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迷走境界線(身近な攻防)

 まずお断りしておくが、これは極めて親密な人から直に聞き知った実話である。



「日本人はマッチ箱のような家に住んでいる」


 ひと頃さかんに言われた言葉である。外国人に言われたのが始まりかもしれないが、我々日本人は自虐的な意味をこめて口にしたものである。しかし、たとえマッチ箱であろうが我が家を持つということは並大抵のことではない。国土の狭い島国の日本は、急峻な山国でもある。雨多く、雪深く、自然と激流が駆け下る秘境なのである。だから人が暮らすに適した土地は僅かしかない。その僅かな土地を皆が買い求めるのだから、庶民がおいそれと家を持つことはできないのである。

 その一方で、山間地に行けば顎が外れるような土地がゴロゴロしている。幹線国道に近い場所であっても、水道や電気、交通の便や買い物、学校など、とてもそこを住居にはできないようなところばかりである。



 前置きが長くなった。

 先の終戦から五年、抑留生活から開放されて復員してきた男がいた。

 当然生家に戻ったはよいが、そこは兄が跡を継いでいた。つまり、平たくいえば厄介者である。

 抑留生活でノルマを身につけた男は、土地の男たちとはまったく違う働き方をした。

 毎朝、一日分の仕事量を割り当てられた男は、仕事を始めると猛烈に働いた。ろくに休憩もせず、真冬だというのに上半身裸になって、それでも足りずに、汗まみれになって働いた。シベリアにくらべれば暑かったから裸になったというのだが、土地の者は異常者扱いする。兄は、世間でとかくの噂が広まらないよう、裸になることをやめてくれと懇願したらしい。

 が、男はそんなことに頓着せず、懸命に働いた。


 すると、昼前には割り当て分が終わってしまう。

 仕事をすませた男は、当然のように夕方までを寝てばかりいた。

 兄はそれを嫌う。手が空いたのならもっと働けと。

 男はそれを拒んだ。他の者より多く働いたのだから、今日は働かないと。


 徐々にノルマが増やされても、男はかたくなにそれをし遂げた後は気儘に寝ていた。

 いつしか他の倍近いノルマを課せられても、男は頑として課せられた以上の仕事をしようとはしなかった。

 すると、当然のように兄との間に軋轢が生じる。兄弟であるだけに、遠慮会釈のない言葉が飛び交ったそうである。


 その翌晩のことである。男は父親に呼ばれ、火燵で昔話に興じていた。

 男はタバコをよく呑む。だから右手の指が黄色くなっているくらいである。父親もタバコが好きであるが、こちらは刻みタバコ専門なので指は汚れていない。

 懐かしい話に気持がほぐれ、ついぞ男はタバコを口にした。だが、手にしたマッチを摺ろうとせず、じっと父親の手元を見つめている。父親は、くすんだ煙草入れに煙管を入れ、しきりとタバコを詰めているところであった。

 詰め終えた煙管を口に近づけ、父親は煙草盆を軽く掲げて火をともそうとしたとたんに激しく咳き込んだ。


 ウッフ、ウフウフ……、ヒィー……ゴホゴホゴホゴホ……

 ヒィーーー、ゴホゴホゴホゴホ……


 しばらく咳き込んだ父親は、素焼きの壷を引き寄せ、小さな蓋を取った。


 カーーーッ、ポッ。


 口に溜めた痰をそこに落として蓋を閉じた。


「そこまでしてタバコか? 少しはひかえたほうがいいぞ、咳だってもっと治まるぞ」

 男が親切で言っても、父親は旨そうに煙管に火を移した。


「なぁに、タバコが呑める間は達者な証拠だ、心配いるもんか」

「無理は言わないけど、ほどほどにしろよ」

 十年近く家を空けていたことから、父親の変貌ぶりを男は憐れに思っていたのである。

 逞しかった筋肉が落ち、すっかり頬がこけてしまっている。地黒だった顔色にしても、なにやら病的な色を感じていた。が、まだ還暦をすぎて間がないはずである。もう少し覇気があってもよい年齢である。


「なあ、お前はどう思っているかは知らんが、この家を出たほうがいい。あいつは財産が減ることを恐れている。女房がいて、三人目の子供が産まれたのだから仕方ないが、あいつは守りしか考えていない。つまらんことで仲違いするより、いっそこの家を捨てたほうがお前のためだ」

 父親は言い難そうに言葉をつないだ。


「なるべく早くに出てゆくさ。満州やシベリアにいたんだぞ、こんな狭い土地は息がつまるだけだ」

 男は端からそう考えていた。一家に何人も男が居る必要はないし、分家するほどの財産はないことぐらい男にはわかっていた。復員して目的が見出せないままズルズルと居候状態になっていただけだった。


「明日は山へ行こう。お前にだけ教えておいてやる」

 父親が小声で言った。長く話し込んでいる様子を訝ってか、兄嫁が用もないのにうろうろしだしたからである。


「おい、お茶をくれ。それと、餅を四つばかり焼いてくれ」

 家督を譲ったとはいえ、父親は専制君主である。ましてやそんな雑用を言いつけることは日常茶飯事であった。


「お前にだけ教えてやる。うちの山の境をな……」



 翌日の朝、兄夫婦が畑仕事にでかけてしばらくたってからのこと。男は父親に従って町への道を歩んでいた。

 町までは七キロほどあるのだが、家から一キロほどのところで道は急に右へ曲がっている。

 もう家からは絶対に見えない場所まで来て、父親は崖を滑り降りた。

 見た目には急な崖なのだが、あちこちに窪みが作ってある。大きな岩が腰を据えている。その窪みや岩をうまく伝えば、崖下の川原に降りることができた。子供の頃には棒切れを持って駆け回っていた男でさえ、そんな窪みや岩のことをまったく覚えていない。


