第八十二話:兎人の秘術と次なる一手
薬草商「緑葉堂」の倉庫裏手でミミルとリラと別れた後も、レオナールの思考は兎人族の「痺れの術」がもたらした衝撃と、それが示す可能性を中心に巡っていた。リラが彼の腕に施した局所的な感覚遮断。前世の医学知識を持つ彼にとって、それは既存の常識を覆す体験であり、新たな医療への扉が大きく開かれた瞬間でもあった。ミミルの屈託のない笑顔と、リラの少しぎこちないながらも真摯な協力。それらが、レオナールの心に温かい感銘と共に深く刻まれていた。
(まさしく、魔法による局所麻酔……。神経細胞の活動電位の発生と伝導を、魔力という未知のエネルギーを用いて選択的に、かつ可逆的に抑制しているとしか考えられない。リドカインのような薬物を用いずとも、これほどの効果が得られるとは)
効果範囲の限定性、意識レベルへの影響のなさ、副作用の少なさ、そして約半刻(一時間)という持続時間。ミミルが語った特性は、理想的な局所麻酔のそれと合致していた 。これほど洗練された技術が、一部の種族によって経験則的に伝えられていたという事実に、彼は世界の広さと未知の可能性を改めて感じずにはいられなかった。
(アンブロワーズのグライフ商会が兎人族の術者を重用し、高度な戦傷治療を可能にしている理由が明白になった。この「生きた麻酔技術」を核に、外科的処置を体系化しているのだろう。もし、この術を神経ブロックや、あるいは脊髄くも膜下麻酔・硬膜外麻酔といった形で応用できるのなら、この世界では不可能とされてきた大掛かりな手術も現実のものとなるかもしれない)
だが、その技術をどうやって広く医療に応用するか。グライフ商会のように兎人族の術者を独占的に雇用するのは現実的ではない。彼らの文化や生活様式を尊重するならば、なおさらだ。
(やはり、この『痺れの術』そのものの原理を解明することが本筋だろう。兎人族の協力を得て、魔法がどのように生体に作用し、感覚を遮断するのか、そのメカニズムを突き止め、人間でも安全に扱える新たな魔法として再構築する。あるいは……)
彼の思考は、より普遍的な麻酔法の確立へと向かう。兎人族の特異な能力に依存するのではなく、誰もが恩恵を受けられる技術体系を構築すること。それこそが、彼が目指すべき道だと確信していた。
(局所麻酔だけでは限界がある。より侵襲の大きな手術には、鎮静・鎮痛・筋弛緩という麻酔の三要素を満たす全身麻酔が不可欠だ。そのためには、まず呼吸管理。気管挿管と陽圧換気を行うための人工呼吸器の開発は、魔法工学の応用で実現できるかもしれない。そして、各種麻酔薬。吸入麻酔薬に類する気体や、オピオイド系の鎮痛薬、安全な筋弛緩薬、そして鎮静を目的としたベンゾジアゼピン系薬物……。これらの代替となる魔法、あるいはこの世界の物質からの精製・開発。それらを組み合わせ、安全な全身麻酔プロトコルを確立する。それもまた、外科医療を発展させるための、もう一つの重要な道だ)
ローネン州の毒物分析プロジェクトは一段落したが、元素の地図作り、細胞・微生物染色法の開発、そして新たに加わった麻酔技術と全身管理法の研究 。彼の研究テーマは尽きることなく、それを推進するための人手が圧倒的に不足していることを改めて痛感していた。目の前に広がる課題の山は、彼一人で抱えきれるものでは到底なかった。
数日前、彼はマルクス、クラウス、そしてセリアの三人に、個別で研究員として特別研究科への参加を打診する手紙を送っていた 。その返信が、数日後、彼の元へ届けられた。王立アステリア学院の物質科学研究センター内に用意された、レオナール専用の研究個室 。そこで彼は、期待と緊張の入り混じった面持ちで、三通の封書を順に開いていった。
マルクスからの手紙は、レオナールの誘いに対する喜びと、再び彼の元で研究に携われることへの強い希望で満ちていた 。薬草学と物質精製のエキスパートである彼の参加は、染色法開発や薬物探索において大きな力となるだろう 。
次にクラウスからの返信。こちらも協力を快諾する内容で、レオナールの科学的アプローチへの深い敬意が綴られていた 。精密測定と実験器具のエキスパートである彼の存在は、あらゆる研究の精度を格段に向上させるはずだ 。彼の几帳面で正確な仕事ぶりは、ローネン州の分析でも既に証明済みだった。
「二人とも来てくれるか……! これで研究の進捗も大きく変わるはずだ」
レオナールは、安堵と喜びの表情を浮かべた。信頼できる仲間と共に研究を進められることは、何よりも心強い。
しかし、最後のセリアからの手紙を読み進めるうちに、彼の表情はわずかに曇った。手紙は、レオナールの誘いへの深い感謝から始まっていたが、結論は彼の期待とは異なるものだった 。
『……レオナール様からの大変光栄なお申し出、身に余る思いで拝読いたしました。ローネン州での任務を通じ、レオナール様の卓越した知性と、人々の苦しみを救わんとする高い志に、改めて深い感銘を受けた次第でございます。
しかしながら、誠に申し訳ございませんが、現時点では、レオナール様のご期待に沿うことは難しい状況にございます。私は以前より、魔法省の認定とギルドの推薦を受け、所属する魔道具工房が「刻印回路技術者育成支援」の対象となっており、私自身も「認定刻印回路職人」として登録されております。この制度は、工房への補助金と、職人への一定の身分保障を伴うものであり、一度登録された以上、王国の魔法技術振興という公的な責務も負っております。そのため、ローネン州の調査団への参加は勅命という特例であったために可能でございましたが、個人の意思で工房を離れ、他の研究プロジェクトへ長期的に籍を移すことは、契約上、そして職人としての立場上、極めて困難なのです。
レオナール様のお誘いを断腸の思いでお断りしなければならないこと、重ねてお詫び申し上げます。いつの日か、私が刻印回路職人としてさらに技術を磨き、レオナール様の目指される医療の発展のためにお役立てできる日が来ることを、心より願っております。末筆ながら、レオナール様と特別研究科の益々のご発展を、陰ながらお祈り申し上げております』
「そうか……セリアさんは、刻印回路職人としての登録と、工房との契約があったのか」
レオナールは静かに息をついた。彼女の専門知識は、彼が構想する未来の医療機器開発に不可欠な要素だと考えていたが、職人としての立場や契約がある以上、無理強いはできない 。彼女の誠実な文面からは、苦渋の決断であったことが窺える。
(だが、彼女の言葉からは、俺の研究への共感も感じられる。いつか、何らかの形で協力し合える時が来るかもしれない。その時を待つとしよう)
彼は気持ちを切り替え、早速クラウスとマルクスの採用に向けて動き出すことにした。二人の協力が得られるだけでも、研究の推進力は格段に増すはずだ。
「ギルバート」
傍らに控える従者に声をかける。
「マルクス殿とクラウス殿から、特別研究科への参加を承諾する旨の返事が来た。学院の事務局に連絡を取り、彼らを正式な研究員として採用するための手続きを開始してほしい。研究予算は既に執行可能な状態にある。近いうちに、私とターナー先生も交えて、改めて面談の席を設けたい。その日程調整も頼む」
「かしこまりました、レオナール様。直ちに手配いたします」
ギルバートは、主人の声に確かな手応えと、研究が新たなステージへと進む予感を感じ取り、迅速に行動を開始した。




