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【現代】短編読み切り

あいつと彼女の「嫌なところリスト」を書こうとした日

作者: 夏灯みかん
掲載日:2026/02/03

 「んー……」と小さくうなりながら、藤村さんは首を右斜めに傾けてキャンバスを眺めた。後ろで1つに結んだ黒髪が傾いて、首元が普段は見えない角度で見えた。僕は左の耳の付け根に小さいホクロを新発見した。


(たちばな)くん」


「はい!」


 急に名前を呼ばれて、僕は授業中に居眠りをしていたところを先生に指名された時のような返事をしてしまった。藤村さんは少し驚いたように目を大きくした。驚くと、人間の目は、比喩じゃなく、本当に少し大きく開くんだなと、僕はまた藤村さんの目を見つめてから、慌てて視線をそらした。


「――どうかした?」


「何でもないよ! 藤村さんこそ――どうかした?」


「うん。――なんか、色が暗いかな、私の絵」


 藤村さんのキャンバスには、正面の机に飾られた花瓶に生けられた椿の花が写真みたいな正確な筆致で描かれている。藤村さんの絵はいつも、そこにあるものをそのまま映し出している。


「――部屋の空気感が、出てる感じで、すごくいいと思う」


 僕は美術室を見回した。

 冬の17時。外は薄暗く、美術室内には僕と藤村さんしかいない。

 テスト前なのもあり、他の部員は16時半くらいには全員帰ってしまった。

 古いストーブは効きが悪く、二人きりの美術室は物理的にも心情的にも寒々しい。

 藤村さんの絵の色合いは、そんな室内の空気感まで正確に表現していた。


「橘くんのコメント、いつもしっくりきて嬉しいなぁ」


 藤村さんはにっこりと微笑んだ。その笑顔に鼓動が早くなる。


「橘くんはどう? 進んだ?」


 彼女は僕のキャンバスをのぞきこんで、弾んだ声を上げた。


「わぁ。絵本の挿絵みたいで素敵な庭園だね」


 僕のキャンバスには、噴水と、それを囲む花畑が描かれている。

 ゲームの背景のような、空想の庭だ。


「――想像で描けるの、本当にすごいよね。私は、実物を見ないとイメージが湧かないよ」


「そうかな。僕は藤村さんの方がすごいと思うけど……。写真みたいだし、そのまま時間止めて切り抜いたみたいな……」


「予備校でもそのあたり……技術力っていうのかな……は褒められるんだけど……、表現力は評価が悪くてさ。熱が伝わってこないって先生に言われて、よくわからなくなってる」


 藤村さんは肩をすくめた。

 彼女は美大を目指して、今、週に何回か絵の専門学校に行っている。

 僕みたいな、”なんとなく部員”とは本気度が違うのだ。


 藤村さんは伸びをして笑った。


「あー、でも、部活だと、のびのび描けて楽しいなぁ。橘くんも残ってくれて、ありがたいよ。みんな帰っちゃって、1人になると、さすがに寂しいもん」


 僕はうつむいた。顔が赤くなる。

絵が描きたくて残っているわけではない。藤村さんが残るのがわかっているから、僕も残っているだけだ。

 ――けれど、そんなことは、恥ずかしくて口には出せない。


「……みんな帰っちゃうと、静かで、集中できるよね……」


 そのとき、ガラガラガラっと大きな音を立てて、扉が開いた。

 藤村さんがぱっと表情を明るくして振り返るのを見てから、僕は少し視線を落として、扉を開けたやつを見た。


浩人(ひろと)、やっぱり今日も残ってるじゃん」


 入ってきたのは、ジャージ姿の茶色い短髪で、静かな美術室に似合わない雰囲気の男子生徒――伊東(いとう) 爽太(そうた)。サッカー部に入っている、僕と同じ中学出身の地元の友達。


