02:死のプレリュード ~騎士の最期~
夜の帳が王都を包み込む頃。リリアナ・アシュフォードは深い眠りの底にいた。
彼女は夢を見ていた。その夢は、はじめ、砂糖菓子のように甘く、幸福に満ちていた。いつもの中庭のガゼボ。燦々と降り注ぐ陽光の下で、アレクシスが優しく微笑みかけてくれる。傍らではギルバートが快活に笑い、フェリクスが竪琴で祝福の旋律を奏で、セオドアとルーカスが楽しげにチェスを指している。誰もが笑っていた。永遠に続くかのような、穏やかで輝かしい時間。リリアナは、この幸せがずっと続けばいいと、夢の中でさえ願っていた。
だが。その願いを嘲笑うかのように、世界が不意に色褪せ始めた。
空の色が、抜けるような青から、病的な鉛色へと変わる。鳥のさえずりは途絶え、代わりに耳鳴りのような不快な音が響き始めた。アレクシスの優しい微笑みは能面のように無表情になり、仲間たちの楽しげな声は、どこか遠く、くぐもって聞こえる。
「どうしたのですか、皆様?」
リリアナが問いかけても、誰も答えない。彼女の声だけが、冷たい空気に虚しく溶けていく。
景色が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前に広がったのは、見慣れたガゼボではなかった。
「ここは……」
土と汗と鉄の匂いが混じり合う、騎士団の訓練場だった。
空は相変わらず不気味な鉛色で、観客席に人は誰もいない。だだっ広い空間に、たったひとり、愛馬に跨るギルバートの姿があった。
彼は馬上槍試合の訓練用の鎧を身に着け、樫の木の槍を構えている。その表情は真剣そのものだったが、どこか焦燥の色が浮かんでいるように見えた。
「ギルバート様……?」
リリアナの声は、やはり誰にも届かない。彼女はまるで透明な幽霊にでもなったかのように、ただその光景を見つめることしかできなかった。
ギルバートが馬の腹を蹴り、突進を開始する。目標は、前方に設置された木馬の的。土を蹴り上げる馬蹄の音だけが、不自然なほど大きく響き渡る。
速い。
あまりにも速い。
まるで何かに追われるかのように、彼の突進には悲壮なまでの勢いがあった。
そして、運命の瞬間が訪れる。
槍の穂先が木馬の的に吸い込まれる、その刹那。
世界が、スローモーションになった。
ドンッ、という鈍い衝撃音が響く。
それと共に、頑丈なはずの木馬が、意思を持ったかのようにぐらりと傾いだ。
ギルバートの槍は的を逸れ、ありえない角度で訓練場の石壁に叩きつけられる。
ガギィィィン!
鼓膜を突き破るような、甲高い金属音。
槍の穂先が砕け散る。
しかしその勢いは止まらない。
柄の部分が石壁の亀裂に深々と食い込み、樫の木の槍が限界を超えてしなった。
ミシミシと木繊維が断裂する嫌な音が、リリアナの耳の奥で木霊した。
やめて。
やめて―――!
声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。
次の瞬間、限界に達した槍の柄が爆ぜた。
縦に、裂けた。
鋭利な木片が四方八方に飛び散る。まるで悪意の塊のように。
そのうちの一本。ひときわ長く、ナイフのように尖った破片。
スローモーションの世界を切り裂き、鋭いそれがギルバートへと向かっていく。
彼はバランスを崩した愛馬の上で体勢を立て直そうと必死だった。
その顔には、驚愕と、ほんの少しの諦観が浮かんでいた。
鋭い槍の破片が、ギルバートに迫る。
彼の頭を守る兜と、胸を覆う鎧の、わずかな隙間――陽の光を浴びて汗の光る、無防備な首筋に吸い込まれていく。
そして、ギルバートは―――。
「いやああああああああッ!」
リリアナは絶叫して、ベッドから跳ね起きた。
心臓が、胸を突き破らんばかりに激しく鼓動している。全身はびっしょりと冷や汗に濡れ、荒い呼吸が肩を上下させていた。窓の外はまだ暗く、部屋の中はしんと静まり返っている。
夢だ。あれは、夢だったのだ。
しかし、瞼の裏に焼き付いて離れない光景は、あまりに鮮明だった。
石壁に激突する槍の音。
木が裂ける不吉な軋み。
そして、血の気のないギルバートの顔。
目の前で繰り広げられた惨劇は、現実としか思えないほどリアルだった。
「はぁっ……はぁっ……」
リリアナは震える手で胸元を押さえた。喉がカラカラに乾き、身体の芯が氷のように冷え切っている。
なぜ、あんな夢を?
