04:沈黙のカタストロフ ~知者の最期~
フェリクスの死は、残された者たちの心を氷のように冷たい絶望で満たした。
ひとり目であるギルバートの死は、まだ「不運な事故」として受け止める余地があった。しかし、ふたり目の、それもリリアナが予言した通りの死。もはや偶然という言葉で片付けられる段階は過ぎ去っていた。
親友同士が集まる談笑の場だった王太子の私室は、もはや死の順番を待つ者たちが集う、陰鬱な霊安室と化していた。
アレクシス、セオドア、ルーカスの三人は、蝋燭の揺らめく光の中で重い沈黙に耐えている。亡き親友ふたり分の空席が、あまりに痛々しく彼らの目に映る。
「……呪いだ」
最初にその言葉を口にしたのは、恐怖に顔を歪ませたルーカスだった。いつもはお調子者の彼の顔から、血の気も軽薄さも完全に消え失せていた。そこには剥き出しの恐怖だけが浮かんでいる。
「俺たち、呪われてるんだよ! じゃなきゃ、こんなこと立て続けに起こるわけがない!」
「計画だ……」
彼の叫びを受けて、アレクシスが絞り出すように声を漏らす。
王太子たるアレクシスには、一連の惨劇が起こる理由に心当たりがあった。
「イザベラとの婚約破棄を計画した、俺たちが狙われている」
婚約破棄を目論んだ者は、王家の平穏を乱す罪人として認識される。それは王家の禁忌であり、関わった者たちには逃れられぬ死の運命が下される。
もちろんそれは王家内の秘すべき情報。アレクシスとて詳しく知っているわけではなく、王太子の英才教育のなかでわずかに教えられただけのもの。だがその断片的な内容だけでも、ルーカスは顔色を蒼白にさせるのに十分だった。
「次は……俺か、セオドアか……?」
死が、すぐ隣で息を潜めている。
自分たちの番が、いつ来るのかと待っている。
その想像を絶する恐怖が、彼らの精神をじわじわと蝕んでいた。
「……調べるしかない」
重苦しい沈黙を破ったのは、宰相の息子・セオドアだった。震える指先で眼鏡の位置を押し上げると、冷静さを取り繕うように、しかし切迫した声で言う。彼は眼鏡の奥の瞳に、知性の光ではなく、決死の覚悟を宿していた。
「この呪いの正体を、どうすれば止められるのかを探る。闇雲に怯えていても、事態は好転しない。知識の中にこそ、活路はあるはずだ」
彼の言葉には、知性派としての矜持が滲んでいた。だが、それ以上に、このまま何もできずに死を待つことへの、必死の抵抗が感じられた。
「どこを調べるってんだよ、セオドア!」
「王宮の禁書庫だ」
セオドアの言葉に、アレクシスとルーカスは息をのむ。
禁書庫。そこは王家の歴史の中でも特に秘匿すべき古文書や、危険な呪術に関する記録などが封印されている場所だ。王族の中でも限られた者しか立ち入りを許されていない。
「この国に古くから伝わる呪いの類であるなら、そこに何らかの記録が残っている可能性が高い。父上……宰相が管理している鍵の在り処は、見当がついている」
「危険すぎる!」
アレクシスが声高に反対した。例え王太子であっても、禁書庫に無断侵入などすれば強いお咎めを受けることは必至だ。セオドアは宰相の息子、王太子の側近候補といっても、まだ正式な地位や役職があるわけではない。その行動は親友の立場を悪くしかねない、と、アレクシスは制止する。
だがセオドアは、「今さらだ」と言わんばかりに首を振る。
「このまま何もせずに死ぬよりはマシです。それに……我々にはもう時間がない」
覚悟を決めた声で、きっぱりと言い放つ。
襲い掛かる死の呪い。ギルバートとフェリクスの命が散った間隔を考えれば、次の死が訪れるのはそう先のことではない。
アレクシスも、ルーカスも、何も反論することができなかった。
―・―・―・―・―・―・―・―
リリアナはもはや眠ることさえ恐ろしくなっていた。瞼を閉じれば、またあの「死の宣告」が下されるのではないか。その恐怖で、彼女の神経は限界まですり減っていた。
しかし、疲労には抗えない。彼女の意識は、うつらうつらと浅い眠りに落ちていく。そしてまたしても、あの不気味で色褪せた世界へ引きずり込まれてしまった。
今度の舞台は、薄暗く、埃っぽい、巨大な書庫だった。天井まで届く書棚が、迷宮のようにどこまでも続いている。古びた紙とインクの匂いが、空気に澱んでいた。