「伊東くん、部活お疲れ様」


 僕が口を開く前に、藤村さんがさっきまでよりワントーン高い声で爽太に話しかけた。


「藤村さんもお疲れー」


 爽太はにっと笑ってそう言うと、藤村さんのキャンバスに視線を移して「お~」と感嘆の声を上げた。


「藤村さんの花、きれいだなー!」


 小学生みたいな感想だな、と僕は内心思ったけれど、藤村さんは「ありがとう」とはにかんだ。――僕が彼女の絵に対して、どんなふうに言語化してコメントをしても、見せない表情。


 次に爽太は僕の絵を覗き込んだ。


「浩人のは相変わらず、ファンタジーだな!」


「爽太、ジャージのまま何の用だよ」


 爽太はにっと歯を見せて笑った。


「いや、お前がまだ残ってるなら、一緒に帰ろうって言いにきたんだよ。もう帰るだろ?」


「帰るけど……、サッカー部のやつらと帰ればいいだろ」


「いや、なんか疲れたから……」


「はぁ?」と首を傾げると、爽太はジャージ姿で肩をすくめた。


「いいじゃん、どうせ方向同じだし」


 同じ地元出身なので、僕と爽太の家は近所ではある。


「……私もそろそろ帰ろうかと思ってたんだ」


 そんな僕らを見ていた藤村さんが立ち上がった。

 どちらにせよ、冬は17時には完全下校だ。

 僕も立ち上がると片付けの準備を始めた。


「じゃあ、俺も着替えてくるわ。置いてくなよー」


 爽太は手を挙げて、美術室を去って行った。


 ◇


 藤村さんと並んで筆を洗う。水が流れる音だけが響いて、無言だった。

水が手に跳ねて、冷たくて、思わず手を引っ込めた。


「……橘くんって、」


 不意に藤村さんが口を開いたので、僕はびくっとして顔を上げた。


「……部活もクラスも違うのに、伊東くんと仲がいいよね」


「うん……。まあ、同じ中学だし……。あいつはサッカー推薦だけど……」


「羨ましいな。……私も同じ中学の子いるけど……、もう、そんなに話さなくなっちゃったから」


 「……」から後ろの分は、セロハンテープで後付けしたみたいだった。

 「羨ましいな」が本音。藤村さんは僕と爽太が仲が良いことを羨ましがっている。

 僕の頭は、勝手に分析を始めて止まらない。


「……そうかな」


 僕は口から、最低限の言葉を出力した。

 

……そのあとは、沈黙が続いた。僕は黙々と片付けを進めた。

 爽太が来るまでは、藤村さんといろいろなことを話して楽しかったのに。

 台無しにされた気分だ。


 その時、がらっと扉が開いた。


「お待たせ!」


 爽太が「よ」と手を挙げて登場した。


「待ってないよ。……もう少し静かに開けられないのか。扉が壊れるよ。建て付け悪いのに」


 そう言うと、爽太は「悪ぃ悪ぃ」と頭を掻いて笑った。

 

 僕はコートを羽織る。爽太はと言えば、ブレザーだけだ。


「寒くないのか……?」


 思わず顔をしかめると、後ろで藤村さんがくすりと笑ったのがわかった。


 すっかり暗くなった道を駅に向かって歩いて行く。

 僕と爽太が前を並んで。藤村さんは、少し後ろを爽太寄りについてくる。

 白いマフラーに顔を半分埋めてこぢんまりした藤村さんは、いつもより小さく見えてかわいかった。


「遅くまで残って二人とも熱心だよな」


 爽太が僕と藤村さんの顔をそれぞれ見て、笑った。

 こいつは、誰にでもそうやって笑顔で話しかける。

 僕は藤村さんに、こんなふうに笑って声をかけることはできない。

 いつもうつむきがちに話しかけるだけだ。


 爽太は藤村さんとはクラスも部活も違うのに。

 爽太と藤村さんの接点は、爽太が僕を訪ねてたまに美術部の部室にこうやって顔を出すときくらいのはずだ。

 それなのに、爽太は僕が2年間かけて近づけた藤村さんとの椅子の距離を、すたすたと大股で歩いて飛び越してしまう。


 僕はそんな考えを押し込めて、言葉を捻出した。


「……みんな帰った後の方が、静かで落ち着くんだよ……」

 

