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06:償いのマリアージュ

 婚約破棄を目論んだ王太子・アレクシスと、その周囲を襲った王家の呪い。

 ルーカスの死は最後の警鐘だったと言っていい。もはやいかなる選択の余地も、いかなる希望的観測も許されないことを告げる、冷酷な終焉の合図だった。


 王太子の私室には、アレクシスとリリアナのふたりだけが取り残されていた。親友たちの定位置だった四つの空席は、まるで墓標のように感じられて、アレクシスとリリアナの心を静かに圧し潰そうとしてくる。部屋の空気は、死の匂いと、拭い去れない罪の記憶で、鉛のように重い。


 アレクシスは、窓の外に広がる王都の夜景を、色を失った瞳で見つめていた。かつては美しく輝いて見えた街の灯り。それが今は、無数の魂が燃え尽きる前の最後のきらめきのように、儚く、そして悲しく映った。


 彼の脳裏では、四人の親友たちの最期が、繰り返し、繰り返し再生されていた。

訓練場で血に塗れたギルバート。シャンデリアの下で砕け散ったフェリクス。知識の奔流に飲まれることを避けながらも圧死したセオドア。そして、鉄の槍に貫かれたルーカス。

 彼らは皆、アレクシスを信じ、自分のために命を落とした。

 自分の、身勝手で、愚かな恋のために。


「俺の、せいだ……」


 絞り出した声は、誰に聞かせるでもなく、夜の闇に溶けて消えた。

 後悔という言葉ではあまりに軽すぎる。

 これは万死に値する大罪だ。

 四人の未来を、笑顔を、命そのものを、自分が奪ったのだから。


 彼は、ゆっくりと振り返った。

 部屋の隅で、リリアナが膝を抱え、人形のように動かずに座っている。

 彼女の瞳はとうに涙も枯れ果て、虚ろな光を宿しているだけだった。彼女もまた、この地獄のすべてを目撃し、その心を少しずつ殺されてきたのだ。


 この呪いを終わらせなければならない。

 『血盟の天秤』に記されていた、唯一の解除条件。

 計画の完全なる破棄と、定められた婚約者との婚姻の受け入れ。

 だがそれは、リリアナとの恋の、完全なる死を意味していた。


 国家の安寧を揺るがす、王族の身勝手な婚姻破棄。それを「国家への反逆」とみなし、関係者すべてに死の運命を与える、エルグランド王国建国の呪い。それは慈悲もなければ、意思もない、ただ淡々と国家のバグを排除する、冷徹な自動防衛システムだった。

 システムゆえに、手心だとか配慮だとか、そういったものは一切働かない。害をなす者と見なされれば消される。アレクシスはそれを感じ取っていた。


「リリアナ」


 彼は、静かにリリアナの名前を呼んだ。彼女の肩が、びくりと震える。

 アレクシスは、リリアナの前にひざまずくと、その冷え切った両手を取った。氷のように冷たい。生きている人間の温かみではなかった。


「……すべてを、終わらせる時が来た」


 リリアナは何も言わず、ただ虚ろな瞳で彼を見つめ返した。彼女には、もう、何を言えばいいのかも分からなかった。


「俺は、イザベラと結婚する」


 アレクシスは、一語一語、自分の心に杭を打ち込むように、その言葉を紡いだ。苦渋の決断だ、と言わんばかりに。


「それが、この呪いを止め、これ以上、誰も死なせずに済む、唯一の方法だ。そして……次に死ぬはずの俺が、生き延びるための、唯一の道でもある」


 彼は、自嘲気味に口の端を上げた。なんという無様か。友を死なせ、愛する女を不幸のどん底に突き落とし、自分だけが、責務という名の鎧を着て生き延びる。こんな卑劣な王が、この国にあっていいものか。


