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市場への小径、未知との邂逅

翌朝、レオナールの研究個室の扉が、まだ朝日も昇りきらぬうちにノックされた。昨夜、トーマスからもたらされた兎人族の行商人に関する情報は、彼の知的好奇心を強烈に刺激し、寄宿舎にも帰らずほとんど一睡もできないまま夜明けを迎えていた。


「レオナール様、トーマス様からの使いの者が参っております。昨夜の件で、至急お伝えしたいことがあると」

ギルバートの言葉に、レオナールは弾かれたように椅子から立ち上がった。

「すぐに通してくれ!」


使いの者は、ベルク商会の若い使用人だった。彼は緊張した面持ちでレオナールに一枚のベルク紙を差し出した。トーマスの走り書きだ。

『レオナール様、昨夜の情報について追って調査したところ、兎人族の行商人一行は、予定より早く、おそらく本日中にも王都城壁外の西側市場に到着する見込みです。彼らはまず、薬草の荷下ろしと検品作業を数時間かけて行い、その後、市場で必要な物資を買い付けてから、明日の早朝には自治区へ戻るとのこと。つまり、彼らと接触できる時間は、極めて限られています。しかし、幸いなことに、彼らの一団の連絡役兼先遣隊のような立場の者が、既に昨夜のうちに王都近郊の宿に到着しており、薬草商会の者と合流しています。その連絡役であれば、今日の午前中、本隊が到着し作業が始まる前であれば、比較的ゆっくりと話をする時間があるかもしれません。場所は、西側市場の外れにある、例の薬草商会の倉庫です。いかがいたしますか?』


「今日中……しかも午前中か」

レオナールは窓の外に目をやった。空はまだ薄暗い。時間はほとんどない。だが、この機会を逃すわけにはいかなかった。

「ギルバート、すぐに外出の準備を。トーマスにも、私が行くのですぐに手配を進めてほしい、と返書を頼む」

「かしこまりました。しかし、レオナール様、亜人族の方々との接触は、今回が初めてかと。くれぐれも慎重に……」

ギルバートの心配そうな言葉に、レオナールは頷いた。確かに、ヴァルステリア領では亜人との交流は皆無であり、王都に来てからも、市場などで遠目にその姿を見かける程度だった。彼らの文化、習慣、そして人間に対する感情。全てが未知数だ。だが、その未知こそが、彼の探求心を駆り立てる。


早朝のまだ人通りもまばらな王都を、レオナールはギルバートと数名の私服姿の護衛と共に、足早に西側市場へと向かった。市場は城壁のすぐ外に位置し、地方からの様々な物資が集まる活気のある場所だが、この時間はまだ準備を始めたばかりの店がちらほらと見える程度だった。

トーマスが指定した薬草商会の倉庫は、市場の喧騒から少し離れた、比較的静かな一角にあった。古い石造りの、しかし頑丈そうな建物だ。入り口で待っていたベルク商会の若い使用人に案内され、倉庫の奥にある小さな事務所へと通される。そこには、既にトーマスと、薬草商会の主人らしき初老の男性が待っていた。


「レオナール様、お待ちしておりました。こちらが、今回の仲介役を務めてくださる、薬草商『緑葉堂』の店主、エルダス殿です」

トーマスに紹介され、レオナールは丁寧に挨拶した。エルダスと名乗った男性は、穏やかな、しかし抜け目のない商人の目をしていた。

「ヴァルステリア公子におかれましては、ようこそお越しくださいました。トーマス殿からは、公子が兎人族が扱う特別な薬草、あるいは彼らの持つ特有の知識にご興味がおありだと伺っております」

「ええ、その通りです。特に、彼らが持つとされる、痛みを和らげる魔法について、ぜひお話を伺いたいと考えております」

レオナールの率直な言葉に、エルダスは少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。

「なるほど、あの秘術でございますか。確かに、あれは不思議な力です。私も長年、兎人族の方々とは薬草の取引をさせていただいておりますが、彼らが仲間うちで怪我の手当てをする際に、その魔法を用いているのを何度か目にしたことがございます。詳細は存じませんが……。さて、兎人族の連絡役は、もう間もなくこちらに到着するはずです。彼らは時間に正確ですからな」