「私もそんな感じかな。……息抜きっていうか……」


 藤村さんがつぶやいた。


「息抜き?」


「藤村さんは、美大受けるから、予備校で忙しいんだよ。大変なんだよ、美術の予備校」


 そう言うと、爽太は「へえええ」と驚いたような感心したような声を出した。


「すごいなあ、藤村さん」


「伊東くんも……この前の試合、すごかったって……聞いたよ。最後の1点、とったって」


 藤村さんがずいっと前に乗り出した。

 『この前の試合』……なんだろう。爽太はいつも週末は試合しているイメージだからな。


「知ってた? そうそう! ……うん、まあ、練習試合だけど……」


 爽太は嬉しそうに表情を明るくした。


 駅前についた。もうハロウィンの装飾は片づけられて、クリスマスツリーが飾られている。

 爽太がキラキラした装飾を見ながら僕に尋ねた。


「もうすぐクリスマスだなー。浩人、美術部でなんかやらないのか?」


「そういうノリじゃないんだよ、美術部は」


「そうなんだ? サッカー部はなんかやるっぽいよ。俺も今年はそっちかな」


「なんかやるって、何をやるんだ」


「どっか食べに行くって言ってた」


「どっかって、どこに」


「知らんけど。去年はチキンすごいたくさん食べたって言ってたな」


 電車が乗り換えの大きい駅につくころ、藤村さんが何気なくスマホを取り出した。


「……伊東くん、連絡先を聞いてもいい?」


 爽太は何にも考えていない様子でうなずくと、


「そういえば藤村さんの連絡先、知らなかったな」


 と自分のスマホを取り出した。


 ――その間、僕の頭はフル稼働を始めていた。

 藤村さんのこの行動の発端は、さっきの爽太の『俺も今年はこっちかな』の発言だ。

 これは『俺も今年のクリスマスはサッカー部の集まりかな』の意味。

 これが、どんな意味を持つか。

 ――爽太は、1年の秋から今年の秋まで、彼女がいた。

 1年の時同じクラスだった、佐々木さんだ。

 先月、爽太は佐々木さんと別れた。

 去年のクリスマスは、佐々木さんとどこかに遊びに行ったはずだ。

 それが今年は何も予定がない。

 先ほどの『俺も今年はこっちかな』発言から、これらの事情を瞬時に読み取り、藤村さんは見逃さなかったに違いない。


 そんなふうに考えを巡らせる僕の横で、二人は連絡先を交換した。


 


 乗換駅で藤村さんと別れて、僕は爽太と二人、地元への電車に乗った。


 ガタンガタンと電車が揺れる。爽太は暗い街並みをぼーっと見つめている。

 僕と二人になった途端、爽太は話さなくなる。

 中学の頃から、いつもそうだ。僕は気にせずスマホを取り出して、どうでもいい情報をスクロールした。


 僕らは無言で最寄り駅を降りた。


「……なんか、食べてかないか」


 爽太がぼそっと言った。小腹が空いていたので、僕もうなずいてコンビニに入った。

 