その迷宮の中心で、ひとりの人影が、移動式の梯子に登って何かを探している。
セオドアだった。
必死の形相で書棚に並ぶ分厚い古書を次々と手に取り、目当てのものでないと分かると乱暴に床へ投げ捨てていく。彼の周りには、無造作に開かれた本の山ができていた。
その時、リリアナは気づいた。セオドアが登っている梯子の脚が、わずかに傾いていることに。床板の一部が腐り、そこだけがわずかに沈み込んでいたのだ。
『セオドア様、危ない!』
やはり、声は届かない。
セオドアは、目当ての書物を見つけられない焦りからか、梯子の上で大きく身を乗り出した。その動きが、傾いた梯子をさらに不安定にさせる。
そして彼はついに、一冊の古びた革張りの書物を手に取った。彼の顔にわずかな安堵の色が浮かぶ。
だが、それも束の間だった。
梯子を降りようとした、その時。
彼が羽織っていたマントの裾が、すぐ隣に置かれていた大きな天球儀の突起に、ほんのわずかに引っかかった。
それに気づかず、セオドアは梯子から最後の一歩を踏み下ろす。
その動きに引かれて、天球儀がゆっくりと回転を始めた。
バランスを崩した天球儀は、ガタン、と音を立てて横に倒れる。
そのすぐ隣には、ドミノのように、何冊もの分厚い辞典が立てかけてあった。
倒れた天球儀が、最初の一冊を押し倒す。
カタン
そして、連鎖が始まった。
カタン、カタン、カタン……!
ドミノ倒しのように次々と倒れていく辞典。
最後の1冊が、腐った床板の上に立つ、巨大な書棚の脚部に、ゴン、と鈍い音を立てて激突した。
その、ほんのわずかな衝撃が、引き金だった。
ギシッ、と、書棚全体が悲鳴を上げる。
そして、ゆっくりと、しかし抗いがたい力で、傾き始めた。
ひとつの書棚が倒れる。
その衝撃で、隣の書棚が倒れる。
そして、またその隣の……。
まるで巨大な生物が次々と倒れ伏すかのように、轟音と共に、書棚が連鎖的に倒壊を始めた。
セオドアは、背後で起きたカタストロフに、ようやく気づいた。
彼の顔が、驚愕と絶望に染まる。
それもわずか数瞬。セオドアは出口に向かって必死に走り出した。
しかし、倒壊した書棚から崩れ落ちた何万冊もの本が津波のように迫ってくる。
紙の雪崩。知識の奔流。
彼は、転がるようにして逃げる。
あと少し。あと少しで、出口の扉に手が届く――!
その瞬間、禁書庫の小窓から、突風が吹き込んできた。
風に煽られて、床に散らばっていた古い羊皮紙が、ふわりと舞い上がる。
そして、まるで悪意を持ったかのように。
その羊皮紙が、セオドアの顔面に張り付いた。
ほんの一瞬、視界が完全に塞がれる。わずかに足を止めてしまう。
そのコンマ数秒の遅れが、彼の運命を決定づけた。
背後から迫っていた本の津波が、ついに彼を捉えた。
最初に彼の足を払い。
バランスを崩させ。
そして彼の全身を、容赦なく飲み込んでいった。
セオドアの短い悲鳴は、何万冊もの本が叩きつけられる轟音にかき消された。
『いやあああああああああああああっ!』
リリアナは、自分の絶叫で悪夢から引き戻された。
気がつけば、彼女はベッドの上にいた。必至に眠気に抗っていたことも無意味だった。彼女自身がいつベッドの入ったのかも覚えていない。
心臓が、氷水に浸されたように冷たい。
呼吸ができない。
手足の感覚がない。
まただ。
また、見てしまった。
次は、セオドア様だ。
書庫で。本の津波に飲まれて……。
リリアナは、震える体でベッドから這い出した。
止めなければ。今度こそ、止めなければ。
もう、誰も死なせはしない。
彼女は、鬼気迫る形相で、再び部屋を飛び出した。
―・―・―・―・―・―・―・―
夜も更けて、見回りの騎士でさえ息を潜める静かな時間帯。
セオドアは人の目が極限まで少なくなる時間を狙い、禁書庫へ侵入しようとしていた。禁書庫の鍵は、父である宰相の書斎から密かに持ち出すことに成功している。彼は誰にも見つからぬように気を配りながら、禁書庫へと向かう。王宮の中でも特に人が近づかない区画にあるのだ。
誰もいないと思っていた。騎士たちが見回りをするタイムスケジュールは密かに確認していた。だがその道中で、セオドアは想定外の人物と顔を合わせてしまう。