騎士であるギルバートが訓練で死ぬ夢など、あまりに縁起が悪すぎる。
胸騒ぎが止まらない。
言いようのない恐怖が、じわりじわりと彼女の心を蝕んでいく。
……あの夢は、ただの悪夢ではない。
そんな根拠のない確信が、リリアナの背筋を凍らせた。
―・―・―・―・―・―・―・―
悪夢から目覚めた後、リリアナはほとんど眠れないまま朝を迎えた。
鏡に映る自分の顔は青白く、目の下には隈ができていた。侍女に心配されたが、「少し考え事をしていただけ」と曖昧に笑って誤魔化すのが精一杯だった。
彼女は、アレクシスたちが立てた禁断の計画など知る由もない。ただ、ここ数日、彼らの様子がおかしいことには気づいていた。
特に、王太子であるアレクシスの瞳には、時折、追い詰められたような昏い光が宿ることがあった。彼を囲む四人の側近たちもまた、いつもの軽やかさを失い、どこか張り詰めた空気を纏っている。
昼下がり。
いつものガゼボで彼らと顔を合わせた時、リリアナの胸騒ぎは頂点に達した。
「リリアナ嬢、顔色が優れないようだが、大丈夫か?」
声をかけてきたのは、他ならぬギルバートだった。彼はいつもと変わらない快活な笑顔を浮かべている。だがリリアナには、その笑顔の裏に潜むわずかな翳りが見えるような気がした。
「ギルバート様……」
彼の顔を直視できない。昨夜の悪夢がフラッシュバックし、槍に貫かれた彼の姿が脳裏をよぎる。リリアナは思わず目を伏せた。
「いえ、大丈夫です。少し、夢見が悪かっただけで……」
「そうか? 無理はするなよ」
屈託なく笑うギルバートの優しさが、リリアナの胸をナイフのように抉った。
言わなければ。あの夢のことを、伝えなければ。
しかし、どうやって?
『昨夜、あなたが訓練で死ぬ夢を見ました』とでも言うのだろうか。
根拠のない、ただの悪夢だ。
そんな不吉な話をして、彼らを不安にさせたいわけではない。
きっと、ただの考えすぎだ。
最近、皆の様子がおかしいから、その不安が悪い夢を見せたに違いない。
リリアナはそう自分に言い聞かせ、言葉を飲み込んだ。
その優しさと遠慮が、取り返しのつかない後悔に繋がることを知ることもなく。
そんなリリアナを他所に、アレクシスは声を潜めてセオドアと会話をしている。
「それで、例の件の進捗は?」
「ええ、殿下。イザベラ嬢が夜会で身につける予定の宝飾品について、隣国との繋がりを指摘する資料は揃えました。あとは、彼女の言動を捉えるだけです」
「そうか。ルーカス、君の方は?」
「任せといてくださいよ、殿下。当日は俺の息のかかった連中を何人も潜り込ませます。殿下の糾弾に合わせて、やんややんやと囃し立てさせますから。世論なんて、そんなもんですよ」
「……」
フェリクスだけは、黙って竪琴の弦を指でなぞっている。その表情は、なにかを思い悩むようにどこか曇っていた。
彼らの会話は断片的だったが、リリアナの耳にも入ってきた。何か重大なことを企んでいるのは明らかだったが、彼女はその会話に加わることもできず、ただ不安げに彼らの顔を見つめることしかできなかった。
「よし。俺は少し身体を動かしてくる。こうしてると、どうにも余計なことばかり考えてしまってな」
ギルバートが、立ち上がって大きく伸びをした。
「騎士たるもの、いかなる時も心身を鍛えておかねば。殿下のため、そして……リリアナ嬢、君の笑顔を守るためにもな」
彼は悪戯っぽくウインクを送ると、訓練場の方へと歩いていった。
その広い背中を見送りながら、リリアナの胸に、再び冷たい何かが突き刺さる。
どうか、ご無事で。
声にならない祈りは、やはり誰にも届かなかった。
―・―・―・―・―・―・―・―
運命の日は、悪夢から三日後に訪れた。
その日、騎士団の訓練場は、いつにも増して活気に満ちていた。
