前編
私は来週、18年暮らしたこの町を出る。合格した大学に通う為だ。家から通える大学を選ぶ事も出来たのかもしれないが、どうしても家から出たかったから県外の大学ばかり受験した。合格出来て良かった。
「かなちゃん、もっかい準備したとば確認しときぃよ。後から電話で何が足らーん、あれも足らーん言ってきてもお母さんは知らんけんね。家ば出るって事はそげんことよ。明日美姉ちゃんやったら、言われる前に何でもしよったとに」
「わかっとうよ。もう荷物の準備げなほとんど全部出来とうと。お母さんは黙っとって」
「まーたそげん口聞いてからくさ。ほんにこの子はいやらしか」
お母さんが私の心配をしてくれて色々言ってくれているのは分かっている。でも、それならどうしてもっと優しい言葉じゃないんだろ。甘やかすと子供はまっすぐ育たない、なんて間違ってる。お母さんは知らないだけで、明日美姉ちゃんは東京の大学に行ってからのびのび暮らしているのだ。今は一つ下の彼氏と同棲までしている。お母さんがこの事を知ったら寝込んでしまうに違いない。自慢の長女が!ってさ。お母さんの中では結婚前の男女が一緒に暮らす事はとんでもなくふしだらなのだ。お母さんは昭和が一番良かった、と信じてるタイプ。
明日美姉ちゃんからは昨夜も電話があった。
「かな、家ば出れば好きにやれるっちゃけん、もう少しだけ我慢しときぃよ。今何か面倒な事ばやらかして監視されるようになってん、家ば出た方が面倒くさかったって事になるかもしれんっちゃけんね」
「だって最近本当に頭くるっちゃもん。マジでお姉ちゃんが家ば出てから本当に最悪っちゃんね。やっと出れるけん、嬉しかぁ。お姉ちゃんもようあげん今まで上手に我慢しとったねぇ。あの頃のお母さんが今おったらぶちきれとうもん」
「要領よくやった方がいいけんね。私がこずるかったけんあんたには迷惑ばかけたかもしれんけど」
「なぁん言いようとよ。明日美姉ちゃんがおったけん、私も家ば出てから県外の大学とか行けるっちゃない。先に優秀なのがいいお手本ば作ってくれとうけん良かったとよ。そうでなかったら絶対に県外へ進学げな出来んかったけん」
それからしばらく普通のおしゃべりをした後、急に明日美姉ちゃんは真剣な声で言った。
「町ば出る前に気になる所は全部行っといた方がいいよ。特に、ヒロユキおじさん家。あそこ、とうとう取り壊すかもしれんって」
ヒロユキおじちゃん。その名前を聞くと一瞬時間が止まってしまう。あの時から、何度でも。
「ヒロユキおじちゃん家が?何で?」
「久子おばちゃんが、あそこにアパートみたいなんば建てたいらしいよ。もともと取り壊す話はかなり前から出とったっちゃけど、伸び伸びになっとったとよね。でも、そろそろ本当に決まるらしいけん。
あんたが夏休みに帰った時にはもうないかもしれん。私も昼間由紀子ちゃんから久しぶりに電話があってから、そん時に聞いたっちゃん。
かな、私もあれ以来1回も行っとらん。バイトが上手く休めれば帰って見に行くかもしれん。バイト先で怪我して入院した子がおるけん多分無理っちゃけどね。シフト今めちゃくちゃやもん」
ヒロユキおじちゃん。もう何年も記憶の中に封印してきた名前。その特別な名前に胸がうずいた。
翌日さっそく、久子おばちゃんの家に行き、ヒロユキおじちゃんの家のカギを借りた。おばちゃんは留守だった。代わりに妊娠9ヶ月で里帰り中の由紀子姉ちゃんが重たいお腹で出迎えてくれた。
「何か久しぶりやねぇ。あの家の事、明日美ちゃんから聞いたっちゃろ。私もおととい家に帰ってきてからお母さんに聞いてびっくりしたとよ。もともと眺めがいいけん、売ってくれっていう話は何度もあったっちゃけど、まさか今更取り壊すとは思わんかったぁ」