「……はい」


 リリアナが、か細く、しかしはっきりと答えた。彼女もまた分かっていた。この地獄のような死の連鎖から逃れるには、もうそれしか方法がないのだと。


「そう、してください。それが、殿下がお決めになったことなら……。もう、誰も……あなた様まで失うのは、耐えられませんから」


 彼女の言葉は、アレクシスの心を、鋭い刃物のように切り裂いた。彼女は自分の幸せなど微塵も考えていない。ただ、これ以上の悲劇が起きないことだけを願っている。

 アレクシスは、彼女の冷たい手を、自分の額に押し当てた。


「すまない……。本当に、すまない……。君の幸せを願ったはずが、君から、すべてを奪ってしまった」

「いいえ……」


 リリアナは、静かに首を振った。

 彼が彼女を、彼女が彼を愛してしまった。それがこの悲劇の始まりだったとしても、リリアナにとって、アレクシスに抱いた熱い想いは本物だと思っている。

 それでも、込み上げる後悔の念は止めることができない。


「私こそ、あなた様と出会わなければ……。あなた様が、私のような者を愛してくださらなければ、こんなことには……。ギルバート様も、フェリクス様も、セオドア様も、ルーカス様も、みんな……」


 彼女の瞳から、枯れたはずの涙が、再び一筋、流れ落ちた。

 罪は、どちらか一方にあるのではない。ふたりが出会い、恋に落ちた。そのこと自体が、この国の理にとっては、許されざる罪だったのだ。


「リリアナ。最後に、ひとつだけ、我儘を言ってもいいか」

「……はい」

「君を、抱きしめさせてくれ。この恋の、最後の弔いに」


 リリアナは、こくりと頷いた。

 アレクシスは、ゆっくりと立ち上がる。そして、震える彼女の身体を、力の限り強く、しかし壊れ物を扱うかのように優しく、抱きしめた。


 彼女の温もり。

 彼女の匂い。

 彼女の心臓の鼓動。

 そのすべてを、自分の魂に刻み付けるように。


 これが、最後だ。

 明日になれば、自分は国の王子となり、彼女は過去の女となる。

 ふたりの道が交わることは、もう二度とない。


 リリアナもまた、彼の背中に、そっと腕を回した。

 温かいはずの彼の体が、なぜかひどく冷たく感じられた。

 彼の心もまた、自分と同じように、死んでしまったのだと。彼女は悟った。


 どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。

 やがて、アレクシスは、名残を惜しむように、ゆっくりと身体を離した。


「……元気で」


 彼が、最後に絞り出した言葉は、それだけだった。


「……あなた様も」


 リリアナも、そう答えるのが精一杯だった。

 ふたりの間に、永遠よりも長い沈黙が流れた。

 それは、ひとつの恋が、完全に死んだ瞬間だった。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 翌朝。アレクシスは、父である国王の許を訪れた。

 自分がしてしまったことをすべて打ち明けるために。親友たちの死を背負い、自らの罪を告白するために。彼は、少なくとも父王ならば、この苦悩と悲劇を理解してくれるはずだと、心のどこかで信じていた。


 国王の執務室は、静寂に包まれていた。

アレクシスは、床に膝をつき、震える声で、すべてを告白した。婚約破棄計画、四人の側近の死、そして『血盟の天秤』の呪いのこと。

 国王エルグランド三世は、微動だにせず、息子の言葉を聞いていた。その顔には、驚きも、悲しみも、怒りさえも浮かんでいない。ただ、凪いだ湖面のような、不気味なほどの無表情が張り付いているだけだった。


 すべてを語り終えたアレクシスが、顔を上げる。父からの、叱責か、あるいは同情か。とにかく、なにかしらの言葉が掛けられるのを待つ。

 しかし、国王が発した言葉は、彼の予想を、根底から覆すものだった。


「……それで?」


 たった、一言。

 その声は、氷のように冷たく、何の感情も含まれていなかった。


「……父上?」

「だから、それで、どうしたのだ、と聞いている」


 国王は、まるで出来の悪い部下の報告を聞くかのように、淡々と言葉を続けた。


「『血盟の天秤』が発動し、お前の愚かな計画に加担した者たちが、順当に死んだ。それだけの話であろう。何か、問題でも?」


 アレクシスの頭が、真っ白になった。

 問題でも?