訓練場の隅で、新米騎士のトマスが武具の整備をしていた。油の入った革袋を床に置いて作業に没頭している。それ事態はいつものこと。誰でもしていることだ。
「おい、トマス! 団長がお呼びだぞ。至急だ!」
先輩の鋭い声に、トマスは「はい!」と慌てて立ち上がった。
その際、足元の革袋を蹴飛ばしてしまった。粘度の高い武具用の油が少量、石畳の上にじわりと広がった。
「あ……」
一瞬、すぐに拭き取ろうかと思った。
だが団長の呼び出しは待ってくれない。
「後で拭けばいいか」
彼はそう判断し、急いでその場を走り去った。
しかし、団長からの用件は思いのほか長引いた。
さらに別の雑用を言いつけられてしまう。
彼は小さな油の染みのことなど、すっかり忘れてしまった。
それからしばらくして。
別の騎士・ロランが訓練を終え、石畳が脂に濡れた場所を通りかかった。
ひどく喉が渇いていた彼は、腰に下げた金属製の水筒に手を伸ばす。
その瞬間だった。
彼の革靴の底が、トマスが拭き残した油を踏んでしまう。
「うおっ!?」
ロランは無様にバランスを崩し、派手に尻餅をついた。
そして、その手から水筒がすっぽ抜ける。
水筒は、硬い石畳の上をカーン!と軽快な音を立てて滑っていった。
まるで銀色の円盤のように回転しながら、一直線に。
放り出された水筒が行き着いた先。
そこは馬上槍試合の訓練で使われる木馬の脚部だった。
カツン。
水筒は、木馬の脚を固定している鉄製の楔に、ごく軽い衝撃を与えて止まった。
見た目には、何の変哲もない。誰も気に留めなかった。ロランですら、尻の痛みに顔をしかめながら立ち上がり、悪態をついて水筒を拾いに行っただけだ。
目に見えないほどの、小さな衝撃。
それが、長年の使用で摩耗し、わずかに緩んでいた楔を、さらに数ミリ、致命的なほどに浮き上がらせてしまう。
そこに、ギルバートが現れた。
「よし、やるか」
彼は愛馬の手綱を引きながら、深く息を吸い込んだ。
頭をよぎるのは、アレクシスの苦悩に満ちた顔と、リリアナの不安げな瞳。
(俺がやらないと。殿下のために、リリアナ嬢のために、もっと強くならねば)
騎士道に反する卑劣な計画。その罪悪感は、彼の心を重く苛んでいた。
だからこそ、彼は訓練に打ち込んだ。
身体を動かし、汗を流している間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
騎士としての己を、純粋に感じることができた。
ギルバートは軽やかに愛馬に跨ると、樫の木で出来た訓練用の槍を手に取る。
ずしりと重い槍の感触が、彼の心を落ち着かせる。
彼は馬を操り、木馬との距離を取った。そして、槍を水平に構える。
「行くぞ!」
一声叫ぶと同時に、馬の腹を強く蹴った。
愛馬は主の意志に応え、風のように駆け出す。
馬蹄が地を蹴り、砂塵が舞い上がる。
目標は、前方の木馬の中心にある、拳ほどの大きさの的。
彼の瞳は、そこにまっすぐに注がれていた。
寸分の狂いもない。
これまでの訓練の成果が、彼の全身に漲っていた。
あと十メートル。
五メートル。
一メートル。
槍の穂先が、的の中心を捉える――その瞬間。
ドンッ!
凄まじい衝撃と共に、ギルバートの身体が大きく揺れた。
だが、いつもと違う。
槍が的を貫く感触ではなく、何か硬いものに弾かれたような、鈍い衝撃。
見ると、槍が命中したはずの木馬が、根元からぐらりと大きく傾いていた。
あの、水筒が当たった楔が、衝撃に耐えきれず、完全に外れてしまったのだ。
「しまっ……!」
ギルバートは体勢を立て直そうとする。
だがもはや手遅れだった。
衝撃を受け流しきれなかった槍は、彼の腕から逸れていく。
本来ありえない角度で、訓練場の古びた石壁に向かって突き進む。
ガギィィィン!