 コンビニのカフェラテと肉まんを買う。

 爽太は肉まんとピザまん。飲み物はなし。


 コンビニ内のイートインスペースに腰掛ける。爽太は僕を見て、首を傾げた。


「前から思ってたんだけどさ、カフェラテと肉まんは、合わなくないか」


「なんで」


「いや、ミルクが気持ち悪くないのか? 食事と合わせると」


「――そんなことないけど。人の選んだのにケチつけんなよ」


 そう言うと、爽太は「それもそうだな」とつぶやいて、隣に腰掛けた。

 僕らは無言でもぐもぐと口を動かした。


「監督、言い方が厳しくてさ。いや、言ってることは合ってるんだけど、そんな言い方しなくてもって感じで」


僕はもぐもぐしながら「そうか」とだけうなずいた。

「1年が凹んじゃってて、なんとか監督の翻訳しようとしたんだけど、したら、『先輩は監督側なんですね』って。いや、どっち側とか、そういうんじゃないじゃん?」


爽太は深いため息を吐いた。


「すごい……、会社員みたいだな……」


 僕は思わず感嘆の声を上げた。

 それまで険しい顔をしていた爽太はにっと笑った。


「いや、ほんとにな」


「――お前の能力値ほんと高いと思うよ。運動もできて、そういうのもできんの? すごくない?」


 爽太は運動部で活躍し、部活内の複雑な人間関係をこなし、一方で彼女をつくり破局することをこの短期間でこなしている。僕の2倍から3倍の活動量をこなしている。


「やっぱり、僕と基礎体力が違うのかな……」


 そううなると、爽太は笑った。


「浩人も朝走るか? 家まで行ってやってもいいよ」


「嫌だよ。寒いし」


 僕らは立ち上がると、コンビニを出た。

 外は息が白くなるほど冷えていた。

僕らは並んで歩いた。話さなくても、帰り道は続いていく。

 


 家に帰って、夜。

 僕は部屋でタブレットの電源を入れ、ペンを手に取った。

 イラストを仕上げていく。


 黒い髪の制服の女の子。

 

 僕は絵を描くのは好きだけど、専門はこっちだ。

 いちおう『絵師』と名乗れるだけの画力はあると思う。SNSに描いた絵を挙げれば、いいねがそれなりの数もらえる。

 部活でやる水彩画や油絵なんかは、あんまり興味がない。手が汚れるのもあまり好きではないし。美術部に入ったのは、帰宅部だと、なんだか自分のただでさえ低い社会適応力がさらに低いと周りに思われそうで嫌だったからだ。要は人の目を気にしたのだ。


 僕は藤村さんの首元のホクロを思い出して、画面の中の女の子の首筋にホクロを足した。


 その時、スマホが鳴った。藤村さんからの通知だった。


『遅くまで部活に付き合ってくれてありがとう』


 画面に出た文章に気分が上がりすぎて、ベッドの上のスマホを取ろうと手を伸ばして、僕は椅子から転げ落ちた。


 ――僕は、藤村さんが好きだ。1年の時から。


 藤村さんは最初からすごく感じのいい女の子だった。顔も派手すぎないし、地味すぎないし、体型も背が高すぎず、低すぎず、太ってないし、痩せすぎてもないし、感じがいい。声も優しくて、話していてすごく居心地がいい。女子と話すのは緊張する僕でも、藤村さんとなら、美術室で二人きりでも間が持つ。一緒にいればいるほど、僕は藤村さんともっと仲良くなりたいと思うようになった。見るたびに、藤村さんの顔はこんなにかわいかっただろうかと、首をかしげるようになった。何度見てもかわいいと思う。『感じがいい』なんて言葉は、彼女に失礼だ。藤村さんは、僕にとって、今では、学年で1番かわいい女の子だ。


 僕は慌てて返信を打った。同じ部活で、連絡先は知っていて、たまに部活の連絡をすることはあるけれど、こんなふうな連絡が来たのははじめてだ。


 僕は『お気になさらず』のスタンプを送った。


『予備校大変だと思うけど、無理しないでね』


 秒で『ありがとう』のスタンプが帰ってきて、僕は両手でスマホを握りしめて硬直した。

 何かが、起こっている。いつもとは、違う。

 不意に冷静になり、背筋が冷たくなる。

 次の藤村さんの返信が決定打だった。


『ちょっと、聞きたいことがあるんだ』


 手が震える。


『何?』


『伊東くんって、佐々木さんと別れたんだよね?』


 僕は布団につっぷした。

 彼女の反応から、わかってはいた。藤村さんは、爽太のことが好きだ。

 爽太のことを好きな女の子はたぶん学年に何人もいると思うけど。

 

