8
私の最後の記憶は、二人の男で途絶えている。
私は怨嗟を吐いていた。ロイヴァル達がトゥールを連れて逃げてくれた。だから、それを救いとすればよかったのに、目の前に立つ幻術使いへ沸き立つ憎悪を押さえられなかった。押さえる気さえなかったのだ。
燃えた背の痛みより、怒りが、憎悪が、止まらない。
両親を、友を、仲間を、里を返せ。
許さない、許さない、許さない。
全て返せ。元に戻せ。お前達が奪ったものを返さないというのなら、お前達の元にも何一つ残してなどやるものか。私達が失った以上の何かを、お前達も失ってしまえ!
『真贋使いと幻術使い。そこにどれほどの差異があったというのか。どこでこれほどまでに道が別たれたのか、私には分からないよ……ああ、けれど、最早些末事。後のことはお前に任せましょう』
己の憎悪に飲まれた私の前で、男の一人が自らの胸を貫いた。
『さようなら、私の可愛い紛い物』
血の海に溺れる。記憶が、私が、飲まれて消える。
幻術が押さえられない。憎悪に飲まれた真贋が発動しない。もがく先から消えていく。叫ぶ先から途絶えていく。私の全てが呑まれていく。
『はい、兄様』
残った男の手の中で、死んだ男の血が結晶となっていく。幻術の塊は一人の命と引き換えに、その力を渦巻いたまま結晶となる。
『…………さようなら、父様』
男の瞳から涙が滑り落ち、結晶の上に落ちた。
目覚めた私が最初に見たものは、左手をトゥール、右手をロイヴァルに握りしめられ、猿轡を噛まされていた自分だった。そこまでしなくてももう大丈夫と伝えようにも喋れない。トゥール、あなたは自分が真贋の瞳を使ったのだから、もう大丈夫と分かっているはずでは?
自分のしたことを思い返せば仕方がない処置だとは思うけれど、これはなかなか厳しいものがある。
まさか、猿轡を外してもらった瞬間、再度指を突っ込まれて舌を掴まれるとは思いもよらず。これでどうやって弁明しろというのだろう。
長い問答……私は一言も喋れていないけれど、の末、ようやく磔から解放してもらった時には、既にぐったり疲れ切っていた。
でも、駄目だ。このまま眠ってしまいたいけれど、そういうわけにはいかない。
「姉様」
トゥールが震えながら両手を広げる。
少し、怯む。だって、私に、この子を抱きしめる資格があるのだろうか。憎悪に飲まれ、幻術に飲まれ、弟と仲間を殺そうとした私が、この子を抱きしめる資格が。
「ねえさま」
もう十三になる子が、まだよちよち歩きの頃みたいに両手を広げて抱っこをせがむ。ぼろぼろ泣きながら、転んでしまった自分を抱き上げてとせがむように、怖い夢から覚めたことを確認したくてベッドに潜り込んできた時のように。
「ねえさまぁ……!」
待ちきれず飛び込んできた温もりに触れてしまえば、もう駄目だった。どれだけ抱きしめても足りない。震える手で必死に掻き抱いても、足りることなどありはしない。
「姉様、姉様、姉様ぁ」
「ごめんなさい。ごめんなさい、トゥール、ごめんなさいっ」
ごめんなさい。つらい時、傍にいてあげられなくてごめんなさい。父様達の教えを守れず、憎悪に飲まれて帰ってこられなくてごめんなさい。あなたを思い出せなくてごめんなさい。
あなたを殺そうとしたのに、こうして抱きしめられる喜びに溺れて、本当にごめんなさい。謝った所で到底許されるはずもないことなのに、他の言葉が何も思い浮かばない、本当に情けない姉様でごめんなさい。
「いいえ、いいえっ! 生きていてくれたなら、こうやって、帰ってきてくれたのなら、他に何がいるんですか!」
私の真実は、まるで私が真実だと言わんばかりに全身で抱きついて、わあわあ泣いた。
私達の眼が、トゥールは可愛いけれど私は無残に腫れきってようやく落ち着いた。何度も鼻を啜って、冷えたタオルで顔を冷やす。こんな無残な顔、ロイヴァルには見せたくない。でも、ロイヴァルの顔は見たい。女って我儘な生き物だ。