 友が四人も死んだのだ。無残な形で。

 それを、父は、「それだけの話」だと言ったのか。


「何を……おっしゃって……」

「お前は、まだ分かっておらんようだな」


 国王は、憐れむような目で、息子を見下ろした。

 そして理解の及ばぬ子に言い聞かせるように、噛み砕くように言葉を続ける。


「あの呪いは、我々王族にとって、いわば『教育係』のようなものだ。王家に生まれた者が、私情に溺れ、国家の礎を揺るがすような愚行に走りかけた時、それを『死』という最も分かりやすい形で教え、軌道修正させるための、必要な痛み。お前もようやく、その最初の教えを受けたというわけだ」


 その時、執務室の奥の扉が開き、王妃、そして宰相――セオドアの父親――が、静かに入ってきた。彼らの顔にもまた、国王と同じ、感情の欠落した表情が浮かんでいた。


「四人もの若者を犠牲にするとは。少々高くつきましたわね」


 王妃は扇子で口元を隠しながら、まるで他人事のように言った。実の息子に向けたとは思えないほどに、その言葉には温かみを感じられない。


「ですがこれも、あなたが真の王となるための尊い授業料でしょう」

「愚息の死は、国家に仕える宰相家の者として、本望であったと信じております」


 宰相もまた平坦な声で、王妃の言葉に追従する。彼の言葉も、息子を失った父親とは思えぬ無感情さをたたえていた。


「セオドアの死が、殿下を正しい道にお戻ししたのであれば。その死は決して無駄なものではございません」


 アレクシスは、愕然として、彼らの顔を見回した。

 知っていたのだ。

 この者たちは、皆、知っていた。


 『血盟の天秤』の存在を。

 その恐ろしさを。

 自分の息子や、未来の王が、その呪いによって仲間を次々と失い、地獄の苦しみを味わっていることを。

 すべて知りながら、ただ、醒めた目で、放置していたのだ。


「なぜ……」


 アレクシスの声が、震えた。


「なぜ、教えてくださらなかったのです! なぜ、止めてくださらなかったのですか!?」

「教えてしまったら、学べぬであろう?」


 国王は、王太子の慟哭のごとき声に、冷静に言葉を返す。

 心底、不思議そうに。


「火の熱さは、実際に触れてみなければ分からぬものだ。王の責務の重さも、実際に友の死という代償を払ってみなければ、その身には刻まれん。実際に、そうだったであろう? 我々は、お前がその『学び』を終えるのを、待っていただけだ」


 王たちにとって、ギルバートも、フェリクスも、セオドアも、ルーカスも、駒でしかなかったのだ。王太子という、最も重要な駒を、正しいマス目に進ませるために犠牲になった、使い捨てのポーン。彼らの死は悲劇などではなく、王家というシステムを維持するための、必要経費であった。


 アレクシスの心の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちた。

 絶望。

 それは、呪いそのものよりも、ずっと深く、冷たい絶望だった。


 自分が信じていた世界。

 尊敬していた父。

 慈愛に満ちていると思っていた母。

 そのすべてが、冷酷で、非人間的な、巨大なシステムの一部でしかなかった。

 その、圧倒的な事実。


 彼はもう何も言えなかった。ただ床の一点を見つめ、震えることしかできない。


「さて、話は済んだな」


 国王は、何事もなかったかのように、書類に目を落とした。そしてアレクシスの方を見ることもなく、事務的に言葉を続ける。


「速やかに、イザベラ嬢との婚儀の準備を進めよ。それで呪いは止まる。……ああ、それと、アシュフォード家の令嬢だが」


 国王の目が、初めて、鋭い光を宿した。


「呪いの因果の中心にいる、不安定な要素だ。王都に置いておくわけにはいかん。即刻、北の領地へ帰らせよ。そして二度と、王都の土を踏ませるな。よいな」


 それは事実上の、永久追放の宣告。

 そして議論の余地のない、決定事項の通達だった。

 アレクシスは、もはや抵抗する気力も失せ。


「……御意」


 ただ、力なく頷いた。

 彼はまるで操り人形のように立ち上がると、ふらふらとした足取りで、執務室を後にした。その背中を、国王と王妃、そして宰相の、温度のない視線が、静かに見送っていた。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 その日の午後。リリアナは、王宮からの使者によって、故郷の領地へ帰るよう冷たく言い渡された。