 ――そして、藤村さんは、自分から動けるタイプの女の子だ。

 藤村さんは、おっとりして見えるけど、行動がはっきりしている。

 美大に進学希望とはっきり宣言し、予備校で頑張っていることからみても、自分のやりたいことはしっかりやる子だ。そんなところも、僕はすごいなと思う。

 ――けれど、それは、人間関係でも。


 彼女は、今日の帰りに爽太の連絡先を入手してしまった。

 佐々木さんと別れた爽太の隙を、藤村さんはしっかりと見つめている。

 クリスマスが近い。藤村さんはもう行動方針を立てている。

 僕は、そんなふうに、自分の目標に向かって行動できる彼女が好きだ。


 ――1時間経って、僕はようやく返信した。


『うん。先月別れたって言ってた』


 僕は、藤村さんから聞かれたことには、答えざるを得ない。

 送信したあと、画面が静かに光り続けていた。

 僕はそれを見ないまま、電気を消して、頭から布団をかぶった。



「藤村さんと付き合うことになった」


 そう爽太から聞いたのは、年明けに家族と一緒に近所の神社に初詣に行った時だった。

 爽太も家族と一緒に神社に来ていて、顔を合わせた僕らは、屋台の焼きそばを食べながら話をした。


「連絡先聞かれたじゃん。あれから、何回か遊んで、クリスマスの時に告られた」


 と爽太は「今日はいい天気だ」と同じ温度で話した。


「大人しそうな子だなって思ってたけど、意外と積極的なの、ぐっとくるよなぁ」


 藤村さんは、決して『大人しい子』ではない。

 彼女は、意思の強い子だ。自分の決めた方向へ、ずんずん進んでいく。

 彼女の向かう方向には爽太がいて、僕は、それを後ろから見ることしかできなかった。

 焼きそばの味がしなかったが、僕はうなずいた。


「そっか」


 藤村さんからは、年明けの部活の時に話を聞いた。


「爽太くんと付き合い始めたんだ」


 また二人で部室で残業して絵を描いている時。他の部員が帰るとすぐに、ワクワクするような、遠足の前日の小学生みたいに藤村さんは僕に言った。

 

「――言ったのは、橘くんが初めてだけど。爽太くんはね、あんまり周りに言いたくないみたいで」


 少し視線が落ちていた。確かに爽太と藤村さんは、一見親しくなる接点がない。

 二人がどういう経緯で付き合うことになったのかは、それなりに関心ごとになるかもしれない。爽太の元彼女の佐々木さんは、爽太と同じクラスだし、わいわいとした雰囲気にならないよう、気を遣ったのかもしれない。


 キャンバスに描いていた空想の花壇の花をうっかり緑で塗ってしまったけれど、僕は「良かったね」とうなずいた。――それから、言葉を付け加えた。


「爽太は、言いたくないとか、そういうのじゃないと思うよ」


 藤村さんは「そうだね」とうなずいた。


 ◇


 藤村さんと爽太の付き合いは順調なようだ。

 爽太は藤村さんを「綾」と呼ぶようになった。

 藤村さんのフルネームは「藤村 綾」という。綺麗な名前だ。

 

 「伊東くんと美術部の藤村さんって、付き合ってるってほんと?」とあまり話したことのないクラスの女子に聞かれた。二人が付き合っていることは、自然な感じで浸透してきていた。


 爽太はすごい。藤村さんと付き合っているのに、舞い上がっていない。彼女も二人目になるとそういうものなのだろうか。1人目の佐々木さんのときも爽太は別に舞い上がってなかったけど。僕だったら、藤村さんと付き合ったら、睡眠不足になったり、わけのわからないことを口走ったり確実に挙動不審になると思うけど。


