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いつも黙々と往復した職場との道。
そこを、ロイヴァルと手を繋いで歩く。いつからか、こんな風に歩いてくれなくなった人なのに、今日はまるで小さい頃のように手を引いてくれる。
「目に映るあなたと真実の姿が違うのではと、取り調べの時から気づいてはいたのです。幻術はあくまでまやかし。実際に手の大きさなどを測ってしまえばいいのです。目で測定した印と、実際に身体に添わせて行った印を重ねてしまえば、その姿が真実かまやかしかの区別くらいはつきますから」
「村は本当に貧しいんですよ。これといって外に売れる珍しい物がないのなら、せめて自給自足できればよかったのにそれさえ難しくて。子ども達は草を食んで空きっ腹を誤魔化して。狩りをしても獣も痩せているからろくに食料にもなりやしないんですよぉ」
「初めは幻術使いの変装だと思ったのです。だから泳がせた。ですが、あなたが真贋を使ったのならば話が変わる。あなたは、幻術をかけられた真贋使いだ」
「でも、凄いんですよ。僕の兄弟は十七人もいるんですよぉ。村は貧しいのに、どこの家でもみんな兄弟いっぱいいるんですよぉ。凄いですよねぇ。僕は、その中ではわりと遅くに生まれたんですよぉ」
「あなたの姿と記憶、鞄。幻術に飲まれ、私に見えないものは他に何があるのでしょうか」
「隙間風が酷くて、冬だと家の中の水まで凍りついちゃうんですよ。だから皆で暖を取って冬を越すんですけど、僕はそこに入っちゃいけないから、外でヤギと一緒にいるんです。僕は皆と一緒に食事をとってはいけないから、ヤギの餌を分けてもらうんです。とっても優しいヤギで、僕が餌をとっても怒ったりしないんですよ」
「周りの住人全てを追い出して徹底的に調べましたが、貴方の部屋にもその周囲にも幻術使いの痕跡はなかった。幻術が使われているのなら、その使い手は必ず傍にいるはずだが、それがない。ですが、必ずあるはずなのです。恐らく、装飾品の類ではないかと」
「僕はあの家にいさせてもらっているから、家の為に尽くさなければならないんです。だって僕は紛い物なんです。兄様の御力を継ぐことができなかった役立たずなんですよ」
繋いだ手を子どもみたいに振っても、ロイヴァルは嫌がらずしたいがままにさせてくれた。それどころか、ぎゅっと握り直してくれて嬉しい。だって、もう子どもではないのだからと二人で歩くことすらしてくれなくなったから。
「フェイ様」
「なんですか?」
「トゥール様に会いに行きましょうね」
「勿論ですよ! あ、手土産どうしましょう。僕が買えるものなんてたかが知れてますけど、お菓子がいいですかね。トゥール様、甘い物好きかな。好きですよね。だって、私がせがんでロイヴァル達が作ってくれたびっくりするくらい甘いカップケーキに、更にシロップかけて食べましたからね」
古今東西どんなお菓子でも手に入る。これが欲しいと言えば、忠義に厚い親衛隊が西に東に奔走してくれるだろう。トゥールは彼らに無茶を押し付けるような横暴な子ではないけれど、そんなトゥールに僕が買える程度のお菓子で満足してもらえるだろうか。
王都に出てきてお菓子を買ったことはないけれど、どこかいいお店はないかとめぐらせた僕の頬を滑る指がある。柔らかい動作で引かれて向いた先で、何かを堪える微笑みが僕を見ていた。
「何も必要ありませんよ。トゥール様にとって、私達にとって、あなたが会いに来てくれたのなら、それに勝る喜びは何もないのです」
「やだなぁ、大げさですよぉ」
「馬に乗れば早いですが、流石に懐に入れた状態で走るのは危険ですので、申し訳ないですが歩いて戻りましょう」
どうしてそんな顔をするのだろう。馬に乗れないからって、乗せて乗せてと駄々をこねて、あなたを困らせたりしないのに。
どうしてそんな顔をするの。どうしてそんな瞳をするの。
どうして、その瞳の中にいる女は、そんなにも怒り狂って僕に両手を伸ばしているのだろう。
ロイヴァルに手を引かれて門を通る。
詰所、僕らの休憩所、馬小屋。どんどん奥に進んでいく中で、皆が目を丸くして僕らを見ていた。ひそひそと話している声って、意外とこっちに聞こえてくる。だって、僕らを見た人達が目を丸くして、ぽかんと口を開けるから、誰も喋っている人がいなくなるのだ。
フェイが逮捕された、いや、生き別れの兄弟だ、トゥール様の遊び相手に抜擢されたけれど馬鹿だから逃げだしたところをとっ捕まった。みんな好き放題言ってくれる。でも、その中にお似合いだとか、不釣合いだとか、そんな話題が一切ないのが大変気にくわない。いいじゃないか。お似合いじゃなくても、不釣合いでも、その手の話題をちょろっとでも出してくれていいんだよ?