 荷物をまとめる時間はほとんど与えられない。まるで不要になった道具を、ゴミ捨て場へ運び出すかのような、無慈悲な処遇だった。


 彼女はすべてを悟っていた。自分は、王家にとって不純物なのだ。

 王太子を惑わせ、国家のシステムにバグを生じさせた、排除すべき存在。


 リリアナは誰に見送られることもなく一台の質素な馬車に乗り込んだ。

 動き出した馬車の窓から、遠ざかっていく王都の景色を無表情で見つめる。

 思い出されるのは、楽しかった学園での日々。仲間たちとの他愛ない語らい。ガゼボで交わした、アレクシスとのはにかむような会話……。

 そのすべてが、まるで遠い昔の夢物語のように感じられた。だがそれらが今はもう、心に痛みを生むものでしかない。


 幸せだった時間は、あまりに短かった。

 そして、その代償はあまりに大きすぎた。

 彼女の心は、空っぽだった。悲しみも、怒りも、愛しささえも、すべてが燃え尽きて。ただ、白い灰だけが残っている。


 リリアナが最後に思い出したのは、アレクシスの、苦悩に満ちた顔だった。

 彼は今、どうしているだろう。

 あの冷酷なシステムの中で、たったひとりで、戦っているのだろうか。

 それとも、彼もまた、システムの一部になることを、選んだのだろうか。


 馬車が、王都の門を抜ける。

 もう二度と、リリアナがこの場所に戻ることはないだろう。

 彼女自身も、これからどう生きていくことになるのか想像できずにいる。

 だが、四人の友の死を、その笑顔を、そして愛した人の記憶を、すべて背負って生きていく。そのことだけは、しっかりと自覚できていた。


 さようなら、私の恋。

 さようなら、私の青春。


 リリアナは、静かに目を閉じる。

 もう、彼女が、あの悪夢を見ることはなかった。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 さらに数日が経ち。

 エルグランド王国の王宮では、盛大な婚約発表の儀が催された。

 王太子アレクシス・フォン・エルグランドと、公爵令嬢イザベラ・フォン・ヴァインベルクの、婚約発表の儀。大広間は、着飾った王侯貴族たちで埋め尽くされ、祝福の言葉と華やかな音楽が満ち溢れていた。しかしアレクシスの耳には、その喧騒がどこか遠い世界の出来事のように聞こえていた。


 アレクシスは、寸分の隙もなく仕立てられた純白の礼装に身を包み、壇上の中央に立っていた。その顔には、いかなる感情も浮かんでいない。まるで、精巧に作られた、美しい人形のようだった。


 隣には、同じく純白のドレスを纏った婚約者・イザベラが、淑女の鑑のような完璧な微笑みを浮かべて立っている。

 彼女は、何も知らない。婚約者である王太子が、かつて自分を陥れて婚約破棄をしようと企んでいたことも。そのために、四人の若者が命を落としたことも。そして、今、隣に立つ男の心が完全に死んでいることも。