首に巻かれた包帯を擦って空気を換えようとしたけれど、擦った指にも腕にも包帯が巻かれていた。
「どうして、気づいてくれたの?」
「最初に似ていると思ったのは、貴女が飴を貰った時に。菓子を貰って喜ぶ顔は、小さな頃から変わっていませんね」
「う」
それは私が幼いということだろうか。
「後は、貴女の真贋、普段の様子を見ていれば自ずと。我々と接触したことで、貴女の意識が幻術から漏れ出ていましたよ。ただ、それが自分を殺すという方向に向かうのはどういうことですか。眠りながら自分の首を絞める貴女をどんな思いで止めていたと思っているのですか」
「だ、だって、仕方がないでしょう! 貴方達を害す前に何とかしようと思ったら、他にどんな手があるというの!」
「何故私に助けを求めるという選択肢がないのですか。大体、どうして気づいたのかと仰いますが、気づくに決まっているでしょう。貴女を不細工だのなんだのと言うなんて、貴女くらいのものですよ。他の誰も悪しざまに言うことはないのに、貴女のことだけ辛辣に言っていたら、馬鹿でも気づきますよ」
さてそれは、気づかなかった私を馬鹿と言っているのでしょうか?
「ロイヴァル」
「はっ」
私の声から何かを感じ取ったロイヴァルが、さっと背を伸ばして騎士の礼を取った。
「最後の幻術使いを捕らえにいきます。ついてきてくれますか?」
片目が見開かれる。それでも、彼なら勿論ですと返してくれるはずだと思っていたら、目がすぅっと細まっていく。
「寧ろ、置いていく選択肢があったことに驚きです。私を置いていくのなら担ぎ上げますよ」
どんな脅し文句だ。
「僕も頑張って担ぎ上げますよ!」
「ロイヴァル。トゥールに変なこと教えないで」
「だから、早く大きくなりますから……姉様、ちゃんと僕を見ていてくださいね。いなくなったら僕は縮みますよ!」
どんな脅し文句だ。そんなこと言われたら、姉様は何でも言うことを聞いてしまう。
そして、ロイヴァルは別に脅さなくても一緒に来てもらうつもりだ。誰か私の話を聞いてはもらえないだろうか。
ちっとも巻けない髪を靡かせて、私は靴を打ち鳴らす。身体はうまく動かないけれど、どうして自分の手で終わらせたい。
隣にはついてくると聞かなかったトゥール。まだ日も高いから、あなたの眼にはつらいかもしれないと何度も言って聞かせたのに、大丈夫です、慣らしました、平気ですの繰り返しだ。周りには、ロイヴァル率いる親衛隊もいる。
二人の真贋使いと、親衛隊三十七名。
ぱっと見たら、この集団は大人数に見えるだろう。けれど、これで全部だ。あの里を知っているのは、これだけなのだ。
だから、私達で終わらせよう。三年前から始まった悪夢を、終わらせよう。
つい先日、ロイヴァルと二人で歩いたとき同じように驚愕の視線が集まる。けれど、その驚愕はあの日の非ではない。人々が飛びのくように引いていく。何にも煩わされることなく、私達は一直線に目的地に辿りつくことができた。
いつでも埃っぽく、木屑と鉄と革の匂いが入り交じった部屋。
ここは、フェイが働いていた下働き達が休憩するための場所だ。
突然現れた私達に、部屋にいた全員ぎょっと飛びのいた。それらに構わず、私は部屋の中を眺める。そうして、目的の人を見つけて歩を進めた。慌てて飛びのく人たちと一緒に席を立ったその人を、呼び止める。
「お久しぶりです、先輩」
ぎょっとした視線が、私と先輩を行き来する。何の変哲もない普通の青年。特徴はと問われれば、髪が短く地味だと答えられる先輩。
先輩は、恐る恐るといった風に口を開いた。
「何があったかは知らないけど、いくらトゥール様と仲良くなったからって、仕事場まで連れてくる馬鹿があるか。まったく、お前はいつもそうだな、フェイ」
ぽかんと皆の口が開く。
「お、おい。お前、何言って……」