 爽太と話すときに顔を赤くして早口になる藤村さんを見て、僕は少し冷めた気持ちになった。それは、僕が想像する、藤村さんと付き合えたとした僕の姿のようで、少し滑稽に思えたからだ。


 僕は相変わらず、藤村さんが予備校が休みの日に部活に残って絵を描くのに付き合った。そうすると、爽太が帰りに寄るようになった。僕らは3人で帰る。――そして、乗り換え駅で、藤村さんと爽太と別れる。二人はこの時間に、ゆっくり二人きりで過ごすことに決めたみたいだった。


 春休みも目前に迫った3月。僕はまた藤村さんと美術室に残っていたけれど、今日は爽太が来なかった。


「あれ、今日は、爽太は?」


 そう聞くと、藤村さんは視線を落としてつぶやいた。


「――今日は、来ないと思う。ちょっと、喧嘩しちゃって」


「喧嘩?」


「……うん。爽太くん、最近、あんまり私と話さなくなっちゃって……、なんか、私ばっかり話してる感じになっちゃってるなって思って……」


 藤村さんは筆を置くと、下を向いてしまった。


「……私と話してても、つまんないのかなって思って……、『あんまり話さないよね』って、問い詰めちゃった……」


 その光景が目に浮かんで、僕は瞬きをした。

 背中を丸める彼女に声をかけようとして、言葉を飲み込む。

 一瞬頭に、良からぬ考えが浮かんだ。

――“これは、チャンスじゃないか?”と。


「こんなこと、言われても困るよね。ごめん」


 藤村さんはそう言って無理に笑うと、また筆を握った。

 僕らは無言で絵を描いた。

 その日は結局、爽太は部室に来なかった。


 ◇


 僕は家に帰ると、自分の部屋で机に座って肘をつき、背中を丸めてうつむく藤村さんの姿を思い出した。


 爽太と元彼女の佐々木さんが別れた原因も、藤村さんが言っていたようなことだったと記憶している。爽太から聞いた話だ。爽太は佐々木さんに「私のこと好きじゃないんでしょ」と急に言われてフラれたと言っていた。推測だけれど、佐々木さんも藤村さんと同じようなことに怒ったんじゃないだろうか。



 僕の心の中で、黒い部分がささやいた。


 爽太の悪いところを、藤村さんに、伝えて、背中を押したら。

 ――別れるんじゃないか?


 僕はノートを1ページやぶって、ペンをとった。左上に「爽太」と書く。

 爽太の悪いところをノートに書きだしてみた。


 ・声がでかい ・扉を大きな音で開ける ・説明の語彙力がない

 ・足が速い

 ・体力がある

 ・気を遣って疲れていることが多い

 ・周りをよく見ている


「……あれ」


 僕は頭を抱えた。前半はともかく、後半は悪口になっていない気がする。

 爽太について、僕が知っている特徴を書き並べた。


 ・実はそんなに喋らない

 ・考え込むタイプ

 ・部活頑張ってる


「……」


 僕はシャーペンを強く握りしめた。唇を噛む。

 

 ――爽太は、いいやつなんだ――


 僕は爽太についてのリストの横に「藤村さん」と書いた。


 ならば。藤村さんの嫌なところを、爽太に伝えたら。

 藤村さんについて、僕が思う特徴を書き並べてみた。


 ・目標をちゃんと決めていて偉い。

 ・絵がうまい。

 ・線が正確。

 ・何でも自分から動けててすごい。

 ・仲良くなるとすごく話す。


「……」

 

 藤村さんにいたっては、悪いことを紙に書けなかった。

 だって僕は――彼女のことが好きなんだから。


「う……」


 思わず嗚咽が漏れた。

 気がつくと、ぽたりと、紙の上に水滴が落ちていた。

 僕は顔を片手で押さえると、机から隣のベッドへ崩れ落ちるように転がった。


 自分が情けなかった。

 僕は藤村さんのことが好きだ。そして、爽太のことも嫌いになどなれない。

 二人が別れればなどと考えた自分自身に嫌気がさした。

 爽太と別れても、藤村さんはこんな僕と付き合うことはないだろう。

 