「セオドア様!」
リリアナだった。必死さを隠そうともしない声に、セオドアは驚いて振り向く。そこには、寝間着のまま部屋を飛び出し、夜の王宮を駆けるという、令嬢らしからぬ行動をする彼女がいた。
彼女は今、アレクシスの強引な命令によって王宮の一角に部屋を与えられている。恐ろしい呪いにさらされているなか、少しでも自分の近くに彼女を置いて、何かの際には身を挺して守りたい。そんな想いからのことだった。
もちろん、当事者以外にはそんな理由は理解できない。王太子がわがままを言って愛人を連れ込んでいる、側近候補だった親友を立て続けに不慮の事故で失って錯乱したのではないか、などと口さがないことを陰で言う者もいた。
だがそんな下賤な噂話を気に留める余裕は、アレクシスたちには存在しない。彼女を守れるのならば、なりふりなど構ってはいられなかった。
とはいえ、利点もあった。リリアナを王宮で生活するように連れ込んだことで、彼女と触れ合う時間が増えた。常にアレクシスの近くにいることを心掛けるセオドアやルークスともよく顔を合わせるようになり、彼らの精神はいくらか落ち着いたものになっている。
利点なのか欠点なのかは難しいところだが、リリアナが悪夢を見た時にいち早く知ることができる、という点もある。
そう、今のセオドアのように。
リリアナが見た悪夢の舞台は、大量の本が並んでいる部屋。彼女が悪夢の話をした際に、呪いに関して禁書庫で調べよう、という話がでていた。それを思い出したリリアナは、真っすぐに禁書庫へと向かった。真夜中ゆえに人が極端に少ない、というのも幸いしたと言える。
「リリアナ嬢……?」
「セオドア、様……」
探していたセオドアの姿を見て、リリアナは心から安堵を覚える。だが同時に、彼はあの悪夢の舞台である禁書庫へ向かおうとしているのだと理解した。
ギルバートの時、フェリクスの時に覚えた、あの取り返しのつかない後悔。そんなものを三度も繰り返すわけにはいかない。
リリアナは泣きながら、セオドアの腕にずがり付いた。
「お願いです、禁書庫に入らないで! 危険です! あの夢は、ただの夢じゃないんです! ギルバート様も、フェリクス様も、みんな……!」
セオドアは、その言葉だけで理解した。
次に死ぬのは、自分なのだと。
「見ました! また、夢を……! あなたが、禁書庫の中で……書棚に押し潰されて死ぬ夢を!」
彼女は夢で見た光景のすべてを、途切れ途切れに、しかし必死に伝えた。梯子が傾き、マントが地球儀に引っかかり、本の雪崩がセオドアを襲うと。
セオドアは、彼女の言葉を黙って聞いていた。そして、すがりつく彼女の手を、静かに、しかし力強く外した。
「なるほど、よく分かった。ありがとう、リリアナ嬢」
「……セオドア様?」
「君の夢がただの夢ではないことくらい、もう分かっている。だからこそ、行かねばならない。死の連鎖を止める手段を知るために」
セオドアの瞳には、恐怖も、絶望もなかった。
そこにあったのは、知者としての、揺るぎない覚悟だった。
「この呪いの正体を突き止め、終わらせる方法を見つけなければ、我々はいずれ死ぬ。ルーカスも、アレクシス殿下も……そしておそらく、君もだ、リリアナ嬢。私は、友を、そして主君を守る責務がある。そのためなら、この命、惜しくはない」
「そんな……! 命を懸けるなんて……!」
「これは、私が選んだ道だ。君のせいではない」
セオドアは、そう言うと、リリアナの肩を優しく叩いた。
「それに、君のおかげで活路が見えたかもしれない」
「え……?」
「君が教えてくれた『死の筋書き』。それを逆手に取れば、運命に抗える可能性がある。私は、君が教えてくれた死のきっかけを、すべて潰してから挑む」
「そんな、危険です! それでも、何が起こるか……!」
「だが、行かねばならないんだ」
セオドアの瞳には、揺るぎない覚悟があった。
彼はリリアナに背を向け、再び王宮の廊下を歩き始める。
リリアナも、そんな彼の背になにか言い募ろうとする。けれど、言葉が口から言葉が出てくることはなかった。なにも言えぬまま、俯き、なんとなく彼の後ろをついて歩く。
やがて、セオドアの目的地に着く。
禁書庫だ。