鼓膜を突き刺すような、耳障りな金属音。
リリアナ以外は知らないが、あの悪夢で鳴り響いた音だ。
槍の穂先は石壁に激突して砕け散った。
しかし、突進の勢いは止まらない。
頑丈な樫の木の柄にその勢いが乗り移る。
柄の先端が、石壁にあった古い亀裂に、吸い込まれるように突き刺さった。
その瞬間、ギルバートの脳裏に、リリアナの悲しげな顔が浮かんだ。
石壁を支点にして、槍の柄がテコの原理で大きくしなる。
ミシッ……
限界を超えた樫の木が、断末魔の悲鳴を上げた。
まるで巨大な生き物が骨を折るような、嫌な音。
そして。
バァンッ!
乾いた破裂音と共に、槍の柄が爆ぜた。
縦に、裂けた。
何本もの鋭く尖った木片が、悪意の塊となって四方八方に飛び散る。
訓練場にいた他の騎士たちが、悲鳴を上げて身を伏せた。
だが、ギルバートだけは動けなかった。
バランスを崩した愛馬の上で、彼の身体は一瞬、宙に浮いたようになっていた。
その無防備な身体をめがけて、一本の木片が飛来する。
ひときわ長く、ひときわ鋭利な、まるで死神の指先のような木片が。
それは、スローモーションのように。
ギルバートの頭を守る兜と、
胸を覆う鎧の間の、
何の防具もない空間――剥き出しの喉元に、
寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
ブスッ、という鈍い音。
ギルバートの動きが、ぴたりと止まった。
彼の大きく見開かれた瞳には、驚愕の色。
そしてほんのわずかな、安堵のようなものが浮かんでいた。
まるで、これでようやく罪悪感から解放される、とでも言うように。
喉を貫いた槍の破片を揺らしながら、彼の巨体が馬から崩れ落ちていく。
ドサッ、という重い音と共に。
ギルバートは、二度と動かなくなった。
一瞬の静寂。
その静寂を破ったのは、誰かの絶叫だった。
「ギルバート!!」
「医者を呼べ! 早く!」
訓練場は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
騎士たちが駆け寄り、おびただしい血の海で横たわる友の名を叫ぶ。
だが、声が返ってくることはもう、永遠にない。
―・―・―・―・―・―・―・―
「……訓練中の、不運な事故としか考えられません」
駆けつけた医師は、検分を終えると、沈痛な面持ちでそう結論付けた。
「整備係が油を拭き忘れ、別の騎士がそれで滑って水筒を落とし、その水筒が偶然にも木馬の固定具を緩ませた……。それぞれの事象は些細な不注意や偶然です。しかし、それが奇跡的とも言える確率で連鎖し、このような悲劇を引き起こした……。まことに、お気の毒としか……」
知らせを受けて現場に駆けつけたアレクシス、セオドア、ルーカス、フェリクスは、親友の無残な亡骸を前に、ただ言葉もなく立ち尽くしていた。
ついさっきまで、笑っていた。俺たちのために、と訓練に向かったはずの男が、今は冷たい石畳の上で、血に塗れて横たわっている。
「嘘だろ……ギルバート……」
ルーカスが、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
フェリクスは顔を真っ青にして、壁に手をついて嘔吐を堪えている。
セオドアは唇を強く噛みしめながら、親友の亡骸を見つめていた。
アレクシスは、震える手で親友の顔にかかった髪をそっと払った。その顔は、苦悶もなく、どこか安らかにさえ見えた。
「すまない……ギルバート……」
絞り出した声は、誰の耳にも届かなかった。
―・―・―・―・―・―・―・―
その頃、リリアナは侍女から、ギルバートの訃報を聞いていた。
「――様が、訓練中の事故で、お亡くなりに……」
侍女の言葉が終わる前に、リリアナの世界から、すっと音が消えた。
血の気が引き、視界が白んでいく。
頭の中で、あの悪夢が何度も何度もリフレインする。
裂ける槍、飛び散る木片、ギルバートの喉元に突き刺さる瞬間。
ああ。
ああ、ああ、ああ。
現実になった。
私の、せいだ。
私が、あの夢のことを、言わなかったから。
