踏切警手
踏切警手
ジーッ、ジリジリジリジリジリジリジリジリ……
ベルが腹に響く音を立て始めた。ベレー帽ほどの大きさのリンをテコが盛んに打ち立てている。
壁板に固定されたベルは単にリンの音を立てるだけではすまさず、板壁の空洞を大鼓の胴に見立ててドドドドと鳴動している。
ここは踏切警手の番小屋、一瞬も息を抜けない戦場である。
ベルと連動した表示ランプが忙しなく明滅を繰り返した。
白い開襟シャツに青ズボンの警手が身をのりだしてベルを止めた。
警手の動きには澱みがない。
チラッと時計に眼をやり、壁一面に貼られている時刻表を指でなぞり、現在時刻に一番近い数字を押すようにした。
三分後に下り旅客列車が通過し、その三分後には上り貨物列車がすぐ北側の信号場を発車する。
時刻は十六時二十八分。退勤の人ごみで溢れるには少し間がある時刻である。
警手が勤めるのはちょっと特殊な踏切。国鉄と私鉄の踏切が並走する区間である。
二本の入れ替え線を含めた四線の国鉄。私鉄は複々線のため四線で、困ったことに駅ホームの端と踏切がつながっている。警手が勤めるのは国鉄踏切。しかし、私鉄踏切との間に退避場所がないので私鉄踏切と連携しなくてはならない。
国鉄線は一つの踏切で管理しているのだが、私鉄は一線、三線の二箇所で管理している。
午後五時にまだ間のある今頃は、比較的待たずに渡れる時間帯であった。
ギラギラとした陽射しはまだ西に傾いてはおらず、たっぷりと湿気を含んだ熱気がドヨンとした固まりを作っていた。
警手は入り口に備え付けの手旗を持って小屋の外へ出た。隣の踏切に軽く手を上げて合図をし、遮断機のハンドルを回した。
スルスルと遮断機を下げ、自動車が進入できない高さで一旦停める。
遮断機が下がり始めると、急ぎ足になって渡り切る人がほとんどである。そして、お約束のように遮断機をくぐって踏切に侵入する不心得者が後を絶たない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……
早く出ろという思いをこめて短い警笛を警手が吹いた。
足取りの遅い人が遮断機にたどりついたので、警手は一旦下げておいた遮断機をわずかに上げた、その時のことである。
元気のよさそうな若者が遮断機をくぐって踏切に立ち入ったのである。
ピピピピピィー。
仰天した警手は、激しく笛を吹くと同時に遮断機を下げきった。
列車の来る方向を見やると、視界いっぱいのところに黒ずんだ塊が現れた。踏切までの距離は約一キロ。四十秒ほどで到達する距離である。
走れば十秒ほどで渡りきれる踏切ではあっても、転ばないという保障はない。落し物をしないという保障もない。
悪いことは重なるもので、若者の横着に相乗りした老婆がいた。
本人は必死かもしれないが、いかにも呑気にポットンポットン。
早く、はやくと急かしてみても、依然のんびりポットンポットン。
業を煮やした警手は、老婆に駆け寄り担ごうとした。
しかし、海老のように腰の曲がった老婆は意外に大柄である。抱えて走るには重過ぎる、背負う時もありはしない。
黒い塊は見る間に大きくなって、機関車の顔がはっきりわかるようになってきた。
ピーーーーーッ、ピィピピピピピピピピピ……
機関車が狂ったように汽笛を連発した。その汽笛を聞けば機関士の狼狽ぶりがまざまざと見えるようであった。
警手は老婆の手を引いた。有無を言わさず引き摺り倒すつもりで渾身の力をこめた。
強く惹かれてもつれた足から草履が脱げた。
草履を拾おうと老婆は屈もうとする。そうはさせまいと警手は老婆の帯を掴んで無我夢中で引き摺った。
怪我の心配など一切ない。どんな怪我をしようが、たとえそれが骨を折るような大怪我であろうが、警手はそんなことに頓着していない。
ピィピピピピピピピピピピ、ピーーーーーッ……。
つんざくような警笛が連呼されているのに混じって、ギギィーーー、急制動をかける音が続いていた。回転を止めた車輪がレールの上を滑る、キィーーーーッという鳥肌立つ音も混じっている。
踏切板とレールとの隙間に足がかかった。
最後の踏ん張りであった。膝のバネを利かせて一気に上体を仰け反らせた。
直後であった。速足くらいの速度となった列車が警手の足先をかすめた。
窓から身を乗り出す乗客に気付くこともなく、警手は老婆を少しでも列車から遠ざけようとばかりしていた。転んだままの体勢にもかかわらず、掴んだ帯を引き揚げるようにしていたのである。
列車が半分も通過してようやく我に返った警手は、手放さなかった小旗を精一杯振った。
無事を知った列車が速度を上げて遠ざかってゆく。
騒動の大元である若者は、私鉄の警手に殴りとばされていた。そして、襟を掴まれて交番へ引き立てられて行く。警手は、遮断機操作を始めた同僚に合図して交番へむかった。
帯は胸元までたくしあがり、額と頬に擦り傷ができている。しかし、骨には異常がないようで、案外しっかりと歩いているばかりか、不平を言い募る元気すらあった。
全国からその警手が姿を消した今、無機質な警報機と、腕木式の自動遮断機が全国の踏切に設置されている。が、横着者はあとを絶たず、踏切事故は減っていない。
人の介在しない安全装置とは、本当に安全な仕組みだろうか。
失いたくない遺産のような気がしてならない。