第九話:王都の学び舎
王立アステリア学院での本格的な授業が始まると、レオナールは貴族の子弟として求められる幅広い教養を身につけるべく、真剣に講義に臨んだ。午前中は、主に大講義室で一般教養科目が開講された。
「王国の歴史」の授業では、建国の神話から始まり、歴代の国王の治世、周辺諸国との戦争や外交の歴史、そして魔法がどのように国家の発展に関わってきたかが語られた。レオナールは、前世の歴史知識と比較しながら、この世界の文明の成り立ちや価値観の形成に強い興味を抱いた。特に、過去に存在したとされる「古代魔法文明」の盛衰や、度々記録に現れる大規模な「疫病」の流行に関する記述には、彼の関心が強く引きつけられた。時折、彼は講義内容の矛盾点や、記録の裏にあるであろう政治的意図について、的確かつ鋭い質問を投げかけ、担当の老教授を唸らせることもあった。
「王国法概論」では、身分制度に基づく法体系、土地所有の権利、契約や相続に関する法規などが解説された。レオナールは、将来領地を治める可能性も考慮し、これらの知識を確実に身につけようとした。特に、領地ごとの法律の違いや、教会が医療に与える影響(あるいは与えない影響)については、今後の活動において重要になる可能性があると考え、注意深く学んだ。
「政治学・経済学」の授業は、貴族として当然身につけるべき学問とされていたが、その内容はレオナールにとって、前世で触れた近代的な理論とは大きく異なり、多分に経験則や精神論に基づいているように感じられた。それでも、王国の統治機構や税制、主要産業(農業、鉱業、そして魔法関連産業)の現状を知ることは、この世界を理解する上で不可欠だった。
これらの授業において、レオナールの学習態度は他の学生たちとは一線を画していた。彼は常に最前列に座り、熱心にメモを取り、内容を深く理解しようと努めた。その落ち着き払った態度と、時に本質を突く質問は、教師たちからも注目される一方、一部の同級生からは「がり勉」「変わり者」と見られる原因にもなった。
(それにしても、この学院のシステムは独特だな……)
レオナールは、授業の合間や自室での時間に、学院の構造について改めて思考を巡らせていた。
(入学時の検査で、魔法の才能が特に秀でていると判断された上位一割ほどの学生だけが「魔法科」に進み、専門的な魔法訓練を受ける。彼らは、この共通教養に加えて、高度な魔法理論や実技に多くの時間を費やすことになるのだろう。だが、俺を含むそれ以外の大多数は「一般科」として、最初の二年間はこの共通教養科目のみが必修となる。午前中で授業が終わってしまう日も多い)
その結果、一般科の学生には多くの自由時間が生まれる。レオナールが見る限り、多くの学生がその時間を有効に活用しようとしていた。
(午後は基本的に自由時間……だからこそ、皆、騎士団コースの訓練に参加したり、芸術系のサークルに所属したり、あるいは特定の教授の研究室に出入りしたりしているわけか。俺も、この時間を無駄にはできない。目標達成のためには、専門分野の研究に早く取り掛かりたい)
彼は、学院の案内や規則書、そしてギルバートが集めてきた情報を読み解きながら、さらに先のシステムについても理解を深めていた。
(3年次からは、一般科も専門課程に分かれる……軍人を目指す「騎士科」、文官を目指す「政務科」、そして領地経営を学ぶ「領地経営科」。父上の意向を考えれば、俺が進むべきは領地経営科だろうが……その選択も、まだ二年先の話だ。それまでに、できる限りの基礎を築いておきたい。それに、政務科や領地経営科に進んでも、魔法科や騎士科ほどは忙しくならず、研究活動を続ける学生も多いと聞く。やりようはいくらでもあるはずだ)
さらに、卒業に関する規定も彼の興味を引いた。
(学年は6年制で、最終学年には各科ごとの卒業試験がある。合格率は九割程度……か。思ったより厳しいな。留年も珍しくないという噂は本当らしい。しかも、21歳までに合格できないと放校処分とは……貴族社会の厳しさの一端だな。……ふむ、修士課程?学部卒業が危うい者が、修士論文で学歴をロンダリングする裏技がある、と?面白い。まあ、俺には関係ないと思いたいが……研究を深めるために、正規のルートで進む可能性はあるかもしれないな)
学院のシステムを理解した上で、レオナールは改めて自分の置かれた状況と目標を見据えた。魔力量が平凡であることは、もはや彼にとって大きな問題ではなかった。重要なのは、この潤沢な自由時間をいかに活用し、知識と技術を積み上げていくかだ。