もし、私が一言でも伝えていれば。
今日の訓練を休んで、とお願いしていれば。
彼は死なずに済んだのかもしれない。
「ああ……あ……」
声にならない声が漏れる。
激しい罪悪感と、己の予知を確信してしまった恐怖が濁流のように彼女を襲う。
リリアナは糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
―・―・―・―・―・―・―・―
その夜。
王太子の私室に、部屋の主と親友たちが集まった。部屋の中の雰囲気は息が詰まるような重苦しいもの。彼らの心は、仲間を失った悲しみと、計画を前にして起きた悲劇に対する焦りで満たされていた。
そこに、ノックの音が響く。
「……誰だ」
アレクシスの不機嫌な声に応えて入ってきたのは、顔面蒼白のリリアナだった。
王城にある王太子の私室だ。普通の人間では近づくことすらできない。ましてや夜、しかも令嬢ならばなおさらだ。
しかし今のリリアナは、なにかに追い詰められたような顔をしている。両親や周囲の制止を押し切ってここまでやって来たかのような、鬼気迫るものをアレクシスたちは感じ取った。
リリアナは、まるで亡霊のように力なく部屋に入ってくる。そして、部屋に集まっているアレクシスたちを見回した。
「リリアナ嬢……? どうしてここに……」
セオドアが驚いて立ち上がる。
リリアナは、その問いには答えず、ふらふらとした足取りでアレクシスの前に進み出た。そして、震える唇で、言葉を紡ぎ始めた。
「私、見たの……!」
その声は、か細く、しかし確かな響きを持っていた。
「私、見たんです……! ギルバート様が、死んでしまう夢を……!」
リリアナの、突然の告白。
部屋にいた全員が、息をのんだ。
「あの夜です……! 皆様にお会いした、あの日の夜に……! 訓練場で、槍が裂けて……喉を……! まったく、同じでした……! 細かいところまで、何もかも……!」
リリアナの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。彼女は、アレクシスの胸にすがりつくようにして泣きじゃくった。
「私が……! 私が、言わなかったから……! 不吉な夢だなんて、根拠のない話で皆様を不安にさせたくないなんて、そんなことを考えて……! 私が、ギルバート様を……!」
悪感に苛まれた彼女の悲痛な叫びが、部屋に響き渡る。
アレクシスは、愛する女性の思いもよらぬ言葉に衝撃を受ける。反射的に、彼女の震える身体を強く抱きしめた。
「落ち着くんだ、リリアナ! 君のせいじゃない! あれは、事故だったんだ!」
そう、事故だ。偶然が重なった、不運な事故。そうに決まっている。
心労による幻覚だ。彼女は疲れているんだ。ギルバートの死のショックで、夢と現実が混同しているに違いない。
アレクシスは必死に自分に言い聞かせた。しかし、腕の中で泣きじゃくるリリアナが口にする夢の内容が、詳細すぎるほどに現実と一致する。
彼の心の奥底で、言いようのない感情を含んだ冷たい風が吹きすさぶ。まるで不安の種を植え付け、芽吹かせようとするかのように。
それは逃れられぬ死の連鎖を告げる、不吉なプレリュードだった。
-つづく-
■ギルバートを襲った「死のピタゴラスイッチ」
1.訓練場の隅で、整備係がこぼした油を拭き残す。
2.別の騎士がその油で滑って転び、水筒を落とす。
3.転がった水筒が訓練用の木馬に当たり、固定具をわずかに緩ませる。
4.ギルバートが訓練を開始。彼が木馬に突撃した瞬間、緩んだ固定具が外れて的が傾く。
5.バランスを崩したギルバートの槍が、的の木馬ではなく石壁に激突。
6.石壁に元々あった微細な亀裂に槍が刺さり、槍が裂ける。
7.裂けた槍の鋭利な先端が、意志を持ったかのように跳ね返る。
8.落馬しかけたギルバートの兜の隙間から、夢と寸分違わず喉元を貫く。
※第3話の更新は、7月21日(月)の朝8時になります。
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