同僚の一人が先輩の肩を掴んでも、先輩はきょとんと首を傾げた。
「だって、フェイが」
「フェイがどこにいるんだよ! 目の前にいらっしゃるのはジェネビア様だぞ!?」
きょとんと先輩が首を傾げる。呆けた顔で、何度も瞬きした瞳は、不思議そうに私と同僚達を往復した。
彼はきっと可哀相な人だった。哀れな人だった。
けれど、見逃すには、奪い過ぎた。
「自分に幻術をかけたから、私の幻術が解けた後も私がフェイに見えるのです。……申し訳ありませんが、あなたの父親の夢は、ここで潰えてもらいます」
幻術の覆いが消えた今、私の瞳には常に花結晶が浮かんでいる。
真実の花を咲かそう。私が失い、あなたが奪っていた真実を、私からあなたに返そう。
先輩の眼が見開かれる。緩慢な動作で周囲を見回し、己の両手を上げて顔を覆う。そのまましゃがみこんだ彼は、小さく呻くように問うた。
「……どうして、気づいた」
「あなたが消したはずのお守りという名の幻術の結晶と荷物。フェイが身に着けたそれらに触れていたのは、あなただけでした」
ロイヴァルがずっと探していた結晶は、私の首にぶら下がっていた。見えない鞄を奪い取る為に、嘘をついて私の手に持たせた。それをつつき、引っ張った人間が、一人だけいたのだ。
「ああ……そうか、そうだったな」
男は震えている。
「もう、終わりにしましょう。これ以上の争いを、私達は望みません」
男は顔を上げない。泣いているのかと思ったが、すぐに違うと気づく。
彼は笑っていた。
「なあ……教えてくれ。俺とお前の違いは何だったんだ。真贋使いの長の娘と幻術使いの紛い物。お前は愛されて育ち、俺は虐げられた。俺とお前、何がこんなにも違ってしまったんだ。同じ異能でありながら、どうして、こんなにも違うんだ」
答える必要はなかったのかもしれない。答えを探す必要もなかった。返す答えも持たない。そんなこと、私にだって分からない。どちらにしても、もうどちらも終わるだろう。その確信は、あった。
そして、恐らく、彼も分かっている。
親衛隊に瞳を覆われながら、彼は言った。
「……俺とお前に子どもができたら、どんな異能が生まれていたんだろうな」
「何の力も持たない、普通の、可愛い子どもが生まれていたと思いますよ」
私達はきっと、最後の異能となる。
子が生まれなくなった幻術使いと、使い手が生まれなくなった真贋使い。どちらも時代は終わってしまった。
幻術使いがいなくなったいま、次に疎まれるのは心を暴ける真贋使いだろう。だから、最早、生まれてくる必要がない。
「そうか……そうだな……異能など、世界には必要なかったんだ」
男は声を上げて笑う。覆われた瞳は見栄はしなかったけれど、手枷をつけられた手を楽しげに揺らす。
「どうしてお前は、もっと早く兄様と出会い、兄様にそれを教えてくれなかったんだ。そうすれば、俺も、愛してもらえたかもしれなかったのに」
「あなたこそ、どうしてもっと早くそれに気づいてくれなかったのですか。そうすれば、私は誰も、失わなくてよかったのに」
家族も友も仲間も、故郷も時間も。何一つ失わぬまま、静かに幕を下ろせたのだ。
恨みなど知りたくはなかった。憎悪など、燃やしたくはなかった。けれど知ってしまった。もう元には戻れない。
それでも、時が戻らぬ以上、人は進み続けるしかないのだ。
「お前とは、違う形で出会いたかったよ」
「同感です」
「さようなら、最後の真贋使い」
「さようなら、最後の、幻術使い」
男は、とてもうれしそうに笑った。
もう言葉を交わすことはないだろう。私達に残ったのは、一方的に知るだけの関係だ。
何かできたかもしれない、何かできることがあったかもしれない。そう思わないと言ったら嘘だけれど、私は、彼の為に捨てられるものが何もないのだ。
三年間燃え続けた闇は終わりを告げ、私達は、失った全てに黙祷を捧げた。