第九十四話:真球の魔法と微小なる濾材
「ねえ、レオナール様、ちょっと試してみる?」
クレアの問いかけに、レオナールの目は知的好奇心に輝いた。未知の魔法、それも物質を自在に加工するという魅力的な魔法を、自らの手で試せるかもしれない。
「はい、ぜひお願いします、クレア先生! もしよろしければ、ご指導いただけますでしょうか?」
「ふふ、もちろんよ!」クレアは快活に頷き、床に描かれた魔法陣へとレオナールを促した。「基本的な魔力の込め方は、他の物質変性系の魔法と似ているわ。重要なのは、この中央の材料スペースに置いた物質の総量を正確に認識し、そして生成したい球の『大きさ』を周囲の補助魔法陣で明確に指定すること。あとは、魔法陣が自動的に最適な変換プロセスを実行してくれるはずよ」
彼女は、魔法陣の各部の機能と、魔力制御のコツを、かつての家庭教師のように分かりやすく、しかし専門家としての深い洞察を交えながら説明していく。レオナールは、その言葉を一言一句聞き漏らすまいと、真剣な表情で耳を傾けた。
「まずは、材料ね。はい、これを使ってごらんなさい」
クレアは、実験用の籠の中から、手頃な大きさの、ややごつごつとした拳大の石を一つ取り出し、レオナールに手渡した。
「この石の『全体』を、そうね、まずは私の指先くらいの大きさ……ええと、人の親指の先ほどの太さの球に変換するイメージで、補助魔法陣で大きさを指定して、魔力を込めてみて」
レオナールは、クレアに示された通りに拳大の石を魔法陣の中央にある材料スペースにそっと置いた。そして、クレアに教わった補助魔法陣の一つに意識を集中し、魔力を流し込む。クレアの的確なアドバイスを受けながら魔力調整を行うと、魔法陣が淡い光を放ち始めた。
(石全体の質量と、目標とする球の体積…そこから個数を割り出し、均一に分割・再構成するプロセスを魔法陣が担うのか…)
彼が魔力をさらに高めると、中央に置かれた拳大の石が、まるで柔らかい粘土のように形を崩し始めた。次の瞬間、眩い光が迸り、石は完全にその姿を消し、光が収まった後には、魔法陣の上に、数個の、寸分違わぬ大きさの完璧な球体が、まるで計算されたかのように整然と並んでいた。それぞれが、クレアが示した通り、レオナールの親指の先ほどの太さで、表面に石本来の質感とは明らかに異なる光沢を帯びている。
「……これは……!」
レオナールは、その見事な変換プロセスと、生成された球体の完璧なまでの球形、そしてその均一な仕上がりに息をのんだ。一つの大きな塊から、これほど精密に複数の球体を生み出すとは。手で触れてみると、表面は驚くほど滑らかで、どこにも歪みや凹凸は見当たらない。
(すごい魔法だ……。材料の全てを、無駄なく、かつ寸分の狂いもなく望みのサイズの真球に変換するとは。これならば、ベアリングのような精密な部品も、規格を揃えて大量生産できるかもしれない。あるいは、もっと別の……医療用の微細なカプセルや、実験装置の精密な部品にも応用できる可能性がある)
彼の頭の中では、この魔法の応用可能性が、次から次へと広がっていく。
「上出来よ、レオナール様!完璧ね!」クレアが、満足そうに手を叩いた。「次は、大きさを変えてみましょうか。この補助魔法陣の組み合わせを変えることで、基準の大きさから、任意の割合で大きさを調整できるのよ」
彼女は、先ほどとは違う補助魔法陣の組み合わせと、そこへの魔力の込め方をレオナールにレクチャーした。
レオナールは、再び拳大の石(先ほどのものとは別の石だ)を材料スペースに置き、今度はクレアに教わった通り、元の大きさの十分の一程度のサイズを指定して魔法を発動させた。魔法陣が再び光り、拳大の石は瞬く間にその姿を消し、その代わりに、魔法陣の上には、無数の、しかしどれも均一な大きさの小さな球体が、まるで砂のように広がった。直径にして1.5mmといったところか。
レオナールは、その微細な球体を指先でつまみ上げ、目を凝らした。一つ一つが、やはり完璧な球形をしている。
「では、さらに小さく……元の百分の一くらいに挑戦してみましょう」
クレアが、さらに別の魔法陣の操作方法を教える。レオナールは、再び拳大の石を材料に、ごく微細なサイズを指定して魔法を発動させた。今度こそ、石が溶けて霧散したかのように見えたが、光が収まった後、魔法陣の上には、もはや肉眼では個々の形を捉えるのが難しいほどの、極めて微細な粒子の集まりが、薄く広がっていた。
