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後編

 埃のうっすら積もった懐かしい部屋の中で私が記憶の扉を少しずつ開いていた時、現実に引き戻す携帯電話がポケットの中でブルブルと振るえた。バスに乗った時にマナーモードにしたままだったのか。エリからだ。


「もしもし?」

「まっちゃん?私。今どこにおるとぉ?今ね竹中くん達に会ってからね、何か話しよるうちに今から竹中くん家に集まる事になったっちゃけど、まっちゃんも来れん?なんかね、杉山達とかも呼ぶけん、早いけどプチ同窓会みたいになるかもしれんと。ちょお、待ってね、今みきちゃんと代わるけん」

「まっちゃん?絶対楽しいけん来ぃよ。うちら今まだ新天町におるっちゃけど、まっちゃんが来るなら、うちらだけこのまま天神で待っとくけん、一緒に行こ。他にも誘うっちゃけど、誰ば呼びたい?まっちゃん来られる?」


 電話の向こうのざわめきと友達の弾んだ声が静かな部屋にいた私の耳には異世界のように聞こえた。眠り姫のいなくなったイバラの城から現実世界は驚く程遠かった。胸が痛い。何故か泣きたくなった。


「…ごめん。今ね、ちょっとバタバタしとってから行けんみたい。ごめんね、せっかく誘ってくれたっちゃけど」

「えー、来れんとー?ねぇ、まっちゃん来れんげな」

「うっそ、何で」

 電話の向こうで何人かの話声がした。卒業したばかりの友達の声。仲が良かった男子グループと偶然出会うなんてすごいな。確かに今日を逃せばもう当分会えないかもしれない。杉山とは高2の時だけ同じクラスだったけど、多分高2の時の同窓会なんて今後開かれる可能性ナイもんな。受験末期から話してなくて卒業式も結局バタバタと写真撮っただけで話せてないんだよね。

「まっちゃん?」

「ん?」

 びっくりした。竹中くんだよね?みきちゃんの声が急に低くなったかと思った。

「オレ。オレん家分かるやろ?来れそうになったら来ぃ。待っとうけん。お前ももうすぐ福岡からおらんくなるっちゃけん、会いたがっとうやついっぱいおるっちゃけんさぁ。こげん沢山集まるのげな多分最後になるやん」

「うん、そうやね。分かっとう。ごめんね。行けたら行くけん」

「おう。じゃ」

「まっちゃん?みきちゃんとね、今日佐藤さんの家に泊めてもらうごとなっとうっちゃん。やけん遅くまででも待っとうけん、無理はせんで良かけど、来れそうやったら来てね。電話して。駅まで迎えに行くけん。何時でもいいよ。まっちゃんも泊まれそうやったら泊まっていいけん。いいよね?…いいって」

 思わず笑った。

「勝手に決めていいと?佐藤さんもそこにおると?」

「おらんけど、みきちゃんがいいって言ったけん、よかろーや。じゃ、また後でね」

 電話を切るといっそう静かになった。友達に会って一緒に遊びたい、という欲求もあった。でも、今はこの家にいたかった。友達とはいずれまた会える。すぐじゃなくても何年後かに。多分成人式とか、本当の同窓会とか。けど、この家は確実にもうすぐなくなってしまうのだ。なくなってしまえば二度と見られないのだ。こんなに大好きなのに。


 眠り姫のいなくなったイバラ姫の城は静かだった。そして寒かった。私が足しげく通った時期は春から夏の終わりだったから冬のこの家の事は殆ど記憶にない。冬になるとおじちゃんはトーコを連れて外国に行ったきりになる事が多かったからだという事を急に思い出した。

 ヒロユキおじちゃんの私物は処分されたのだろうか。何か残っているような気がしてそれが見たくなった。あの頃のモノ。

「これって泥棒になるとかいな」

 私はあまりの心細さに思わず独り言を言いながら、タンスの引出しに手をかけた。中身は思ったとおりまだあった。どの引出しの中身も多分ヒロユキおじちゃんが使っていた時のままだなのだろう。中身はぎっしり詰まっていた。引き出しを開けただけなら罪じゃないよね。親せきの家だからギリOK?

 きれいに整頓された衣服が何だかかわいらしかった。久子おばちゃんの性格上、処分したくてもしきれなかったに違いない。多分この家を取り壊す時に張り切って何もかも捨て去るつもりだろう。おばちゃんは一度動くと思い切りがいいのだけれどそれまでは何事にも躊躇する所があった。この家が今まで処分されなかったのはそういうわけかもしれない。時期が来たんだろう。実家を出る私のように。何もかも時期なだけなのだ。

 家の中のあちこちに、いなくなった主人を懐かしむ空気が流れていた。微かに何かの気配がする。これは家自身?それともヒロユキおじちゃん?…違う。何だろう。モスグリーンのポロシャツを着たヒロユキおじちゃんを覚えてる。おじちゃんのお気に入りの服だった。持って行かなかったんだな。


 私は他の足跡を求め、2階への階段を登った。踊り場のステンドグラスで思わず立ち止まる。コレってこんなにキレイだったっけ?


「このガラス窓はネ、この家を建てた人が異国から持ち帰ったモノなんだヨ。当時もトテモ人気があったヨ。ボクはここがスゴク好きなんダ。1階と2階の間って不安定ダケド、ココなら自分を見つけられルんだ。コノ、ガラスの光の中ナラ」


 急におじちゃんの声が頭に響いてきて私は息を飲んだ。幽霊とか怪奇現象とかではなく、それは記憶だった。だけどあまりにもが鮮明で私は手すりにしがみついた。耳元で言われたようにはっきりとおじちゃんの声がした。


 何?何で急に思い出すの?この家に来たから?!