周りには一瞥もくれず歩く人をちらりと見上げる。まだ駄目かな。まだ足りないかな。まだ、届かないのだろうか。
じゃあいつになったら釣り合える? 殺す前に釣り合えたらいいのだけど。早く大人になるから、殺すね。頑張るね。頑張って殺すね。だから、殺す。殺さないと。だって、殺さないと。
誰を? 何を?
お守りが熱い。繋いだ手が温かい。
殺さないと。繋いだ手が温かい。殺さないと。早く、その為にずっと。殺さないと。手が温かい。殺すから手を離して離さないで離して離さないで離さないで離して離さないで。
殺さないと。何かがおかしい。だから殺さないと。トゥールを殺さないと。早く殺さないと。早く、殺してしまわないと。
「ロイヴァル」
「はい」
荷物を運んでいる同僚達がいる。皆が、驚いた顔で僕らを見ている。皆がいる。皆が、皆が。これから殺しに行こうとしている僕を見ている。
「早く殺しに行きましょう! トゥール様、待ってますよ!」
「……ええ、そうですね。急ぎましょうね」
その瞳に映った女が伸ばした手は、ロイヴァルと繋いだ手をぎちぎちと締め付けて爪を立ててきたけれど、僕はトゥールに会いたくて会いたくて堪らなかった。
ロイヴァルがノックした扉が内側から開く。なのにロイヴァルは動かない。僕の後ろに立って、どうぞと背中を押してくる。先に入ってほしいのだろうか。確かに中にはたくさんの人がいるみたいだから、入ったらみんなの視線独り占めだけど、この照れ屋さんめ。
「失礼します」
中は、まだ昼前だというのに分厚いカーテンを閉め切っている。部屋の中の明かりも、最小限に絞られたとても小さなものだ。光の届かない壁際の黒は、闇ではなく親衛隊だったけど。
部屋の中央では、小さな影と黒い集団が立ったまま僕を出迎えてくれた。
「こんにちは、トゥール様。部屋、どうしたんですか?」
「僕の眼は長い間光を映していないので、急に明るい場所へ出ると失明してしまうんです。少し不便でしょうが、お許しください」
「目が見えるようになったんですか!?」
「いいえ、まだ、開くのは怖いんです。違うとは分かっていても、開いた瞬間、あの炎と皆の断末魔が聞こえてくるんじゃないかって、怖くて、怖くて、堪らない」
「だったら、無理はしなくても」
当たり前だ。三年間も閉ざされた瞳が、昨日今日で開くなんて無理だろう。苦しげな声に、僕の胸まで苦しくなる。
「ゆっくり、自分の速度でいいんですよ。焦らなくてもいいんです。あなたが見たいものができたとき、自然とその眼は開きますから」
あの美しい花結晶が見られないのは残念だけど、無理をする必要はない。ゆっくりでいい。ゆっくり、静かに傷を癒し、いつか明るい世界をもう一度見てほしい。その為に僕は協力を惜しまず殺すから。
「……いいえ、いいえ、それでは間に合わない。…………それに、僕は、この瞳がもう一度光を映すなら、あなたがいい」
小さな灯りが風もないのにゆらゆら揺れる。彼らの影も小さく揺れる。
「僕は」
だけど、ゆっくりと開いていく美しい光は、しっかりと僕を捉えた。
「あなたに、会いたい」
結晶が花開く。美しい花が光を纏い、歌うように世界に舞う。
あれは真実。真実の光だ。
しかし、その光が僕の影を揺らそうとした瞬間、凄まじい風が湧き上がった。
「幻術っ……!」
誰かの苦しげな声がする。胸が熱い。
「トゥール様。トゥール様、どうしたんですか? そうだ、おやつを食べませんか? 僕、あなたとお茶をしようと思ってお菓子を買ってきたんですよ。お口に合うか分かりませんが」