 行き場のない思いが出口を求めて頭をぐるぐる回って、目から涙になってあふれてきた。

 ――どうしようも、できなかった。


 ◇


 それからしばらくの間、僕は藤村さんや爽太に会うのを避けて学校生活を送った。

 幸い二人ともクラスが違う。美術室に行かず、授業が終われば即帰宅すれば顔を合わせなくて済む。


 そんな日々を過ごしていたけれど、僕の心はずっと曇ったままだった。

 授業が終わって即帰宅の学校生活は、自分でも驚くくらい人と話さなくて済むことに気づいた。口を動かさないと、声が出なくなる。クラスメイトに「目が死んでないか」と心配されたが、「あ……うん」と妙な返答しかできず、怪訝な顔をされた。


 ――その日も、最後の授業のチャイムと同時に荷物をまとめて、廊下に出ようとした――その時。


「浩人」「橘くん」


 廊下の両方向から呼び止められた。

 左手方向に爽太、右手方向に藤村さん。


「……え?」


 僕は驚いてきょろきょろと二人を見た。


「いや、なんか、最近、顔が死んでるって噂を聞いて……」


「部活に来てないから、どうしてるかなって……」


 二人はそれぞれの方向から、僕に近づいてきた。

 どうやら、それぞれが別々に僕を訪ねてきたみたいだった。


「う……わあああ」


 僕は頭がごちゃごちゃになり、変な声を上げると、駆け足で階段のある左手方向に向かって爽太の横を通り過ぎようとした――が、


「浩人、どうしたんだ!?」


 爽太が僕の腕をつかんだ。そして、その拍子に、バッグが床に落ちた。

 そして、床に落ちたバッグの開いた口から、二つ折りのノートの切れ端が飛び出した。

 教室を出ようと急いでいた僕は、バッグのチャックを閉めていなかったんだ。

 そして、飛び出したノートの切れ端は、あろうことか、僕が家で二人のことを書き並べたあのノートだった。


「なんだこれ……?」


 拾い上げた爽太が、首を傾げて僕を見つめる。


「俺と……綾の名前?」


 どうしてそれが。

 ああ、どこかに隠したくて、バッグにつめこんだんだ、僕が。

 なんて馬鹿なことを。


「うわああああ」


 事態を一瞬で理解した僕は、混乱状態のまま、バッグを爽太のもとに残して身一つで早歩きで階段へと向かった。


「浩人っ」「橘くん!」


 爽太に加えて、藤村さんの声まで追いかけてくる。

 周囲の帰宅しようとしていた生徒たちが、何事かと僕を見た。

 

 ――恥ずかしい。そもそも、バッグがないと帰れないじゃないか。

 

 僕は早歩きで、下の階の空いている多目的室に入った。

 そして、ひと息ついたところで、そこに爽太と藤村さんも入ってきた。

  

「浩人……バッグ忘れてるぞ……」


 爽太が僕にバッグを手渡した。


「……あ、ありがとう」


 僕はそれを受けとると、咳ばらいをした。

 爽太は呆気にとられた顔で息を呑んでから、僕にあの破ったノートを見せた。

 藤村さんもノートに視線を向け、驚いたように目を見開いて僕を見た。 

 心臓がどくんと鳴った。

 