 川にも飛び石がいくつかあった。

 わざわざ遠回りして飛び石を伝うあたり、父親は用意周到に行く先をくらましていたのかもしれないと男は思った。


 川を渡っても、父親は男の知っている山とは逆の方向に歩いていった。


「いかん! おい、いったん帰るぞ」


 ようやく足場がよくなってきたところであった。これから帰るとすれば相当な距離を歩かねばならないが、いったい何事だろうと男は思った。


「うっかりだ。これではいかん、……もうろくしたかな……」

「なんだ? 用事か? 忘れ物か?」

 どんなことが理由か、男はそれを知りたいと思った。わざわざ川を渡り、崖を上らねばならないほどの理由があるのか、不審に思ったのである。


「忘れ物といえばそうだけど……、タバコを詰めてくるのを忘れた……」

「……」

 男はムスッとしてタバコを箱ごと父親に突き出した。


「これじゃあいかん、煙管でのまにゃあタバコの味が……」

 男は煙管の火皿にゴールデンバットを捻じ込んでマッチを摺った。


「これは不味い。タバコの味が……」

 不平たらたらなのだが父親は目を細めていた。


「どこまで行くんだ? のんびりしてると昼になってしまうぞ」

 まだ軍隊生活が抜けていない男は、せっかちに先を促した。


「ついこの先だ。なに、一山超えるだけだ」

 父親は平気な顔で呟いた。



「あの頂に大きな岩が見えるか? あの岩と、この岩を結んだ線が境だ」

 樹林の間にびっしりと苔で覆われた、一抱ほどの石が転がっていた。山の頂近くにも大きな岩が地肌をみせていた。石と岩を結んだ線が境界。山奥の土地というものはその程度の約束で仕切られていたのである。


「まだこれを兄貴に教えていないのか?」

 こんなことくらい早く教えてやればよいのに、男は腑に落ちぬ様子で石と岩を結ぶ線を想像してみた。


 と、どうにも奇妙なことに気がついた。


「親父、大きい木があるけど、あれは何か意味があるのか?」

「あれは境界を示す木だ。あれを売れば金になる。あれもうちの木だぞ」

 父親は自慢げである。が、どう見ても境界線より隣に外れて立っている。


「親父、見てみろ、境を越した隣の木じゃないか」

「そんなばかな……」


「あれ? いつの間に……。転がったのかな?」

 何度見直しても石が動いたとしか考えようがなかった。どうにも腑に落ちぬ様子で石を見つめる父親に男が言った。

「動かされたんだ。そうでなきゃ、木が歩いたんだ」

「ばかなことを言うな、木が歩いてたまるもんか。……だとすると、隣がやったってことだな。どうしてやろう、怒鳴り込んでやろうか」

 男に言われて、思い当たることでもあるのか、父親は遠くを見るかのように視線をおよがせた。

「そんなことをして何になる? ずるい奴にはずるい仕返しをしなきゃいかん」


 何度も言うが、復員して間もない男は決断が速かった。来る日も来る日も死と隣り合わせであった。道理の通ることなら損を厭わないかわりに、道理を外す行為を決して許さない。それが一気に頭をもたげたのである。


 男は、近くを歩き回って太い棒を探してきた。しかし、それだけでは石を浮かすこともできないだろう。

 ―ーせめて鉈でもあればーー

 男は恨めしそうに竹林を睨み、石を睨んだ。


「親父、一旦帰って飯にするそ。昼から石を動かすからな。それで、親父は木を売れ。なるべく早く業者を呼んで売ってしまえ」

「……そうだな……、おいておけば財産だろうが、みすみす他人に奪われるのはばからしい」

「だから、木を金に換えて山を買えばいい」

「どうだ、ざっと四十本もあるか?」

 父親は頂に目を向け、大きく育った木をざっと数えていた。


「いや、少なく見積もって百本売れ」

「百本? そんなに木はないぞ」

 父親は目を剥いた。


「いや、木を倒せばそれがはっきりした境目になる。どうせ石を動かすんだ、それくらいやらにゃ。とにかく、先に悪さをしたのは相手だ、つまらん遠慮なんか必要ない」


 後日、山肌に幅の広い線が引かれたという。

 父親が境を示すと言っていた大きな木はもちろん、隣の土地に立っていた木が見事に伐り倒されたそうである。

 そこで得られた代金が別の山に形を変えたそうだが、男には興味のないことだったらしい。

 ただ、僅かなオコボレを握り締めて家を離れ、都会で所帯をもった。


 航空写真で境界を判定するようになったのはつい最近のことである。その現在であっても日常用いる境界は昔とまったく同じで、山の恵みはしばしば奪われているとか。

 つまり、こすっからい攻防は今も続いているのである。


 最後に情報の真偽だが、まさか父親の話を信じぬわけにいくまい?


 おわり


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