王女様を追いましょうよ。一応今は殿下と王女様の顔合わせの時間ですよね? なのに王女様がお一人でいるとか、外聞が悪過ぎます」
「そうだな……。行くとするか」
アベルは重い腰を上げて言った。
「それはそうと、王女様はどこにいらっしゃるんでしょうね。入れ違いになっても困りますし」
「外の空気を吸ってくると言ってたし、大方庭園の方だろう。女はだいたい庭が好きだしな」
「庭園!? わたし、王宮の庭園に行くの初めてです。きっと殿下の部屋みたいに豪華なんだろうなあ」
「……素直にほめ言葉として受け取れないのは、前回、俺の部屋を見て趣味悪いと一蹴されたからだろうか」
能天気なメアリに、アベルはぶつぶつと呟いた。しかしすでにメアリは扉の向こうに消えていた。行く先を心配しながらも、アベルは重い足取りで彼女の後を追った。