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金魚売り

 さしもの孟夏が鳴りを潜めたようで、朝は涼しい風が吹くようになった。ともすれば薄い上掛け一枚では寝冷えをしそうな朝まだき、幸いなことに年中掛け布団を手放さない私には何の心配もない。偉そうに言えたことではないが、エアコンをかけずに眠ったのは最近のことなのである。


 まだ小学生当時はもちろん以前の建て直す前の家であった。二軒棟続きの平屋である。つまり、北と南の二方向には開口部があるが、東と西は壁であった。私の住む町では南北の風よりも、東西の風が圧倒的に吹くのであえる。だから風向きによっては湿気の篭る造りであった。

 北側の開口部には玄関があった。とはいっても、地方の大きなお屋敷のように子供部屋にできるほど大きな玄関ではなく、身近な喩えをするならば、挨拶のときに白扇で結界を張る程度のものである。つまりは猫の額。

 玄関横は六畳間。特に家具はなく、私の机だけが目立っていた。そのかわり奥の6畳間は、そりゃあもう生活観がてんこ盛り。他には土間になっている炊事場と、汲み取り便所があるだけの家である。

 表の六畳間には梅を模った紙か貼り付けられたガラス戸があり、外敵(雨風)の進入を防いでいた。梅の花の意味は問わないでいただきたい。お上の慈悲、武士の情けである。


 自分がまだ涎掛けをしている頃の写真を見ると道路と敷地の境目には何もない。建物の横も更地で、裏にも手の込んだものは何も……、いや、物干しがあった。


 時は流れ、私は小学生になっていた。たしか二年生ではなかったろうか……。

 ちょうど夏休み、朝から勉強をさせられていた私は、十時になったことを口実に遊び始めた。すると……、火を吹いたのが私の母親。言われたところまで課題が進んでいないことを知るや、烈火のごとくビシバシと始めたのである。

 言いつけられていたのは教科書の終盤まで。まだ教わってもいないことをどうやってこなせば良いのか。

 こういう時には長男は辛いものである。いくら訴えたところで、無理も無茶も承知で火を吐くのだから始末が悪い。しかし、不思議なことにそういう状況を一旦受け入れてしまうと道が開けるものである。

 その炎の調教のおかげで今があるのだから不満はないが、妹や弟に対しては違った教え方をしたことを腹立たしく感じてはいる。


 かくして午前中の苦行はなんとかすんだ。

 午後になり、さて遊びに出ようかと様子をうかがっていたら昼寝の宣告である。

 こっちは遊びたくてモゾモゾしているのに、無理にでも寝ろという。


 寝ましたよ。遊びに行きたい一心で昼寝をしましたよ。


 道路と敷地の境目には、すっかり大きくなった珊瑚樹がちょうどよい目隠しになっていたし、道路からの照り返しを防いでくれていたものだった。


 いつの間にか眠ってしまったのだろう。表も裏も開け放してあるのに、さわさわとした風などまったくない昼下がりである。優しく揺り起こされた私は、同じように優しく妹をおこす母親を焦点の定まらない上体でぼんやり見つめていた。それが幸せであった。いや、それすら知らぬほうがよかった。

 妹の頭が激しく前後する勢いでゆすっていた母親が言った。


「表に金魚屋が来てるぇ」

 母親は生粋の京女なのである。が、それはともかく、私は表へとびだした。


 金魚鉢をずらりと並べたリヤカーが停まっていた。綺麗な棚に涼しげな金魚鉢を三段に重ねてある。棚にはご丁寧に屋根がかけてあった。屋根の支柱には朝顔がツルを這わしている。