由紀子姉ちゃんは昔から察しのいい人で、カギを私に渡す時に、ウインクした。
「好きなだけ借りっとっていいけんね。また昔みたいに入りびたっときぃ。かなちゃんに貸すんやったら家のお母さんも何も言わんやろ。やけど、もう来週にはあっちに行くっちゃろ?忙しかねぇ」
私が頷くと、由紀子姉ちゃんもにっこりした。
「赤ちゃん、楽しみにしとうけんね。すぐには無理かもしれんけど、夏休みには絶対帰ってくるけん、そん時いっぱい抱っこさせてね」
「分かった。私も帰って来るとば楽しみに待っとうけんね。大学生活ば思いっきしエンジョイしてきぃね。寂しくなったらいつでも電話ばして来ていいけん。由紀子姉ちゃんの携帯は常にマナーモードでかなちゃんの電話ば待っとくけんね」
「そげん事しとう暇げななかろーもん。赤ちゃんは24時間寝たり起きたりするっちゃろ。よかとよ。寂しかったら手紙ば書くけん。カギ、ありがと」
久子おばちゃんが急にヒロユキおじちゃんの家の処分を考えたわけではなかった事に、何となく安心した。昔から久子おばちゃんはお世辞にもおじちゃんを好きそうではなかったから。だから何か暗い理由で取り壊しのような事になったのではないかと思ったのだ。恨みとか。「お金になる」って話だったらどんなに私があの家を好きでも持ち主の久子おばちゃんに文句も言えない。確かにあの場所は高く売れそうだ。今まで売らなかったのが不思議なくらいだ。実の兄妹で憎み合うというのは悲しい事だけど家族の分だけ色んな形があるのだ。家だってよその事なんか言えない。久子おばちゃんがいつからヒロユキおじちゃんを嫌いなのかは分からない。もしかしたら大人になってからかもしれない。そうなると明日美姉ちゃんと私だっていつかいがみ合う可能性がゼロではないのだ。今のとこ全く想像出来なくて良かった。私が明日美姉ちゃんを嫌いになるという事は確率としてものすごく低いので、嫌うとしたら明日美姉ちゃんが私を嫌いになるって事だ。その確率はそんなに低くないかもしれない。小さい頃から迷惑を散々かけた事実は消えやしないから。
ヒロユキおじちゃんの家は町の高級住宅地がある丘にあった。丘のてっぺん近くと言ってもいい位置だ。急な坂道を登っていくと、だんだん道路が広くキレイになっていき、そこら辺りまで来ると大きなお屋敷が沢山並んでいるのだ。高級車もよく見かけた。ジョギング中のおばさんのジャージ姿ですら洗練されている感じがしたものだ。私の中ではその場所は小さなニューヨークだった。私がそう言ったらヒロユキおじちゃんは楽しそうに笑ったっけ。
小さなニューヨークを抜けて、まだ更に上に行くと、古い家並みが並ぶ。どの家にも手入れの行き届いた大きな庭があった。外国人の観光客が訪れたなら、「オー、ワンダフル!」 って言っちゃうだろう。そのくらいその辺りは「日本」って感じだった。せちがらい世の中から切り離された「古き良き日本」で、その中にヒロユキおじちゃんの小さな洋館の家があった。中心と言ってもいいくらいの場所にちんまり存在していた。ヒロユキおじちゃんの庭は周りに比べると小さかったけれどバランスが取れていた。
空想好きな私にとってその家は眠り姫のイバラの城だった。イバラの代わりにいい感じに壁にはツタが絡んでいて、それはうっとりする光景だった。この年になってもあの家の素晴らしさを表現する言葉が見つからないのが口惜しい。現実の中にふわっと現れたファンタジーの世界のなのだ、あの家は。
子供の頃毎日のように通っていた時にはそうでもなかった坂道が、18歳の私にはやけにきつかった。…いや、あの頃もきつかったっけ。
「ヒロユキおじちゃんはこげんきつい坂道ば歩くの嫌にならんと?私はしんどかぁ」