エルダスの言葉通り、それから間もなく、事務所の扉がノックされ、一人の兎人族の男性が姿を現した。

レオナールは、息をのんだ。初めて間近で見る、亜人の姿だった。

背丈は人間とそれほど変わらないが、ピンと立った長い耳、ふさふさとした柔らかな毛並みに覆われた丸みを帯びた顔立ち、そして何よりも印象的なのは、ルビーのように赤い、大きな瞳だった。服装は、人間のものと変わらない、動きやすい革製の旅装束だ。腰には薬草を入れるための革袋をいくつも下げている。

「エルダスさん、約束通り来たよ。こっちの準備は万端だ。それで、こっちの若い旦那さんが、オラたちに何か用だって?」

兎人族の男性は、レオナールを一瞥すると、エルダスに向かって、まるで歌うような、独特の抑揚のある言葉で話しかけた。その言葉は、確かに人間の言語ではあったが、凄まじいまでの訛りがあり、レオナールは最初、何を言っているのか理解するのに苦労したほどだ。

「おお、ミミル殿、お待ちしておりました。こちらが、ヴァルステリア家のレオナール公子です。我々人間の間では、お若いながら大変高名な学者先生でもあらせられます。公子、こちらが兎人族のミミル殿。今回の行商の連絡役を務めておられます」

エルダスが、双方に紹介する。

「ミミル、と申します。以後、お見知りおきを。して、レオナール様、でしたかな? オラたち兎人族に、何かご興味でも?」

ミミルと名乗った兎人族は、赤い瞳でじっとレオナールを見つめた。その視線に敵意はないが、強い好奇心と、どこか動物的な警戒心が感じられる。

レオナールは、緊張を悟られぬよう、努めて穏やかな声で答えた。

「ミミル殿、本日はお時間をいただき、ありがとうございます。私はレオナール・ヴァルステリアと申します。薬学と、そして魔法について学んでいる者です。あなた方、兎人族の方々が、怪我などの際に用いるという、痛みを和らげる特別な魔法について、ぜひお話を伺いたいのです」


レオナールの言葉に、ミミルは長い耳をぴくりと動かし、少し意外そうな顔をしたが、すぐにニカッと人懐っこい笑顔を見せた。その表情は、先ほどの警戒心とは打って変わって、非常に軽い、悪戯好きな少年のようでもあった。

「ああ、あの『痺れの術』のことかい? なんだ、そんなことかい。いいよ、教えてやろう。別に隠すような大したもんでもないしねぇ」

あまりにあっさりとした返答に、レオナールは拍子抜けした。あれほどトーマスが「秘匿性が高い」と言っていた情報が、こうも簡単に…。

「『痺れの術』、と呼ぶのですか?」

「そうだよ。オラたちはそう呼んでる。ま、正式な名前なんてあるのかどうか知らんけどね。兎人族はね、あんまり魔法が得意な種族じゃないんだ。他の獣人族みたいに、身体能力が特別高いわけでもないしね。だから、この『痺れの術』だけは、オラたちにとってはちょっとした自慢の特技みたいなもんなんだ」

ミミルは、どこか楽しそうに語り始めた。彼の訛りは相変わらず強かったが、その言葉の端々からは、種族としての誇りのようなものが感じられる。

「この術はね、使えるヤツは結構いるんだ。だいたい、20人に1人くらいかな?」

「20人に1人……。それは、かなり高い確率ですね。その魔法は、具体的にどのような効果があるのですか? 例えば、意識がなくなったり、体が動かなくなったりすることは?」

レオナールは、前世の麻酔の分類(全身麻酔、局所麻酔、鎮静など)を念頭に置きながら、核心に迫る質問をした。

「いやいや、そんな大層なもんじゃないよ」ミミルは手を振った。「意識はなくならないし、体も普通に動かせる。ただね、術をかけられた場所が、なんだかジンジンと痺れて、痛みをあんまり感じなくなるんだ。怪我したところに術をかけて、傷口を洗ったり、折れた骨をまっすぐにしたりする時に使うくらいさ。だから、腹が痛いとか、頭が痛いとか、そういう体の内側から来る痛みには、あんまり効かないね。表面が痺れるだけだから」