扉はまるで、来る者を拒むような壮言さを醸し出している。夜も深くなり、灯りの少ない薄暗さもあって、近づきがたい恐怖のようなものを感じさせた。
「君はここを離れなさい。何があっても、中に入ってきてはダメだ。いいね?」
セオドアは有無を言わせぬ強い口調で言う。
そしてリリアナに背を向け、扉に鍵を差し込んだ。
ガチャン、という重い金属音と共に、禁断の扉が開かれる。
扉の隙間から、何百年分もの古書の匂いが、もわりと流れ出してきた。
セオドアは一瞬だけ振り返る。リリアナに向かって、ほんのわずかに微笑んだように見えた。それは彼が初めて見せた、不器用で、悲しい笑顔。
そして、彼は躊躇うことなく、暗い禁書庫の中へと姿を消した。
重い扉が、ガチャン、と音を立てて閉まる。
リリアナは、閉ざされた扉の前で、彼の無事を祈ることしかできなかった
―・―・―・―・―・―・―・―
禁書庫の中は、リリアナが見たという夢の通りだった。
高い天井まで届く書棚が巨大な壁のようにそびえ立ち、迷路のような通路を形成している。空気はひんやりと冷たく、埃っぽく、そして死んだように静かだった。
セオドアは持ってきたランタンの明かりを頼りに、まず「死の舞台装置」の確認から始めた。
「……マント、か」
彼は、自分が羽織っていたマントを脱ぎ、入口の扉の脇に丁寧に畳んで置いた。これで、何かに引っかかる心配はない。
次に、通路の隅に置かれていた天球儀に目を向けた。リリアナの夢の中では、これが書棚がドミノ倒しになる切っ掛けになっていた。
「君には、ここで退場してもらう」
ずしりと重い天球儀を両手で抱え上げると、書棚の列から離れていく。禁書庫内の広々とした一角まで天球儀を運び、そこに静かに置いた。これで、何かがぶつかっても、書棚に影響が及ぶことはない。
そして、移動式の梯子を引きずりながら、書棚の列を歩き始めた。本を探す前に、まず梯子を置く場所の床を、ランタンで念入りに照らして確認する。
「……あった」
奥まった場所の床板が、一部、黒く変色し、湿気で腐り始めているのを見つけた。夢の中で、梯子の脚が傾いた原因はこれだろう。
「ここも使えないな」
セオドアはその危険な箇所を避け、硬く、安定した床を選ぶ。そこでようやく梯子を設置した。
最後に、彼は自分自身に言い聞かせた。
(焦るな。見終わった本は、床に放り出さない。必ず、元の場所に戻すか、きちんと脇に積んでおく。いざという時に、自分の足元を掬われるような愚は犯さない)
死の筋書きを、ひとつ、またひとつと潰していく。
リリアナの予知夢という「情報」を武器に、彼は運命に戦いを挑んでいた。これで、少なくとも夢で見たような、単純な連鎖反応による死は避けられるはずだ。
セオドアはようやく、本来の目的である書物探しを開始した。
(呪い……王家にまつわる呪い……)
頭の中でキーワードを反芻しながら、書棚に並ぶ古書の背表紙をひとつひとつ目で追っていく。王家の年代記、法典、宮廷儀礼の記録……。ほとんどは、彼が既に目を通したことがあるものばかりだった。
(もっと古いものだ。建国期、あるいはそれ以前の、神話や伝承に近い記録……)
彼はさらに奥へと進んだ。そこには革や羊皮紙で装丁された、ひと際古めかしい書物が並んでいる。中には、もはや文字が掠れて読めないものさえある。
彼はまた別の移動式の梯子を引きずってきて、設置。新たな本棚から、目当ての書物を探し始めた。
その一方で、頭の片隅にリリアナが見たという悪夢がよぎる。
書棚が倒壊する、あのカタストロフ。彼は無意識に惹かれるものを感じていた。
(あれが、俺の死の筋書きか……)
セオドアは、自嘲気味に笑った。知識を求め、知識に殺される。知者としては、ある意味、相応しい最期なのかもしれない。
だが、死ぬわけにはいかない。
アレクシス殿下を、ルーカスを、そして……彼女を、守らなければ。
胸の内でそう繰り返しながら、セオドアは作業を繰り返す。梯子を上り、古びた書物を手に取り、目次を確認し、違うと分かると、丁寧に元の場所に戻していく。
しかし、いつまで経っても目的の書物は見つからない。それらしき記録が見当たらない。