 彼女はただ、王太子妃となる己の運命を、誇り高く受け入れているだけだった。


「……ここに、エルグランド王国第一王子・アレクシスと、ヴァインベルク公爵家令嬢・イザベラの、正式なる婚約の成立を、宣言する!」


 国王の朗々とした声が、大広間に響き渡る。

 割れんばかりの拍手と、歓声。

 アレクシスは、イザベラの手を取った。彼女の指先は、温かく、柔らかかった。だが彼には、まるで冷たい石に触れているかのようにしか感じられなかった。


 アレクシスは、彼女の手の甲に、儀礼的な口づけを落とす。

 その瞬間、彼の脳裏で、何かが、ぷつり、と切れる音がした。

 『血盟の天秤』。

 呪いのシステムが、計画の完全な破棄を認識し、その機能を停止した音だったのかもしれない。

 あるいは、彼の心に残っていた最後の人間性のかけらが、完全に死んだ音だったのかもしれない。


 もう、彼は何も感じなかった。

 悲しみも、苦しみも、罪悪感さえも。ただ、王太子として、この国を治めるという冷たい責務だけが、彼の身体を動かす歯車として残った。


 彼は、生き残った。

 四人の友の命と、愛する女の未来と、そして、自分自身の魂を代償にして。


 彼は、完璧な王子の笑みを浮かべ、集まった貴族たちに手を振った。

 その姿は、誰もが賞賛する、理想の王太子そのものだった。

 国王と王妃は、満足げに頷き合う。


「これで、あの子も、ようやく『王』になれる」


 彼らの声は、誰の耳にも届かなかった。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 それから、長い年月が流れた。


 アレクシスは、父王の跡を継ぎ、国王となった。イザベラを王妃として、国を賢明に治めていった。彼は常に冷静で、公正で、私情を挟むことのない、完璧な為政者だったと、歴史書は記している。彼の治世は、エルグランド王国にかつてないほどの安定と繁栄をもたらした。


 だが、その仮面の下にある素顔は、誰にも見せることはなかった。

 彼は、王として生きることを選んだ。いや、王という名の、感情を持たないシステムの一部になることを受け入れたのだ。

 苦悩も、絶望も感じない。ただ、プログラムされた通りに、国を動かすだけ。


 夜ごと、夢を見ることもなくなった。四人の友の顔も、愛した少女の顔も、記憶の奥深くに、完全に封印してしまったからだ。思い出すことは、システムの正常な作動を妨げる、不要なノイズでしかなかった。


 だが、人間らしさをまったく感じさせないということではない。

 王妃イザベラと共に、国王アレクシスは幸せに日々を過ごしたと伝わっている。


 一方、北の果ての領地で、リリアナは静かに、ひっそりと暮らしていた。

 彼女は、生涯、結婚することはなかった。領地の片隅に四つの簡素な墓を建て、毎日、花を供えることを日課としていた。


 彼女の心は、あの日以来、ずっと凍り付いたままだった。

 だが、彼女は、アレクシスとは違った。


 彼女は、忘れなかった。

 ギルバートの快活な笑顔を。

 フェリクスの美しい竪琴の音色を。

 セオドアの知的な眼差しを。

 ルーカスの人を笑わせる冗談を。

 そして、不器用で、真っ直ぐに、自分を愛してくれた青年のことを。


 その記憶を抱いて生きていくことが、彼女にとっての、唯一の抵抗であり、償いだった。彼女は、王家という巨大なシステムから完全に切り離されたことで、皮肉にも、人間としての心を失わずに済んだのだ。


 ある晴れた春の日。

 リリアナは、いつものように、四つの墓の前に跪いていた。

 ふと空を見上げると、一羽の鳥が、青い空を自由に飛んでいくのが見えた。


「……自由」


 彼女の口から、何十年ぶりかに、言葉が漏れた。

 あの鳥は、自由。

 でも、本当にそうだろうか。鳥もまた、生きるために餌を探し、敵から逃げ、巣を作るという、抗えない本能システムの中で、生きているだけではないのか。


 本当の自由など、この世界のどこにもないのかもしれない。

 だとしたら、私たちは、この与えられた不自由の中で、何を記憶し、何を忘れずに生きていくか。それしか、選ぶことはできないのだろう。


 リリアナは、そっと目を閉じた。

 頬を撫でる風が、遠い日の、想い人の不器用な優しさを思い出させた。

 それは、痛みであり、同時に、彼女が失わなかった、唯一の宝物だった。



 -了-


 ※本編はこれで終了です。読んでいただきありがとうございました。

 ※もう1話、アナザーエピソードを、明日8月3日(日)の朝8時に更新します。

 ※感想や評価などいただけると励みになります。よろしくお願いします。


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