純白の手袋
一人の男がシャツの襟をばたばたさせながらドアを開けた。
「山崎部長、気をつけてくださいよ、部内の者だけではないですからね」
何人もの若者がデスクワークをしているが、その中で一番落ち着いた感じの男が眉をひそめた。
「なんだ? あっ、内緒でシャワー浴びたのが羨ましいんだな? だめだぞ、お前たちにはまだ早い、真似するんじゃないぞ」
ニカッと笑って山崎はこれ見よがしにタオルで胸元を拭った。
「あいかわらずだなあ、山崎部長にかかったら怖い者なんていないな」
きちんと制服を着た貧相な男が皮肉な笑いを返した。
梅雨が明けるのを待つのはしんどいものである。ようやくジメジメした季節から開放されるとはいえ、今度はクラクラと目眩がするほどの暑さが控えている。
舞い上がる土埃を思うだけでも憂鬱になるというのに、山崎はいたって朗らかだった。
「山崎部長、せっかくさっぱりしたところを申し訳ないが、夕方の出番を仕切ってくれないかなぁ」
貧相な男がすまなそうに言った。
「いいですよ係長。ここは一発、派手にやりましょうか」
山崎はくったくなさそうに応じた。
三時の休憩を終えた山崎は、更衣室で手早く着替えを済ませた。それを合図に室内の若い職員も更衣室へ駆け込んでゆく。
帽子に真っ白のカバーをかけ、引き出しから新品の白手袋を出した。そして、これまた純白の脚絆を巻いて、ベルトも白いものに替える。
準備を整えて席に戻った山崎は、同僚のほとんどが同じ格好をしていることに気付いた。
「なんだ、今日は勢揃いするのか? たしかに嫌な現場だしな。うん、助かるわ」
まだ席を立つには早すぎるとマッチを摺ったところに、金筋を巻いた帽子を手にした大男がやってきた。
「山崎部長、今日は俺も付き合うからな。邪険にするなよ」
そう言って後退した額をつるりと撫でた。隣には貧相な係長が、やはり同じ格好で控えている。
「そんな、知りませんよ、きっと後悔しますよ」
「なに、昔から見て盗めって言うじゃないか。しっかり勉強させてもらうよ」
山崎の皮肉に、狸のように応じた。
「よし、いつも通りに散ってくれ。基本的に左は常時流す。入り口の一番は絞っておいてくれ。わかったか?」
「ハイッ!」
山崎の短い指示を受け、若い職員が四方に散った。
ピィーーーーッ、ピィッ!
片側三車線同士が交差する大きな交差点。その中心の踏み台に上がった山崎は、真っ白の手袋を高々と掲げた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピィーーーーッ、ピィッ!
山崎の笛が流れを止め、山崎の真っ白な手袋が流れを作る。
ともすれば突っ込みあって抜き差しならなかった道路が順調に流れだした。
帰宅を急ぎたい気持はじゅうぶんわかる。だからこそ身勝手な思いをさせたくない。
かえってそれが円滑に運ぶことをわかってほしい。不用意な事故をおこさないでほしい。
山崎の手袋は、宙を舞っていた。
混雑して困るのは一時間ほどである。あとは信号機に従ってくれればいい。
厳しい視線を周囲に這わせていた山崎が、笛を吹くのをやめた。
踏み台に屹立し、四周に向けて万感の思いをこめた敬礼をした。
いつしかブルブルと震えている笛を胸にしまい、静かに段を下りる。
交通課 山崎巡査部長、奉職最後の交通整理であった。