「浩人、これは……」


「……それはですね」


 僕は息を整えて二人を見た。

 ばくばくと心音が頭に響く。


「二人の、……特徴をまとめたものです」


「特徴……俺……声でかい……足が速い……って、まあ……そうだけど」


 爽太は不可解な顔でつぶやいた。


「何で、ですます調なんだ」


 僕は爽太の言葉はスルーして、早口で続けた。

 とにかく場を収めて、逃げ出したい一心で、口が勝手に動いた。


「そう。爽太は声がでかいし、大雑把でやかましい奴に見えるけど、実際はめっちゃ気を遣うタイプなんですよ、藤村さん」


「は、はい」


 僕に名前を呼ばれた藤村さんは目をぱちくりさせた。


「藤村さんから、『爽太があんまり話さなくて、自分といてつまらないんじゃないかと思う』というような話を聞きまして、僕は、二人の特徴を書いてみたわけです」


 僕は必死に取り繕った。


「爽太は実際、無口なタイプなんですよ、藤村さん」


「……」


「普段やかましいのは、外面(そとづら)というやつです。――そして、爽太」


「――お、おう」


「藤村さんは、結構はっきりしたタイプの人なわけです。なので、お前は、口数が減るのは一緒にいて楽だからだとか、そういうことをきちんと言う必要があると思われます」


 僕は下を向いて、つぶやいた。


「以上です――」


 そう言って、驚いた様子の爽太の手から紙を受け取ると多目的教室を出た。

 

「浩人」「橘くん」


 僕の名前を呼ぶ二人を振り返ると、僕は手を挙げた。


「それじゃ! よく話し合ってくれ!」


 そして、後ろを振り返らずに小走りで部屋を去った。

 涙腺が緩んできて、視界がぼやけてきた。

 そのまま玄関に向かわずに、美術室に向かう。


 今日は部活のない日だ。誰もいないはず。

 このまま帰宅する生徒がたくさんいる玄関に行って、電車に乗って帰宅したくなかった。

 美術室が一番落ち着く。いったん避難したい。


 僕は美術室に駆け込むと、内側から鍵をかけた。

 そして、椅子に座ると、目元をぬぐった。


 壁際に描きかけのままになっていた僕の絵を見つけた。僕はそれを持ってきて、筆と絵の具の準備をした。――とにかく、気を紛らわせたかった。


 花が咲く、空想の庭園の絵。

 僕は筆をとると、そこに、黒い髪の女の子を描いた。

 藤村さんを思い浮かべながら筆を動かした。

 首元にホクロを足す。


 一気に彼女を完成させて、僕は目元をぬぐった。


 その絵の中の女の子横に、少年を描く。

 

 ――できることなら、僕は、藤村さんの横に立ちたかった。

 けれど、彼女が好きだったのは、爽太で。

 そして、僕は、爽太のことも好きだ。


 筆を動かす。行き場のない僕の気持ちは、このキャンバスに閉じ込めてしまおう。

 僕は、この気持ちを、どこかにやってしまわないといけない。


 だんだんと日が暮れてきた。

 途中、顧問が「今日は休み……」と鍵を開けて美術室を覗き込んできたけれど、涙目で絵を描き続ける僕を見て、一瞬黙って「19時までだぞ」とつぶやいて去って行った。


 僕は、18時45分に絵を描き上げ、美術室を出た。

 キャンバスには、庭園で花を見る少女と、それを見つめる少年が描かれていた。

 自分でも、よく描けたと思った。


 暗い通学路をひとりで歩いて帰る。

 涙は乾いていた。


 腹が空いていたので、最寄り駅でコンビニに入ると、肉まんを買った。

 今日はカフェラテではなく、ブラックコーヒーにした。

 コーヒーの苦みが喉を通り抜けていく。


 ――翌日、爽太と藤村さんからお菓子の詰め合わせをもらった。


「仲直りしました」

「巻き込んで、悪かったな」


 爽太と藤村さんは顔を見合わせて笑った。


 僕は「良かった」とうなずいて、また帰り道のコンビニでコーヒーを飲んだ。

 苦みを飲み下し、それをおいしく思う自分が誇らしかった。

 ——きっと、これが僕の初恋の終わり方で、正しかったんだと思う。

 この苦さも、いつか懐かしくなる日が来るのだろう。


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