禁書庫は広大だった。あるかも分からない書物や記録を求めて、しらみつぶしに本を確認していく。時間は刻一刻と過ぎていき、焦りが募る。焦りがセオドアの冷静さを少しずつ削り取っていく。
(落ち着け。冷静さを失えば、そこに付け入る隙が生まれる)
深呼吸をし、息をつき、再び作業に戻る。それを繰り返す。
だが彼の集中力は、明らかに落ちていた。
初めのうちは丁寧だった本の扱いが、次第に雑になっていく。元の場所に戻すのが億劫になり、梯子を降りた足元に、とりあえず積んでおくようになった。
一冊、また一冊と、彼の周りに、見終わった本の小さな山ができていく。それは、彼自身が、無意識のうちに作り出した、新たな「障害物」だった。
「どこだ……どこにあるんだ……!」
彼の口から、焦燥に満ちた声が漏れる。
ランタンの油も、もう長くはもたないだろう。
その時だった。
セオドアは、ある書棚の最上段に、ひときわ古めかしい、黒い革で装丁された書物に気づいた。何のタイトルも記されていない。背表紙に刻まれた王家の紋章だけが、鈍く金色に輝いている。
これだ。
直感が、彼にそう告げていた。
セオドアは急いで梯子を駆け上がった。
そして、その黒い本を、ついに手にした。
ずしりと重い。
この中に、きっと、すべての答えがある。
彼は、安堵の息を漏らし、その本を胸に抱き、急いで梯子を降りていく。
―・―・―・―・―・―・―・―
セオドアは悪夢を再現せぬよう、障害となりえそうなものを排除した。だが運命は、彼が周到に避けてきた「筋書き」を嘲笑うかのように、まったく別の場所で、新たなる連鎖を生み出していた。
禁書庫の真上、一階上のフロアの廊下。
そこでは夜警の衛兵が見回りをしていた。彼はひどい眠気に襲われており、大きなあくびをする。
「ふぁ……。ちと、休憩させてもらうか」
衛兵は、近くにあった物入れの扉を開け、そこに腰を下ろして、こっそり仮眠を取ることにした。
物入れの中は、掃除用具などが詰め込まれ、ごった返していた。衛兵が腰を下ろした衝撃で、棚の上に置いてあった金属製のバケツが、わずかに傾く。
そのバケツには水が半分ほど入っていて、傾いたことによって、水が少量ずつこぼれていく。
その水は、古い床板の隙間から階下――セオドアがいる禁書庫の天井へと、ぽたり、ぽたりと滴り落ち始めた。
一滴、また一滴。
それは、セオドアがいる場所から少し離れた、書庫の別の通路の天井だった。
その天井には、何百年分もの埃が積もっていた。それはもはや埃と言って済むような軽いものではない。長い年月で凝固し、その塊は天井と一体化していた。
上の階からこぼれ落ちてきた水は、何百年もの埃が積もった天井板に染み込こんでいった。そして重みを少しずつ増やしていく。
もちろん、階下にいるセオドアには、頭上で起きていることなど知る由もない。
自分たちを襲う悪夢を解決する手がかりを見つけた。その歓喜に任せて、彼は梯子から勢いよく飛び降りた。
ドスンっ
わずかな衝撃。
だがそれが禁書庫の一部を揺らし、軋ませ、限界を迎えさせた。
バサバサッ
セオドアのすぐ近くで、何かが落ちる音がした。
驚いて音のした方を見ると、天井板の一部が剥がれ落ちていた。
上の階から水が注がれ、染み込んだ水の重さに耐えきれなかったのだ。
そして、天井裏に巣を作っていたらしいネズミの群れが、衝撃にパニックを起こして一斉に走り出した。
何十匹ものネズミが、天井裏の梁を駆け巡る。
そのうちの一匹が、足を滑らせた。
体勢を崩したネズミが、梁の上に置かれていた、錆びた鉄の滑車にぶつかった。
その滑車は、もう何十年も使われていない、古い荷物昇降機だった。
ネズミがぶつかった衝撃で、滑車はゆっくりと回転を始める。
そして、それに巻きつけられていた、同じく錆びてボロボロになった麻のロープが、ずるずると引きずられていった。
ロープの先には、カウンターウェイトとして使われていた、鉄の塊が結び付けられている。その鉄塊は、セオドアがいる通路の、ちょうど真上の梁から、ぶらりと吊り下げられていた。
セオドアは、一連の出来事を、呆然と見上げていた。
(なんだ……? これは、夢にもなかった……)
目の前で起きている、不気味な偶然の連鎖。
セオドアは言いようのない恐怖を覚え、背筋が凍るのを感じた。
(逃げなければ!)