 金魚鉢を置かないところには大きめの水槽があって、何種類もの水草や餌にする糸ミミズが入っていた。商売物の金魚といい、とても涼しげである。

 ところが、見た目の雅さとはうらはらに、主婦の買い物は果たし合いのようでもある。

 私が表に出たときには、すでに近所のおばさんが品定めをしていた。


「ちょっと、いくらなんでも値が高いよ。もう少し安くしてよ、それなら買うからさぁ」

 いかにも安っぽい和金を指差しておばさんが言い放った。


「勘弁してくださいよ。そんな値段じゃあ儲けがないよ」

 いったいいくらで交渉していたものかは知らないが、金魚屋にはとうてい承服できない金額らしい。


「なに? なんか言った? いいじゃないか、損さえしなきゃ」

 商人がいくら拒もうが、おばさんは屁とも思っていない。自分ひとりくらいなら損をしない額で我慢しろと言っているのである。


「だぁめだって、こっちは生き物で商売してるんだからね、いつ死んじゃうかわからないんだよ、そんな値段じゃ売れないよ」

 いくら商売だからといって、仕入れ値に小遣い程度の儲けを上乗せするくらいなら、他所の人に売ったほうがいい。金魚屋は買ってもらわなくてもいいと思い始めていた。


「わからん金魚屋だねぇ。死んだと思えばいくらかでも元はとれるだろ? 融通きかんような奴は出世しないよ、いいだろ?」

 おばさんの値段交渉は無茶苦茶である。

 が、そこはそれ、いくらかでも儲けになるとふんだのだろう、金魚屋は大事そうに金魚鉢を手に取った。


「金魚屋はん、これ死んでるがな」

 うちの母親が呑気な声を上げた。


「死んでる? どれが?」

 見れば、金魚鉢の底に沈んで腹を上にむけているのがあった。


「あらら、暑いから弱ったんだな……。あれ? かろうじて動いてるなぁ」

 腹を上に向けて沈んでいる金魚がもがくように尾びれを動かした。


「あほかいな! こんなん死んだんといっしょないか。しやけど、死んでもうたら可哀相やなぁ。……なんなら引き取ってあげてもえぇけど、どないします?」

 たしかに動いているには違いないが、動くというより痙攣しているような金魚を引き取ると母親が言ったのである。


「……そうぅ?、悪いねぇ。じゃあ、うんと勉強しとくから」

「なんぼやの? 高ぅ言うたらあかんえ」

 何を考えているのか、母親は値段交渉を始めた。


「これねぇ、きっと立派なアズマ錦に育つはずだったんだよね」

「アホ言ぃな、死にかけやんか。そんなん言うんやったら買わへんえ」

 未練がましく口ごもる金魚屋に母親がピシャリと言ってのけた。母親、二十九歳の夏の果たし合いが始まった。


「じゃあ、四百円でどうだね?」

「つかんこと(たん)ねるけど、あんじょう生きてたらナンボやの?」

 流暢な京都弁である。名古屋に引っ越して八年になろうかというのに、母親は頑なに京都弁を使っている。


「……これ……、五百円」

「そうか、五百円な。ほな、金魚鉢やけど、これナンボすんの?」

「金魚鉢は二百円だよ……」

 反射的に言ってしまってから、金魚屋はしまったという顔をした。


「へぇ……、そうかいな……。ほな、水代が二百円ゆうことやわなぁ」

 うちの母親は頭の回転が速い。金魚屋の失言を聞くや、お公家さんのように尊大な態度に豹変した。少し上向き加減になった顔はそのままに、母親は目を細めて睨み下げるような目つきで金魚屋を見つめている。


「いやぁ、水代が二百円なんてばかなこと……」

「そうやわなぁ、鍋一杯の水が二百円て、あほくさ!」


「いや、だから……、もし元気になったら値の張る金魚なんだし……」

「死んだら? こんなん死んだといっしょやないか? ようそんな無茶言えるもんやな」


「……じゃあ、三百円では?」


「……アホ! てんご言うたらあかん! 死にそうな金魚が百円もすんの? いやぁ! 名古屋の人ゆうたら、恐ろしいなぁ。えらいとこへ越してきたもんや……」

 絶妙な間をとっていた。すぐさま言い返すではなく、さりとて気まずくなるほどの沈黙もしない。二呼吸ほどの間冷たい目で金魚屋をねめつけたのである。


「……」

「もういっぺん訊ねますけど、なんぼやの?」

 言い様がなくなって黙ってしまった金魚屋に穏やかにたずねた。


「……二百円で……」

「あかん! 最初からそう言うてたら二百円で手ぇ打ちましたけどなぁ、言われてしぶしぶちゅうのが気に入りまへん。水草と赤子(糸ミミズ)付けなはい」

 こんどは瞬間であった。金魚屋の答えを予想していたかのように無駄な間を空けることはなかった。


「どういう人なの、この人。大阪人は鬼門だわ……」

 金魚屋は、心底呆れたように母親を見ていた。


「ちょっと、うちは京都ぇ。大阪やて、失礼やわぁ」

 母親はたいした豪傑である。そ知らぬ顔で切り替えしていた。


 家に金魚を持ち帰った母親は、すぐに水を新しいものに取替えた。

 父親が帰宅したとき、すっかり元気になったアズマ錦は気持よさそうな様子で泳いでいた。

 いったいどんなからくりなのか、今になっても謎のままである。


 ただ、町内で母親の存在感に重みが加わったことは紛れもない事実で、居合わせた人は今でもその当時を繰り返し語るのである。

 おわり。


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