第2話-青と琥珀
その日の午後、セレスティアは一人で庭園を歩いていた。
本来であれば侍女が付き添う時間だ。
けれど彼女は、ほんの僅かな間だけ一人になることを選んだ。
理由は、特別なものではない。
ただ少しだけ、静かな場所にいたかった。
整えられた庭園は、今日も完璧だった。
花は季節に合わせて咲き揃い、一本たりとも乱れはない。
それはまるでこの屋敷そのもののように。
セレスティアはゆっくりと歩を進める。
白いドレスの裾が草花をかすかに揺らした。
その時だった。
かすかな音が、耳に触れた。
「……?」
足を止める。
風の音ではない。
葉擦れとも違う。
もっと小さく、か細く、途切れそうな……
鳴き声?
セレスティアは音のした方へと視線を向けた。
庭園の奥、手入れの行き届かない一角。
人の目が届きにくいその場所に、黒い影が見えた。
近づくと、それが何であるかはすぐに分かった。
猫だった。
だが、ただの猫ではない。
白い毛並みは泥と血に汚れ、ところどころ無残に裂けている。呼吸は浅く、体はほとんど動かない。
誰かに傷つけられたのだと、一目で分かる有様だった。
「……ひどい」
自然と言葉が零れた。
その声音に、猫の耳がわずかに震える。
薄く開いた瞳がセレスティアを映した。
スカイブルーと、琥珀色。
自分と同じ、オッドアイ。
その事実に胸の奥がかすかに揺れる。
けれど次の瞬間には、彼女は静かに膝をついていた。
「大丈夫よ」
そう言いながら、そっと手を差し伸べる。
逃げる力すら残っていないのか、猫は抵抗しなかった。
触れた瞬間、伝わってくる体温はあまりにも低い。このままでは、長くは持たないだろう。
(……せめて)
苦しみだけでも、取り除いてあげたい。
それは打算ではなかった。
役に立つかどうかでもない。
ただ、そうしたいと思った。セレスティアは目を閉じ静かに、魔力を巡らせる。
本来ならば控えるべき行為だと理解していた。
けれど躊躇いはなかった。
淡い光が彼女の掌から溢れ、猫の体を包み込む。
ゆっくりと、傷が塞がっていく。
荒れていた呼吸が、次第に穏やかになっていく。
その代わりに胸の奥で、何かが軋んだ。
「……っ」
一瞬、呼吸が乱れる。
けれど彼女は手を止めなかった。
最後までやり遂げる。それが当然だと、そう思っているから。
やがて光が収まると、猫の体は見違えるように落ち着いていた。完全に癒えたわけではない。
だが、少なくとも苦しみは和らいでいる。
猫はゆっくりと目を開けた。
そして、セレスティアを見上げる。
その瞳には、確かな意思が宿っていた。
「……よかった」
セレスティアはほっと息をつく。
その瞬間だった。
猫の体が、淡く光を帯びた。
「——え?」
驚く間もなく、光は強くなっていく。
やがて、それは一つの輝きとなって、ふわりと浮かび上がった。小さな、結晶のような光。
それが迷うことなくセレスティアの胸へと吸い込まれる。
「……なに、これ……」
理解が追いつかない。
けれど次の瞬間、全身に異変が走った。
心臓が、大きく脈打つ。
硬く、冷たい感触が一瞬だけ強くなり、その後不思議なほど軽くなる。
同時に意識が揺らいだ。
視界が歪む。足元が崩れる。
「……っ」
立っていられない。体から力が抜けていく。
その代わりに、別の感覚が流れ込んでくる。
音が、やけに鮮明だ。
風の匂い、土の湿り気、草の擦れる気配……
すべてが、過剰なほどに感じられる。
そして
視界が、低い。
ありえないほどに。
「……え」
震える視線の先にあったのは、白い毛に覆われた小さな前足だった。
理解したくなかった。けれど、理解してしまう。
(……私、が)
言葉にならない。
代わりに、喉から小さな音が漏れる。
それは人の声ではなく
「にゃ……」
か細い鳴き声だった。
その音を最後に、セレスティアの意識はふっと途切れた。視界の端で、猫だったはずの存在が、静かに動かなくなるのが見えた。
まるで役目を終えたかのように。
庭園には、再び静寂が戻る。
ただ一つ違っていたのは、そこに小さな白い猫が一匹、横たわっていることだけだった。
青と琥珀の瞳を閉じたまま。まるで、眠るように。