えへへと笑って鞄を探す。トゥールと一緒におやつを食べられるなんて幸せだ。なのに、手土産を入れた鞄が見つからない。困ったな。あれがないと殺せない。
激しい風にみんなは目も開けていられないとばかりによろめいた。けれど、親衛隊はトゥールの前に盾となり、トゥールは必死に目蓋を開いて世界を見つめようとしている。
「トゥール様! 何か装飾品をつけてはいませんか!?」
「見えないっ……! けど、絶対に幻術の結晶があるはずだ!」
見えるはずがない。だって幻術使いは力を求めてその血を絶やした。血を残して力を絶やした真贋使いが使えない術だって使える。
まして、ずっと力を使えず瞳を閉ざしていたトゥールが破れるはずがない。
だからトゥール、僕とお茶をしよう? 一緒におやつ食べよう。一緒に星を見よう。一緒に、皆と一緒に笑おうよ。幸せになって。幸せに、皆の分も、幸せに。
私の分も、どうか。
「トゥール、だから、僕」
トゥールを殺さなくちゃ。
万感の思いを笑顔にこめて両手を広げた僕は、トゥールの瞳の中にあの女を見つけた。美しい瞳の中で見るに堪えない顔をしている女は、獣のような咆哮を上げてその瞳から飛び出し、僕の首を締め上げる。
『許さない!』
一切容赦のない力が首に食い込む。胸が熱い。胸が焼ける。
『あの子にそんな言葉を聞かせたら殺してやる!』
みしりみしりと骨が軋む。己の腕が折れても許せぬその執念。
「嫌だ、やめて、やめてくださいっ! やっと会えたのに、お願いだから!」
そうだ、やめろ。トゥールが泣いてるじゃないか。せっかく開いた花結晶が泣いている。だから早くしろ。
思考が、視界が、真っ赤に染まる。息が、血が、廻らない。心臓の音が耳の中で篭って鳴り響く。
トゥールの瞳から血涙が溢れだす。
早く、早く、早く。早く息の根を。早く殺さないと。早く殺して。早く、早く。
「やめてください!」
後ろから羽交い絞めしてきたロイヴァルの手が、女の手を握り締める。女の手は少しも緩まない。だが、どれだけ力を込めて細い女の手だ。折れぬよう加減されているとはいえ、少しずつ引き剥がされていく。それでも離されまいとぎりぎりと爪を立て、締められぬなら命をえぐり出そうと言わんばかりに爪を立てる。
憎しみに満ちた瞳が、長い睫毛が触れ合うほど近くで僕を見ている。
『この手が、この口が、あの子を害すくらいなら』
女が顎を開く。
唾液が一本糸を引き、ぷつりと、途切れた。
『私は死ぬべきだ!』
口の中に血の味が広がる。
渾身の力を込めて噛み締めた唇に何かが押し込まれていた。
どうして邪魔するの。ロイヴァル、どうして止めるの。私があの子を害すなら、あなた達を傷つけるなら、ここで舌を噛み切って死なせて。
ぎりぎりと噛み千切られながら僕の舌を掴んだロイヴァルは、耳元で叫んだ。
「貴女という人はっ……また、私を置いていく気ですか!」
「僕の姉様を、返せ――!」
二人の声が重なった瞬間、何かが弾ける音がした。
胸元を焼いていた塊が焼き切れ、破片となって残滓で床を焦がしていく。しかし、それらを見ることは叶わなかった。
手足の力が抜ける。思考が散って、記憶が凝縮されていく。
背を覆う頑固なストレートの真珠色。滴が乗るくらい長い睫毛で派手に見える顔。うんざりするほど肉が落ちない太腿。手の甲の黒子。
ああ、そうだ。これが僕の。
私の身体。
頽れる身体を支えてくれる手に抗わず、身体を預ける。
「姉様!」
「ジェーン様!」
大好きな人達の声が次々に私を呼ぶのに、私は自分の意識をかき集められず、そのまま気を失った。