私がぜいぜい息を切らしながらたどり着くと、おじちゃんは笑いながら色んな飲み物を出してくれた。それは紅茶だったり、カルピスだったり、カフェオレだったり。とにかくいつもお洒落な飲み物だった。ヒロユキおじちゃんの出してくれる飲み物は普通の麦茶ですら、家の麦茶とは何かが違った。香ばしいその匂いで初めて私は麦茶を美味しい飲み物だと知ることが出来たのだから。一度意識するとお茶の香りというのはどうしてそれまで気がつかなかったのか信じられないくらい鼻を刺激する。それは幼児にだって分かる違いだった。
洋館と言ってもヒロユキおじちゃんの家は完全な外国の家ではなかった。畳の部屋もあった。外国の人が日本に建てた家でもなかった。外国に住んだ事のある日本人が外国を懐かしんで建てた家だったらしい。いつか誰かがそのような事を言っていた。
私があの家を眠り姫の城だと考えたのには訳があった。本当に眠り姫がいたのだ。決して起きる事のない眠り姫。それは一つの人形だった。小さな、しかし精巧な作りの日本人形。
その人形の名前は「トーコ」と言った。
トーコは黒い肩までのまっすぐなおかっぱ頭の、本当に美しい人形だった。私は初めてトーコを見た時に感じた自分の中が透明になっていく感覚を忘れる事が出来ない。
桐のタンスの上がトーコの指定席でトーコはいつもそこに静かに佇んでいた。
今ではヒロユキおじちゃんの名前は私の家では禁句になっている。「トーコ」という名前も。瞳子という名はかつて私の名前だった。名づけ親はヒロユキおじちゃん。だが、私が10歳になったある日、おじちゃんが私の家を訪れて宣言した。
「トーコの名前を返してモラウよ。おチビちゃんには新しい名前をつけるとイイ」
おチビちゃんと言うのはヒロユキおじちゃんが時々呼ぶ私のあだ名だった。思いがけないヒロユキおじちゃんの発言にお母さんもお父さんも激怒し、大喧嘩になった。明日美姉ちゃんの記憶では私の出生時に名前をつける時にも大分悶着があったらしい。
「今さら何ば言いようとですか、ヒロユキさん。あんたがこん子に名前ばつけるて言うたとでしょうが。私らが用意した名前ばやめさせてまで無理ば通したとでしょうが!あんたが言い張ったとよ。ほんにおかしか事ば言いよるよ。大体が戸籍とか色んな問題がありましょうが。冷静に考えてもどげんもこげんもしよんのなか!」
あの頃はまだお父さんが家にいた。ヒロユキおじちゃんは激怒しているお父さんの事に全く動じなかった。ヒロユキおじちゃんは沢山の書類をお父さんに渡すとにっこり笑った。
「コレカラの手続きは弁護士と相談してくだサイ。私にはモウ時間がありませんノデ」
…記憶が途切れ途切れだ。それからどれくらい経ってからか、案外大して時間はかからなかったような気もするが、私は瞳子から今の名前の「かな美」になった。名前が変わるのはおかしな経験だった。小1の時からずっと私のあだ名が名字から来た「まっちゃん」だったのが幸いしたのか深く追求されなかったのは幸いだった。高校を卒業した現在、今の仲良し達は私の名前が変わった事なんか知らないコが殆どだし、知ってるコも忘れてるかも。少なくとも本人の私ですら考える事が殆どないくらい改名は私の中で問題じゃなかった。
「おじちゃん、何でトーコと私の名前ば一緒にしたと?赤ちゃんの時の私がこげんかわいかったけん?」
今思うとものすごく厚かましい質問だが、幼稚園生の私は無邪気に尋ねた。ヒロユキおじちゃんは困った風に微笑んだ。
「同じ名前はイヤかな?」
「ううん、嬉しい。トーコの事、すごい好きっちゃもん」
「ソウか。良かった。…大事な名前なんだヨ」
名前を返してもらうってどういうことだろう。おじちゃんは何がしたくて私に瞳子と名付けたんだろう。それは最初から取り戻すつもりで?それとも私がその名前に値しない人間だったから?




