賢明な婚約破棄ですね。私が暗殺者だって知ってたんですか?
「婚約を破棄する。今すぐこの国から出て行ってくれ」
婚約者のアレクセイが険しい顔でそう告げる。
「……そんな急に……なぜ」
大きな動揺を隠すため瞬きを数回。そして、困惑を口にすると、アレクセイは眉間のしわをさらに濃くした。男性のものでありながらしなやかな白い手が煩わしそうに自身の髪に触れている。丁寧に手入れされ、束ねられた長い髪は皇帝に連なるものの証だった。
「そんなこと、君が一番よくわかっていると思うが?」
アレクセイはそう言って、小さく笑った。ここまでかと、そう悟って私はドレスの中に隠したナイフを探る。
この帝国の第二王子、アレクセイの婚約者エカテリーナに成り代わり、彼の暗殺を企てていたが、計画の実行目前でターゲットにバレるとは。
――賢明な婚約破棄ですね。私が暗殺者だって知ってたんですか?
そう言いそうになるのをこらえる。任務を完遂するのをあきらめたわけではない。
「ただ君には感謝している。いままで僕がこんなに楽しく過ごせたのは君のおかげに他ならない」
アレクセイはそう言って私に穏やかに微笑みかける。その笑顔に拍子抜けしてしまって気が少し緩んでしまう。もう少し、話をしたくなってしまった。
「……いつから、気が付かれていたのですか」
「君がエカテリーナではないことをかい?」
私が頷くと、アレクセイは困ったように首を傾げた。
「君はとてもうまくやっていたと思う。容姿はもちろん、立ち姿、仕草や話し方、ドレスの選び方までエカテリーナだったよ。僕以外に気が付く人はいないはずさ」
「では、なぜ……」
アレクセイの顔がひどくゆがむ。
「エカテリーナは美しく聡明で、野心に溢れる淑女だった。僕の婚約者は彼女には役不足でね。……彼女は国母になりたかったようだ」
アレクセイは急にシャツの袖をまくり、腕をあらわにした。かつて一度も私に見せることのなかった肌が現れる。鋭利なもので引っかかれたような細く深い傷跡が幾本も残っていた。
「彼女は二人になると僕を皇太子にするといつも言っていたよ」
アレクセイには兄がいた。この国を力で収める皇帝の跡継ぎにふさわしいと称えられる優秀で残忍な兄が。心優しく、虫も殺せないようなこの男では到底かなうはずもない兄だ。
「知っての通り、兄上にかなうはずもないからね。彼女になにかと比べられては、指導と言ってこのざまさ」
おどけたように肩をすくめるアレクセイ。虚勢だというのはすぐに分かった。彼の目の奥には抵抗をあきらめ、暴力を受け入れざるを得なくなった人間の色が見える。あの色は、初めてエカテリーナとして彼の前に立ったその日から一度も消えたことがない。
「次会うときは殺されると思っていたんだ。あの日、彼女はひどく怒っていたからね。次は二度と起きられないような睡眠薬を持ってくると言われた」
私がエカテリーナに成り代わる少し前、彼の兄は婚約破棄をした。婚約者の不義が原因ということになっているが、婚約者の父が皇帝の機嫌を損ねたからだ。エカテリーナは次期皇帝との婚約チャンスを、アレクセイと婚約していることでみすみす逃したことになったと思ったのだろうか。
「けれど、次は来なかった。君が来るようになったからね。君はきっと僕を殺しに来たと思った。僕の人生、これで終わるのかと思ったよ」
アレクセイはそう言って嬉しそうに顔をほころばせた。
「君、なかなか殺さないから」
思わず顔が歪む。そうだ。殺すタイミングなどいくらでもあった。さっきだってそうだ。ナイフに手をかけ、そして、今じゃない、いつでも殺せると自分に言い訳をして手を放す。それを今まで何回、いや何十回、繰り返したのだろうか。
「君と過ごした日々は僕の今までの人生のなかで一番の幸福な時間だった。君もそうだったと、思いたい」
アレクセイと交わした言葉がいくつもよみがえる。教えてもらった花の名や、ともに飲んだ紅茶の香り、一緒に見た空。任務を覚えていた瞬間があっただろうか。私はいつから彼を殺す標的としてではなくアレクセイとしてみていたのか――。
そこまで思って、私は考えることをやめた。これは暗殺者として育てられた私の最初の任務だ。失敗など許されない。彼を殺さず本国に戻ることなどできるはずがなかったのだ。