(局所的な鎮痛効果……。意識消失や筋弛緩作用はない、と。前世で言えば、表面麻酔や浸潤麻酔に近い効果か? だが、魔法でそれを広範囲に、かつ安全に実現できるとしたら……。これは、非常に興味深い)

「その効果は、どれくらい持続するのですか? また、何か副作用のようなものは?」

「持続時間は、術者の腕にもよるけど、だいたい半刻(約1時間)くらいかな。腕のいいヤツなら、もう少し長く効かせられるけどね。副作用は……あんまり聞いたことないなぁ。術が切れた後、ちょっとだけ痺れた場所がだるく感じるくらいで、すぐに元に戻るよ。まあ、オラたちは昔から使ってるけど、それで何か大変なことになったって話は聞かないね」

ミミルの説明は、簡潔ながらも、レオナールの知りたい情報を的確に含んでいた。それは、前世の局所麻酔薬が持つ理想的な特性——限定的な作用範囲、十分な持続時間、そして低い副作用——に、驚くほど近いものだった。

「それは、非常に素晴らしい魔法ですね。あなた方の集落では、その魔法が使える方は、どのようにして特定されるのですか?」

「ああ、それは簡単さ。子供がある程度の歳になったら、集落の長老みたいな人が、全員に術の練習をさせるんだ。それで、才能があるヤツ、上手くできるヤツを見つけて、印をつけておくのさ。いざという時に、すぐに誰が使えるか分かるようにね。怪我はいつするかわからないから、準備は大事だからね」

(なるほど、集落単位で適性検査と能力者の把握が行われている、と。合理的だ)

「ちなみに、ミミル殿。あなた方の自治区には、多くの集落があると伺っていますが、他の集落の方々も、アンブロワーズ領のグライフ商会のようなところに、その魔法の技術を提供したりしているのでしょうか? 例えば、アンブロワーズで外科治療を行っているという兎人族の方々は、ミミル殿のご親族や、同じ集落の方々なのですか?」

レオナールは、アンブロワーズとの繋がりについて、それとなく探りを入れた。

ミミルは、少し首を傾げた。

「アンブロワーズ? ああ、あの北東の先の、山のほう? うーん、どうだろうねぇ。オラたちの自治区は、ここからだと森を抜けてまだ東に何日も行ったところだから、アンブロワーズとはそんなに近くないよ。それに、他の集落のヤツらが、どこで何してるかなんて、正直よく知らないんだ。少なくとも、オラの身内や、知ってるヤツがアンブロワーズに雇われてるなんて話は聞いたことないなぁ」

彼の言葉からは、兎人族の社会が、比較的分散した集落単位で成り立っており、横の繋がりは必ずしも強くないことが窺えた。そして、アンブロワーズのグライフ商会に協力している兎人族は、ミミルの属する集団とは異なる系統である可能性が高いことも示唆された。

「そうでしたか……。貴重な情報をありがとうございます。では、明日こちらに到着される行商人の方々の中にも、その『痺れの術』が使える方はいらっしゃるのでしょうか?」

「ああ、いると思うよ。いつも何人かはいるからね。薬草運びは重労働だし、森の中は怪我も多いから、術が使えるヤツは重宝されるんだ。もし、旦那さんが興味あるなら、明日、帰る前なら誰か紹介してやってもいいよ。ま、大したことは教えられないだろうけどね」

ミミルは、あっけらかんと言った。

(明日、直接、術者と話せるかもしれない……!)

レオナールの胸に、新たな期待が膨らんだ。今日の出会いは、大きな手掛かりを与えてくれた。彼はミミルに丁重に礼を述べ、明日以降の再度の面会を約束し、薬草商会の倉庫を後にした。彼の頭の中は、未知の魔法への興奮と、それを医学に応用するための無数のアイデアで満たされていた。

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