素走りの徳(駅弁売り 徳松の五分間一本勝負!)
仲間内で素走りと異名をとっている男がいる。山内徳松。歳のころなら四十の半ば、よく陽に焼けた顔は漁師を思わせる。そのくせ腕には時計の痕がほの白く覗いたりもする。いつもブカブカのズボンを穿き、裾は靴下にたくしこんでいるのだが……、さっきまで履いていた黒いズック靴から地下足袋に履き替えていた。だから、どちらにしても裾はヒラヒラしようがない。
丁寧に包まれた箱をいくつも積み重ね、紙紐で絡げたものをさげている。人波から離れた徳松は、ほとんど人気のない場所までやってきた。
プラットホームの外れ、丸屋根の尽きるあたりに粗末な台がこさえてある。そこで荷ほどきにかかった。
台から取り出したのは立ち売りの箱。番重と呼ぶところもあるらしいが、徳松は単に立ち売り箱と呼んでいる。そこへ水彩画のような包装紙に包まれたものを積み重ねてゆく。
台の高さは徳松の腰より少し低い程度。積み重ねた包みは、もう徳松の視界を遮るくらいになっていた。
定番の幕の内はあまり売れていない。やはり当地の魚を使った名物弁当に目がいくようである。そのあたりを考えて並べ替えをし、土瓶型のお茶をいくつか添えた。
腹巻から取り出した袋には、つり銭がたくさん詰め込んである。
箱には大きな輪ゴムがかけてあった。つり銭を挟むためのゴムである。そこに品物の数だけのつり銭を差し込んだ。
つり銭とはいっても、今のように硬貨ではなくすべて札である。いちいち数えなくてもいいように、それぞれを一纏めにしてある。速く、そして間違わないための知恵だった。
千円札で受け取った時、五百円札で受け取った時、どちらにも便利なようにしておくのが徳松の習慣である。
徳松はちらっと腕時計に目をやった。いつも徳松が立つ場所はホームの時計が見にくいのである。だから思い切って車掌が使うのと同じ時計を買ったのだが、徳松にとっては高額の買い物であった。だから手首に包帯を一巻きしている。
その時計は十一時四十分近くを指していた。あと数分で徳松の花舞台が幕を上げる。
徳松はたった五分間に勝負を賭けていた。
「間もなく三番線に列車がまいります。危険ですので白線の後ろにさがって……」
列車接近の案内放送が流れた。ベンチで待っていた乗客が荷物を抱えて乗車位置へと移動を始めた。が、徳松はまだ動かない。
ジリジリジリジリ……
けたたましいベルが鳴り響いた。
「お待たせしました。間もなく三番線に急行高千穂号、東京行きが到着します。この列車は急行列車です。乗車券のほかに……」
この放送が始まると、あと二分ほどで列車がやってくる。徳松は、幅の広いベルトを肩にかけると腰を入れた。
前に目方がかかるのでどうしても反身になってしまい、うっかりしていると商品が崩れてしまう。前が見れて歩きやすく、しかも商品を崩さない反り加減が難しいのである。
そうして徳松は列車の最後尾が停まる位置に移動した。
「弁当―、べんとー……」
まだ列車が停まりきっていないのに、徳松は自慢の喉を披露した。
喧しくはなく、それでいてよく通る声である。
時刻はちょうど昼小前。蒸し暑さをしのぐためにほとんどの窓は開いていた。
「弁当くれ、牡蠣飯を三つだ」
「こっちにもくれ、どんなのでもいいから五人分だ」
徳松の狙い通りに弁当を求める客がひきもきらない。
「牡蠣飯三つで九百円です」
徳松は右手を客に差し出した。
徳松は絶対に商品の先渡しをしない。先に代金を受け取り、商品とともにつり銭を渡すのである。
しかし、その手際のよいこと。注文を受けてから商品を渡すまでに十秒もかからない。店売りでもそんな短時間では客をさばくことができないのに、徳松は客の下へ移動しなければならないのである。
そこへむけて、車内から買うことのできない乗客が降りてくるし、飲み物を台車に載せた売り子が徳松につかず離れず、あわよくば飲み物をついでに買わせようとしている。
そのどれにも素早く対応する徳松は、芸といってもよい身のこなしであった。
徳松の足は、片時も止まることがない。客に対応している間であっても、足はたえず動いている。そして、次にどこへ行けばよいかを見極めるために、両方の目はそれぞれ別の方向を見ていた。
右目で客がよこした札を確かめながら、左目は窓から身をのり出して手を振る客を捉えている。そして、品物を渡した瞬間に、京劇俳優のような流れる足捌きをみせるのであった。
停車時間はほんの三分。
停止直前から発車後しばらくまでの五分間が勝負なのである。
ジリジリジリジリ……
ベルが鳴り止むと、ゴトンと一ゆすりして列車が動き出した。
「おーい、弁当屋ぁ。こっちだ、こっち」
窓から身をのり出した乗客が激しく手を振った。
急いで駆け寄れば、牡蠣飯を四つだと言う。
徳松は速足になりながら代金を先に求めた。
早くはやくと急かしていた客は、いっこうに徳松が商品を渡さないのでしぶしぶ千円札を一枚よこした。
「お客さん、全部で千二百円」
代金不足を見咎められた客は、しぶしぶといった感じで残りの二百円を突き出したれ。
すでに駆け走りとなった徳松は、商品を鷲づかみして窓の中へ入れる。
すでに徳松は全速で走っている。制止しようとした駅員でさえ、徳松が箱を抱えたまま突進してくるので道を明けるしかない。
またやっちまったなぁ
徳松はホームの中ほどをすぎたあたりでようやく普通に歩く速さにもどった。
早鐘のように打ち鳴らす動悸を表すように、左手にしっかり握った売上金がワナワナと震えていた。
次の列車までは三十分以上ある。
箱には数えるばかりの売れ残り。たくさんの売れ残りを抱えた同僚たちの視線をあびながら、徳松は通用口へむかった。
素走りの徳、次の一本勝負のために気力を充実させようとしているのだろうか?
もしオリンピック種目に駅弁短距離走という種目があれば、間違いなく日本勢が金銀銅を独占するだろうに……。
全国に数多くいた徳松は、一人残らず姿を消してしまった。