 ヒロユキおじちゃんの独特のカタカナまじりの話し方。きっと文章にはちゃんと残せない話し方。私が遊びに来ても、おじちゃんは私をすぐにほったらかしにして「仕事ダカラ」と2階に行ってしまった。何となく私は後をついていけずに下の和室でトーコを眺めていた。トーコを眺めていると時間はあっという間にたった。夕方のアニメよりもトーコの顔を見ている方が楽しかった。家にいる時はドラマを見たい明日美姉ちゃんとチャンネル争いで涙を流すくらいアニメが見たかったのに。ヒロユキおじちゃんの家にもちゃんとテレビがあったし、私の家では見られない番組がいくつも見られたのに、私は殆どトーコにへばりついていた。

 私はもう子供じゃないからヒロユキおじちゃんの仕事の邪魔にはならない、とくだらないことを考えた。


 ヒロユキおじちゃんはもうとっくにいなくなった人なのに、彼への言い訳を考えながら2階への階段をゆっくりと登った。彼のテリトリー。何だろう。誰かの気配がする。ヒロユキおじちゃん?


 階段横、一つ目の部屋は客室だった。そのあまりにロマンチックな部屋に昔は気がつかなかった新たな発見をした。一度もこの家で会った事はないけどおじちゃんには恋人がいたんだ。間違いない。男の一人暮らしでこんな部屋、いくらここがお城みたいでも必要ないから。 この部屋を整えていた女性はとてもセンスが良かったんだろう。その人も外国暮らしをした経験があるのかも。外国のホテルみたいに可愛い部屋だった。

 2つ目の部屋は書斎だった。ヒロユキおじちゃんはここで仕事をしていた。あの椅子に座ってた後ろ姿を覚えてる。ヒロユキおじちゃんが何の仕事をしていたのか知らないけどこれだけ本があるのなら学者さんだったのかもしれない。本棚には外国の本から「優しい手紙の書き方」まで色んな本がぎっしり詰まっていた。でも、誰かの気配はこの部屋から感じるわけではなかった。私は自分の勘を信じて書斎を出た。

 そして、階段を挟んで左側の部屋のドアノブに手をかけた。鍵がかかっていた。私は書斎に逆戻りして、机の引出しの中をあさった。鍵、鍵。どこかにあるはず。1階も探した。ないわけがない。いや、おじちゃんは持っていってしまった?でも、それはおかしい。久子おばちゃんにこの家はあげちゃったんでしょ?全ての部屋の鍵を渡していないなんてあり得ない。開かずの間なんて普通の家には必要ないんだから。久子おばちゃんにあげた時点で残したモノは全ておばちゃんの好きになるのは分かっていたはずだ。あのおばちゃんに入れない部屋なんて見せたらドアを破壊して侵入するに決まっている。そんな無駄な事おじちゃんが望む訳がない。


 それにしてもどうして踊り場のステンドグラスと書斎の椅子に座った姿しか思い出せないんだろう。二階には何度も上がった事があるはずなのに。あんなに素敵な客室の事ですら初めて入った部屋みたいな気がしたのは何故。幼稚園の頃この家に何度もお泊まりした時、私は1階の和室ではなく2階で眠った記憶があるが、それがどの部屋なのかさっぱり思い出せない。あの客室でないことは確かだ。でも、ヒロユキおじちゃんの寝室で一緒に眠った記憶もなかった。だとすれば、鍵のかかった部屋で眠ったのだろうか。全く記憶がないけれど。おじちゃんの寝室は書斎の隣のはずだ。緑の壁紙の部屋。うん、これは覚えてる。寝室は記憶通りで、やっぱりそこにも鍵はなかった。


 部屋から部屋、引き出しから引き出しへと鍵を探しながら移動するうちに私は青くなった。普通の家にはあるはずのアレがないことに気がついたからだ。何年も人が出入りしなかった家なら当然あるはずのアレが全くない。私の部屋にも気がついたら存在するアレがない。


 家中、たった今磨き上げられたばかりのようにどの部屋にもホコリがなかったのだ。いや、違う。さっきまで確かにあった。だって私は空家独特の埃っぱい湿った空気を嗅ぎながらこの家の玄関で靴を脱いだもの。スリッパを脱いで和室に入った時、靴下が汚れるかなとぼんやり考えたもの。


 私はきょろきょろしながら、だんだんとパニックになっていた。この家は何かがおかしい。何もかもがおかしい。実は私は眠ってしまったとか?本当はヒロユキおじちゃんの家ではなくて自分の部屋のベットで寝ているのではないだろうか。


 ようやく玄関のクツ箱の中で鍵を見つけた。洋館に相応しい凝った作りの鍵。玄関のカギよりも小ぶりで、もっとずっと凝ったデザインの鍵だった。何でそんな場所に隠すようにして鍵が存在するのか理解出来なかった。


 私は自分のクツを履いてそのままヒロユキおじちゃんの家を後にする事も出来た。が、私の心は決まっていた。


 私は鍵を握りしめ、眠ったままのお姫様を揺り起こす為に2階への階段を上がっていった。そこに私がずっと眠らせてきた何かがあるのだ、きっと。

主人公がこの後異世界トリップするパターンとヒロユキおじちゃんの恋の話バージョンを続きとして書こうかな、と思っていたのですが、脳内で楽しんでるうちに大まかな設定を忘れてしまったので、続かないままです。

続きそうな終わり方をしてるのは書いた当時は続きを書く気満々だった名残でしょう。



かな美ちゃん達若者が使う博多弁は現在私が使うような言葉で、お母さんのはちょっと懐かしい博多弁です。お父さんの博多弁は現在70歳以上の博多ッ子じゃないとなかなか使わない表現を入れてます。分かる人にだけ面白い部分ですが、文字で見るだけでは分かりにくいでしょうか。

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