黒い本を強く握りしめ、出口に向かって走り出した。
しかし、焦りから乱雑に積み上げていた、足元の本の山が、彼の行く手を阻む。
「くそっ!」
彼は、本を蹴散らしながら、必死に進んだ。
その時、天井裏を走り回るネズミの群れが、今度は別のものを蹴飛ばした。
古い木箱に入った大量のガラス玉だった。かつて装飾に使われていたのだろう。
ガラス玉の入った木箱が乱雑に、それなりの数が置かれていた。そのひとつひとつに、走り回るネズミたちが、ゴンゴンと体当たりをする。
木箱が傾き、階下に落ちていく。そしてガラス玉が一気にばらまかれた。
何百、何千というガラス玉が、滝のように床へと降り注ぐ。
パラパラパラ……!
ガラス玉は、硬い石の床に当たって、ありとあらゆる方向へと弾け飛ぶ。
まるで、目に見えない悪魔が、罠をばらまいているかのようだった。
セオドアは足元に転がってきたガラス玉を踏み、大きくバランスを崩す。
「うわっ!」
必死に体勢を立て直そうとするセオドア。だが次から次へと転がってくるガラス玉に、足を取られ続けて体勢を整えられない。
やがて彼は派手に転倒してしまった。
その衝撃で、彼が手に持っていたランタンが、床に叩きつけられて割れた。中の油が、床に散らばっていた本に、古い羊皮紙の巻物に、じわりと染み込んでいく。
そして、最悪の事態が起きた。
ランタンの火種が、油の染みた羊皮紙に、燃え移ったのだ。
ぼっ、と音を立てて、炎が上がる。
炎は、乾燥しきった古い紙をあっという間に燃え上がらせる。
火の勢いは瞬く間に大きくなり、近くにあった書棚へと燃え移っていく。
「なんてことだ……」
セオドアは、顔面蒼白になった。
この紙の迷宮で、火事。
それは、最も恐れるべき事態と言っていい。
煙が、瞬く間に書庫に充満し始める。
セオドアは咳き込みながら立ち上がり、再び出口を目指した。
しかし、彼の頭上で、最後の運命が動き出していた。
火事でパニックを起こしたネズミの一匹が、梁からぶら下がっていた錆びた麻のロープを、カリカリと齧り始めた。
元々腐食して脆くなっていたロープは、ネズミの鋭い歯によって、いとも簡単に断ち切られていく。
そして、ついに。
ぷつん、と、ロープが切れた。
セオドアは、頭上に何かの気配を感じた。
顔を上げ、それを見上げる。
彼の目に映ったのは、自分に向かって落下してくる、黒い鉄の塊だった。
それは、カウンターウェイト。
死の重り。
(ああ……そうか……)
彼の脳裏に、リリアナの顔が浮かんだ。
(君が教えてくれた筋書きを避けても……結局は、こうなるのか……)
どんなに知恵を絞っても、どんなに抵抗しても、死の運命は必ず別の殺意を用意してくる。まるでこの結末こそが、唯一の正解だと言わんばかりに。
彼は、静かに目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、ガゼボで仲間たちと笑い合った、穏やかな日の記憶。
(すまない……皆……)
ゴッ! という、鈍い音。
セオドアの最後の思考は、頭蓋が砕ける衝撃によって、完全に断ち切られた。
―・―・―・―・―・―・―・―
禁書庫の扉の外で、リリアナはひたすら祈り続けていた。
(神様、どうか……彼をお守りください……)
胸の前で強く手を組み、祈った。
その祈りに応える神がいるのかどうか、彼女にはもはや分からない。けれど、祈らずにはいられなかった。
だが、彼女の祈りは無為なものとなる。
ドスン、という重い音が扉の向こうから聞こえた。
そして、何かが燃える匂いが立ち上る。
ただならぬ気配にリリアナは、いてもたってもいられず扉を開けてしまう。
禁書庫内に充満していた煙が、一気に廊下へと流れ出した。
「セオドア様!」