「でも、これで最後だ」
アレクセイがまっすぐ私を見つめる。真剣なまなざしをみて、以前彼がこの国のありようを語っていたときのことを思い出した。
「もう一度言うよ。君との婚約を破棄する。今すぐ君は自国に帰ってくれ」
「……なぜ、いま」
絞り出した声にアレクセイは困ったように笑う。
「それは君もよくわかっているはずだ。この国はもうだめだよ。そうだろう?」
本国から帰還要請が来た。帝国との戦争が始まる。いや、戦争なんてものではない。帝国を地図から完全に消すための作業だ。
だから、私の仕事は必要なくなった。もともと第二王子を殺すなんて、わざわざしなくていいことである。
悪逆非道を尽くす皇帝一族と甘い汁を吸う帝国貴族。本国が帝国を滅ぼす準備を終えるまで、彼らを引っ掻き回すための時間稼ぎだった。エカテリーナのふりをしたのはそのために帝国貴族の犯行に見せかける必要があったのだ。
けれど、そんなことしなくてもエカテリーナは勝手にアレクセイを殺していただろうなんて、とんだ笑い種だ。
そして、真の婚約者であったエカテリーナよりもアレクセイを愛してしまった私は、とんだ愚か者だ。
「巻き込まれないように逃げてくれ。 少しならお金に換えられそうなものは渡せる。行く当てがないならそれを使ってくれ。もし、僕を殺せば帰れるならそうしてくれ」
――何も知らない人に殺されるより、ずっといいかもしれない。
アレクセイがそう言ったとき、私の中で何かがはじけた。
何か。というのは正確ではないかもしれない。嫉妬、怒り、愛情、独占欲、言葉に表すことはできない激情、衝動。
ただひたすらに、アレクセイを殺すのは、ほかの誰でもない私だと、そう思い至った瞬間、私の手にはナイフがあった。
*******
他国への侵略戦争を繰り返し一大帝国となった国は、民へも圧政を敷いていた。人々は飢えに苦しみ、少ない食物を奪いあった。平和を祈る心は荒み、憎しみの連鎖は止まらない。絶望の中、立ち上がった一人の少年。彼の言葉に一人二人と後ろに続き、隣国もそれを支持した。
革命の輪は広がり、民は帝都に集まる。彼らの正義の行進は城にまで届き、皇帝やその一族、そして甘い蜜を享受していただけの簒奪者たちをすべて打ち滅ぼした。
帝国のあった地には新たな国ができた。
――新しい国でかつて苦しんだ人々が笑って暮らせることを願うばかりだ。
「なにを読んでいるんだ? 難しい顔をしている」
声をかけられて、顔を上げる。彼は両手に持っていたマグカップを2つテーブルに置いた。
「……帝国のこと」
「あぁ、そういえばここまで革命の知らせが来たようだね。さっき旅商人が話をしていたよ。街の人はあまり興味がなさそうだったけど」
「そうなのね。遠いからかしら」
街の人たちにとっては海の向こうの国。私にとっては数か月前までいた場所の話だ。すこしでも状況がわかればと手に取った新聞だが、大したことはわからなかった。ただ、この街に住むのにはこの程度の情報のほうが都合がいい。
「新聞でこれなら、大丈夫ね」
「そりゃよかった。ここは住み心地がいいから」
「まだ油断しないでよ」
私がそういうと、彼は肩をすくめる。
「わかってるさ。ところで今日の晩御飯だけど旅商人から向こうの大陸のレシピを教わったんだ。試してみないかい?」
楽しそうに今日食べるものの話をする姿は、数か月前までの姿とは似ても似つかない。短く切りそろえられた髪、日焼けした肌、傷跡だけはまだ残っているが、快活に笑う姿は平民街で働く青年そのものだった。
あの日、二人ですべてを捨てて逃げ出した。革命の行進と逆方向に走り続けた私たちは港の街にたどり着いたのだ。
「結婚してくれ」
彼が私を抱きしめた。彼の瞳にかつて見たあの色は少しずつ薄まっている。
「あら、私が暗殺者だって知らないのかしら?」
私がそう言っておどけてみせる。
「知ってるさ」
彼は愛おしそうに目を細め、そして、より強く抱きしめた。
「僕は君に殺されたんだから」
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