学院生活に慣れてくると、様々な同級生との関わりも増えた。大食堂や廊下、あるいは共通の授業で、好むと好まざるとに関わらず、交流が生まれる。
ある日の昼食時、学生で賑わう大食堂でのことだった。レオナールが一人で食事をとっていると、数人の上級生らしき男子生徒が彼のテーブルにやってきた。中央に立つのは、いかにもエリート然とした、魔法科の制服を着た生徒だった。彼らは、魔法適性検査でレオナールの魔力量が平凡だったことを知っているようだった。
「おい、君がヴァルステリアの……レオナール、だったか?辺境伯の息子にしては、魔力量はぱっとしないそうじゃないか。そんなんで、よく学院にいられるな?」
取り巻きたちが嘲るように笑う。典型的な、力(魔力)だけが全ての価値基準であるかのような、未熟なエリート意識の表れだった。
レオナールは、食べていたパンを置き、ゆっくりと顔を上げた。内心では(やれやれ、子供の序列争いはどこにでもあるものだな)と呆れていたが、表情には出さなかった。
「魔法の才能は、魔力量だけで測れるものではないと思いますが。それに、学院は魔法使いだけを育成する場所ではありません。私は、王国と我が領地に貢献するために、必要な知識と教養を学びに来ています」
穏やかな口調で、しかし毅然と答える。相手の土俵に乗らず、正論で返す。前世で、扱いにくい患者やその家族、あるいは病院内の政治的な駆け引きの中で培われた「大人の対応」だった。
魔法科の生徒は、予想外の反論に一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに顔を赤くして言い返そうとした。しかし、その時、別のテーブルから声がかかった。
「おいおい、魔法科の優等生が、新入生相手にみっともないぞ」
声の主は、大柄で快活そうな、騎士科の上級生だった。彼の周りにも数人の生徒がおり、皆、面白くなさそうな顔で魔法科の生徒たちを見ていた。どうやら、学院内では魔法科と騎士科の間にもライバル意識があるらしい。
魔法科の生徒は、騎士科の生徒たちを睨みつけたが、分が悪いと判断したのか、「ふん、覚えてろよ」と捨て台詞を残して立ち去っていった。
レオナールは、助け舟を出してくれた騎士科の上級生に軽く会釈した。
「ご助言、感謝します」
「気にするな。ああいう奴らはどこにでもいる。君も、なかなか骨があるじゃないか」
騎士科の生徒はニヤリと笑い、自分のテーブルに戻っていった。
また別の日には、廊下で高位貴族(侯爵家だったか)の息子に、家柄を理由に尊大な態度で絡まれたこともあった。辺境伯の家格を見下すような言葉遣いだった。
レオナールは、ここでも感情的になることなく、相手の家名を褒め称え、敬意を表する言葉を述べつつも、「家名に恥じぬよう、学業に励む所存です。失礼いたします」と丁寧に、しかしきっぱりと会話を打ち切り、その場を離れた。相手は拍子抜けしたような顔をしていた。
こうした出来事が何度か繰り返されるうちに、レオナールの周囲での評判は固まっていった。「ヴァルステリアのレオナールは、魔力量こそ平凡だが、頭が切れ、妙に落ち着いていて、大人びている。下手に関わると面倒なことになるかもしれないが、敵に回さなければ無害、あるいは頼りになるかもしれない」そんなふうに、良くも悪くも「一目置かれる」存在となっていったのだ。彼自身は、そうした評判を特に気にすることなく、自分の目的のために淡々と日々を過ごしていた。
彼の日常生活は、規則正しく、そして知的な探求に満ちていた。早朝に起床し、短い時間で身支度と朝食を済ませ、授業が始まるまで読書と思考にふける。午前中は講義に集中し、午後は真っ直ぐに大図書館へ。閉館まで、興味のある分野の文献を読み漁り、羊皮紙にびっしりとメモを取る。夕食は食堂で手早く済ませ、寄宿舎の自室に戻ると、その日の復習、メモの整理、そしてギルバートが集めてきた情報の分析に時間を費やす。
(ギルバートが集めた教授リスト……やはり、ターナー教授の「気体の研究」が、最も化学の基礎に近いか。評判は『変わり者』らしいが、研究内容は本物のようだ。よし、近いうちに、研究室を訪ねてみよう)
専門的な魔法訓練は受けられない。ならば、この有り余る自由時間を、知識の吸収と、自らの研究を進めるための時間に充てるまでだ。レオナールの心は、明確な目標に向かって、静かに燃えていた。