リリアナは咳き込みながら、禁書庫の中へと足を踏み入れた。
そして、見た。
床に倒れ、頭から血を流して動かなくなった、セオドアの姿を。
そのすぐ傍らには、歪んだ鉄の塊が転がっている。
そして、遠くでは、書棚がごうごうと音を立てて燃え上がっていた。
「あ……ああ……あああああ……っ!」
リリアナは、口元を押さえて後ずさった。
助けを、呼ばなければ。
火を、消さなければ。
しかし、彼女の体は、恐怖で縫い付けられたように動かない。
その時、彼女は気づいた。セオドアの手が、何かを握りしめていることに。
それは、一冊の、黒い革で装丁された古い本。
彼は死の間際まで、これを手放さなかったのだ。
彼が命と引き換えに、守ろうとしたもの。
リリアナは震える手で、セオドアの冷たくなった指を一本ずつこじ開け、その本をそっと抜き取った。
ずしりと重い。
まるでセオドアの、そしてギルバートとフェリクスの、命の重みが宿っているかのようだった。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……」
リリアナは、こと切れた友の、セオドアの亡骸に深く頭を下げる。涙ながらに謝りながら、彼女は燃え盛る書庫を後にした。彼が守り抜いた、黒い本を胸に抱いて。
この本を、アレクシスの元へ届けなければ。
これこそが、セオドアが残してくれた、唯一の道標なのだから。
確かにその本は、アレクシスたちを真実へと導いてくれるだろう。
だが彼らを待っているのは、あまりにもおぞましい真実である。
そのことをまだ、リリアナは知らない。
-つづく-
■セオドアを襲った「死のピタゴラスイッチ」(悪夢編)
1.セオドアが移動式の梯子を使った際、マントの裾が近くの天球儀に引っかかる。
2.彼が梯子を降りた瞬間、マントに引かれた天球儀が倒れ、ドミノのように並べられた分厚い辞典に当たる。
3.列をなしていた辞典が次々と倒れ、最後の1冊が、湿気で腐った床に置かれて不安定だった梯子の脚部に激突。
4.その衝撃が本棚に伝わり、腐った床に沈み込んで垂れ込む。
5.本棚がドミノ倒しのように次々倒れていく。ひとつ、またひとつと轟音を立てて連鎖的に倒壊。
6.セオドアは逃げようとするが、禁書庫の小窓から、突風が吹き込み、古い羊皮紙が彼の顔面に張り付く。
7.コンマ数秒の遅れが命取りとなり、彼は四方から迫る何万冊もの「知識の津波」に飲み込まれ、圧殺された。
■セオドアを襲った「死のピタゴラスイッチ」(現実編)
1.禁書庫の上の階を見回りをしていた衛兵が、眠気に耐えきれずサボろうとする。
2.掃除用具の入った場所で腰を掛けたら、水の入ったバケツを倒す。
3.バケツの水が古い床下の隙間から階下の天井裏へこぼれていく。
4.数百年分も溜まった天井裏の埃が水を吸い、重くなって天井が軋む。
5.重さに耐えきれず天板が落ちた。その衝撃で天井裏のネズミがパニックに。
6.梁を走る鼠が、何十年を使っていない古い荷物昇降機にぶつかる。
7.滑車が回転を始め、ボロボロのロープに吊り下げられた鉄塊が動き出す。
8.仕舞われていたガラス玉入りの箱にネズミがぶつかり、禁書庫にばらまかれる。
9.逃げようとしたセオドアが、ガラス玉に足を取られて転倒。
10.転んだ拍子にランタンを落とし、油が本や羊皮紙に染み込む。
11.ランタンが割れ、禁書内の本に燃え移って大火事に。
12・火事でパニックを起こしたネズミが、滑車のロープにかじりついた。
13.ロープが切れ、カウンターウェイトの鉄塊が落下。
14.逃げようとしていたセオドアの上に落下してきて、潰される。
※第5話の更新は明日、7月27日(日)の朝8時になります。
※感想や評価などいただけると励みになります。よろしくお願いします。