レオナールは、その光景に強い興味を覚えながらも、同時にある懸念を抱いた。
(これほど微細な粒子となると……。もし、これをさらに小さく、例えば元の大きさの一万分の一、十万分の一と続けていけば、それこそ目に見えないほどの、空気中に容易に浮遊するような粒子を作り出すことも可能なのではないか? 前世で問題視されていたPM2.5は、直径2.5マイクロメートル以下の微小粒子状物質だった。この魔法を使えば、それよりも遥かに微細な、もはや個々の形を認識することすら難しい領域の粒子すら生成できるかもしれない。だが、そのような超微粒子は、吸い込めば肺の奥深くどころか血液中まで到達し、深刻な健康被害を引き起こす可能性がある。この世界の人間は、そのような微粒子に対する防御機構も、おそらくは知識すら持っていないだろう。これは、使い方を誤れば、非常に危険な技術にもなり得る)
「先生」レオナールは、神妙な面持ちでクレアに尋ねた。「この魔法で、さらに小さな、それこそ目に見えないほどの粒子を作ることも可能なのでしょうか?」
「さあ、どうかしら」クレアは、少し首を傾げた。「理論上は可能かもしれないけれど、そんなに小さなものを作って、何に使うというの? 私の『魔力投射機』の弾には、さすがに小さすぎるわね」
彼女は、あまりその危険性については考えていない様子だった。レオナールは、これ以上微小な粒子を作ることは、今は避けるべきだと判断した。
「いえ、先生のおっしゃる通りです。実用的な意味はあまりなさそうですね。むしろ、あまりに微細なものは、何らかの予期せぬ影響があるかもしれません。今日は、この辺にしておきましょう」
レオナールは、クレアの興味を別の方向へ逸らすように、穏やかに言った。
「そう? まあ、レオナール様がそう言うなら」
クレアはあっさりと頷き、魔法陣の光を消した。
その後、レオナールはクレアに、自身の特別研究科での活動や、アシュトン博士との共同研究について簡単に報告し、彼女の爆発魔法応用学の進展についても、差し障りのない範囲で話を聞いた。かつての恩師との再会は、彼にとって有意義な時間となった。
「先生、本日は貴重な魔法を見せていただき、そしてご指導いただき、本当にありがとうございました。大変参考になりました」
「いいえ、どういたしまして。あなたのような優秀な教え子が、こうして訪ねてきてくれるのは、私にとっても嬉しいことよ。またいつでも、研究の息抜きにでもいらっしゃいな」
クレアに丁重に礼を述べ、レオナールは貴族学院を後にした。
王都の喧騒の中を馬車に揺られながら、彼の頭の中は、先ほどの「真球生成」の魔法のことで一杯だった。
(あの魔法……。確かに、ベアリングや精密部品への応用も考えられる。だが、俺が今、最も必要としているのは……そうだ、フィルターだ!)
クラウスが、アオカビ培養液の滅菌用フィルターの開発で難航している。既存の素材では、微細な細菌やカビの胞子を完全に取り除くことができない。だが、もし、あの真球生成の魔法を応用し、例えば、細菌すら通さぬほどごくごく小さな、均一な大きさの木炭の微粒子を大量に作り出し、それを粘土のような結合材に均一に混ぜ込み、高温で焼き固める。その際、焼成過程で木炭の微粒子が燃焼して消失すれば、その跡が極めて微細で均一な孔となり、理想的な多孔質構造のフィルター材になるのではないか? クレア先生は、材質は何でも良いと言っていた。木炭でも可能なはずだ。そして、サイズも、あの魔法陣の組み合わせをさらに細分化すれば、あるいは目に見えないレベルまで調整できるかもしれない。健康被害の懸念は残るが、生成プロセスをドラフト内で行うなど厳重に管理し、フィルターとして成形・固定化してしまえば、問題は最小限に抑えられるのではないか?
それは、まさに天啓とも言えるアイデアだった。クレアの「真球生成」の魔法が、彼の抗菌薬開発という、もう一つの重要な研究テーマに、思わぬ形で光明をもたらしたのだ。
レオナールの胸は、新たな可能性への期待で、力強く高鳴っていた。王都の街並みが、彼の決意を祝福するかのように、夕暮れの光の中で輝いて見えた。




